出雲、比婆山久米神社(伊邪那美神の御陵) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・出雲、比婆山久米神社(伊邪那美神の御陵)

 

 “比婆山というのは古事記の――(火の神、加具土の神を産んだため火傷して)神避りし伊邪那美神は出雲と伯伎国との境「比婆山に葬りまつりき」とある山のことである。伊邪那美神といえば須佐之男命の母神であり神話の順序によれば須佐之男命が活躍するのはまだ少し後の時代である。

 さて、その伊邪那美神の御陵があるという「比婆山」にみなされる山はあちこちに点在する。出雲で十カ所近くもあり、他に広島、鳥取、和歌山に一カ所ずつある。中世以来、その場所につき諸説議論のあったということだ。しかし王仁師は右の伯太町の比婆山が神陵のある比婆山であると昭和五年に断案されたのである。

 この山は確かに出雲国(島根)と伯伎国(鳥取)との境にある。もっとも今、地図には山名が載っていない。低いながらの一個の独立した山で周囲はより高い山が青垣をつくる。王仁師は見てもおられないのに、「その比婆山の墓所はひさご形をしているはず」と指摘され、関係者を驚かせられた。

 そして現在、よりによってこの比婆山が無残に採石業者によって傷つけられてしまったのである。戦後は戦前の反動で比婆山の場所を詮索することもしなくなった地元民は採掘に沈黙を守るのみであった。地元の大本信者は王仁師によってここが神陵のある真の比婆山であるから無視できなかった。急いで町長、教育長に具申すると共に、山頂にある陵とそのすぐ前にある久米神社前で環境保全、公害防止の祈願祭をおこなったのである。昭和四十七年十一月二十六日のことだ。この祭典については毎日新聞島根版で「神のふるさと比婆山を守ろう――小さな運動芽を吹く」との大見出しで報道され、同時に人類愛善会野城分会の進めてきた比婆山保存運動も紹介された。

 翌年の石油ショックで開発ブームも去り、おかげで現在は比婆山採掘も小康を保っているようである。

 さて、小生も篤信の地元の方々に誘(いざな)われいたく恐縮しながら三百三十メートルの山頂へ登った。途中には陰陽竹という天然記念物が繁茂する。茎は男竹、葉は女竹で笹の新種でここにしか存在しないものである。

 さほど広くない山頂には久米神社があった。安産の神社といわれた。祭神は伊邪那美神他である。神社の後方に命の御陵がある。最古の陵であるから大きいのかというとそうではなく小じんまりとしたものだ。この比婆山に葬られている伊邪那美神といえば淡路島からはじまる国生みをなされた神である。国生みをなされた神のお墓のある山が逆に削りとられようとするのだから皮肉なものである。

 小生、山頂で伊邪那美神になりかわり(?)、人間というものは忘恩もはなはだしいではないかといきまき、地団駄踏んだ。勢いあまって山頂から落ちそうになったが、あやういところで誘い案内して下さった〝誘ナノ神〟に片足をつかまれ事なきを得た。

 この山の麓を流れて中海にそそぐ伯太川の流域に咲く珍しい白萩(イヌハギか?)が王仁師の命によって天恩郷に昭和二十二年に植えられている。なお赤萩(ミソハギか?)は、大山の赤萩が昭和四年頃とニ十一年に天恩郷に植えられた。王仁師は白と赤のハギが昭和二十二年にそろったことを大そうよろこばれたそうである。赤は火で日の大神の象徴、白は水で月の大神の象徴ということだ。大山は出雲国風土記には火神(ひのかみ)とある一方、比婆山に葬られている伊邪那美神は大本で月の大神であり、「みず御魂」と説かれている。

 王仁師によれば、比婆山一帯は神代の出雲王朝のあったところという。(藤代和成)”

 

        (「人類愛善新聞」昭和53年3月号 『神代の淵源を求めて③』より)