《前編》より

 

 

【日高見国】

 日高見国とは「太陽が昇るところを見る国」ですから、・・・(中略)・・・、東の関東・東北を想定することによってはじめて、・・・(中略)・・・理解できるのです。

 『延喜式』にある「延喜式神名帳」を見ると、江戸時代まで天皇家と関係する神宮は三つしかなかったことがわかります。その三つとは、「大神宮(伊勢神宮内宮)」「鹿島神宮」(茨木県鹿嶋市)「香取神宮」(千葉県香取市)です。三つのうち二つが関東にあり、しかも互いの距離は二十キロほどしか離れていません。そして、この二つの神宮は垂仁天皇の御代に建てられた伊勢神宮よりもはるか昔に創建されていることが明らかになっています。

 鹿島神宮と香取神宮は今では千葉と茨城に分かれていますが、どちらも常陸国にありました。一つの国に天皇家と関係する二つの宮があるというのは、そこが日高見国がある場所であり、そこに天皇家の故郷、すなわち高天原があったとは考えられないでしょうか。(p.33-34)

 山陰の出雲との関係で日高見国を認知している人なら、日高見国は、山形・秋田・青森の日本海側の地域が中心だと思っているはず。

 ところが本書では、日高見国は、太平洋側の茨木(常陸国)が中心だといっている。

 この考え方の違いは、沖縄から日本海側に流れる海流に乗って渡来した人々か、沖縄から太平洋側に流れる海流に乗って渡来した人々か、によって生じている。ざっくり言うなら、前者は出雲系(鏡族)、後者は伊勢系(阿波族・安房族)ということになるだろう。

  《参照》 『日本の神々と天皇家のルーツ』天無神人(ナチュラルスピリット)《中編》

         【大巫女の御魂がいらっしゃる神社】

 ところで、「関東・東北にあった日高見国の中心は常陸である」という本書の内容は、百嶋資料を手にしている人々にとっては、「大歓迎!」な見解に違いない。

  《参照》 『ショッキングヒストリー』宮古・河野克典(ヒカルランド)

           【百嶋資料】

 

 

【記紀神話による日高見国誕生ストーリー】

 最初に現れた天之御中主神は太陽神、自然神であり、中心の神です。この天之御中主神は日高見国の最初の頭目であると考えられます。そのあとに高御産巣日神、神産巣日神という「ムスビ」と名のつく2神が現れます。この「ムスビ」には人々を結ぶ、統一するという意味があります。特に二番目に現れた高御産巣日神は日高見と非常に音が似ているところから、日高見国を統率した氏族の系譜として見ることができます。(p.45)

 氏族として存在していた人たちの名が神の名前に反映されて、日本に神話がつくられたのだろうと推測できます。(p.47)

 高御産巣日神と日高見国の音が似ているって、ちょっとした “目から鱗” かも。

 造化三神によって成立したという内容が意味するのは、記紀神話は、秦氏によって書かれたということ。

  《参照》 『「隠岐」の謎』 飛鳥昭雄・三神たける(学研)《前編》

         【 物部神道 と 秦神道 の 裏表 】

 

 

【天孫降臨のはじまり】

 天孫降臨は日高見の中心地である鹿島から九州の鹿児島へ船で移動していくことがはじまりだったと私は考えています。その第一の目的は、朝鮮半島を通って次々に渡ってきていた帰化人たちから九州を守ることです。(p.53)

 天孫降臨とは、神武天皇が、九州の日向から畿内へと侵攻して大和王朝を確立する過程、と学校で習ったはず。

 で、その神武天皇は、沖縄経由で日本に来ているという内容の、下記リンクにあるような本を何冊か読んでいるけれど、

  《参照》 『日本の神々と天皇家のルーツ』天無神人(ナチュラルスピリット)《後編》

         【神武天皇の母】

  《参照》 『沈んだ大陸スンダランドからオキナワへ』大宜見猛(ヒカルランド)《後編》

         【神武天皇生誕の地】

 それらが正しいのなら、本書の内容は、神武以前に日本に渡来していた同系の氏族が、既に日高見国を形成していて、彼らが国防のために九州へ赴いた話に、神武の渡来を被せて、天孫降臨という日本国の東西統一を成し遂げる話にしちゃったと考えればいいだろう。

 つまり、神武東征に先だって、日高見西征(西移)があったんだよ~~~🐭こと。

 

 

【鹿島と鹿児島】

 「かしま」が「鹿島」と表記されるようになったのは『続日本紀』(797年成立)が最初で、それ以前の古い文献を見ると頻繁に「香島」と書かれています。この「香島」は「かぐしま」といっていた可能性もあります。(p.56)

 へぇ~。なら鹿島神宮と香取神宮は、どっちも香が付く香島神宮と香取神宮。20km程度の近場だから十分ありうるだろう。

 鹿児島という地名がなぜついたかわからないと鹿児島県の人たちもいいます。・・(中略)・・。しかし、鹿島を香島、さらに「かぐしま」ととらえると、天孫降臨の地である鹿児島とほぼ同じ名前になることは重要です。

 鹿島では12年に一度、「御船祭」という大規模な祭りが開催されます。・・(中略)・・。これは鹿島から鹿児島まで船団を組んで向かった記憶がもとになっているのではないかと私は推測しています。(p.56)

 《参照》 『日本霊界風土記 鹿島』深見東州(たちばな出版)

        【御船祭】

 旅の出発を示す「鹿島立ち」という言葉があります。白村江の戦い(663年)で敗れた日本軍は大陸からの侵攻に備えて九州に兵を送りました。常陸国で集められた防人が鹿島から九州に船で出発することをいったのです。(p.56-57)

 「かぐしま」「御船祭」「鹿島立ち」。ド真ん中・直球・どストライク3本!

 「東(あづま)」と「薩摩(さつま)」も似ている。

 まあ、どストライク3本だとしても、本書の記述内容は文献にある時代、即ち弥生時代以降の話である。

 縄文から弥生への遷移過程で起こっていたであろうことは、下記リンクに記述されている。

 《参照》 『伊勢神宮に秘められた謎』坂本政道(ハート出版)《前編》

         【香取神宮と鹿島神宮の要石】

         【鹿島神宮にて】

         【龍神との交信】

 

 

【朝廷と東国(日高見国と蝦夷)】

 天孫降臨以降、日高見国の人々が徐々に西に移住したため、東国の力は弱まりました。しかし、もともとは建御雷神(タケミカヅチノカミ)を祖神とする武人たちの国ですから、まだまだ力は健在だったのでしょう。だから古墳時代には日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征を行い、抑えにかかったのです。坂上田村麻呂が征夷大将軍として行った蝦夷征伐も同じことだったと考えられます。(p.154)

 日本武尊は古墳時代(4世紀頃?)、坂之上田村麻呂は奈良時代(8世紀)の人。

 天皇家はもともと高天原系=日高見にルーツをもつと述べましたが、同じ日高見系の人々の征伐を行うというのはどういうことでしょうか。一つには、仏教を入れるときの争いで日高見国系の物部氏が帰化人系の蘇我氏に敗れ、天皇を支える勢力が日高見国系の人々から帰化人系あるいは神武東征のときに従った関西系の人々に変わったことが考えられるでしょう。もう一つは、日高見国そのものの記憶が薄れていて、単に東北にいる独立性をもつ夷(えびす)がいるから征伐しなければならないという認識になっていたことが考えられます。(p.154)

 本書内で “蝦夷” に関する内容、というか、単語が記述されていたのは、p.71 p.119 と上掲の p.154 だけ。

 『火怨』の思い(下記リンク)を引きずって本書を読んでいたチャンちゃんは、“蝦夷は、日高見国以前から日本にいた縄文人たちの末裔” という思いで、本書に更なる情報を期待していたから、「クテッ」って感じで、この件はサドンデス的に終了である。つまり、成果ゼロ。

  《参照》 『火怨(下)』高橋克彦(講談社)《1/3》

          【斐本】

          【蝦夷―物部―朝廷】

 

 

【日本武尊と坂上田村麻呂】

 そもそもからして、チャンちゃんには、「東征に行ったとされる日本武尊と坂上田村麻呂は、力による東北平定を目的としていたのだろうか?」という疑問がある。

 この時代、目に見えざる世界は、現代人よりも強く認識されていた。下記リンクにあるように日本武尊が素盞嗚尊の生まれ変わりであったのなら、日本武尊が前世の自分の血族に縁ある日高見の地の征伐をするとは考えられない。東西の日本統一を目指していたのなら、力によってではなく、霊的融和による統一を目指していたはず。

  《参照》 『「秀真伝」が明かす超古代の秘密』 鳥居礼 (日本文芸社) 《後編》

         【ソサノヲとヤマトタケ(素盞嗚尊と日本武尊)】

 坂上田村麻呂にしても同じだろう。坂上田村麻呂は、蝦夷たちの祖先神を祭っていたであろう日高見国内にある数々の神社を巡り、これらの神域を整備すべく、神階昇格を幾度となく朝廷に申し出ていたのである。あくまでも霊的融和による統一を目指していたのである。あるいは、大陸側からくる邪力を防ぐべく、日高見国の神霊界を賦活するためにこそ東国へと赴いていたのだろう。それらの形跡は、北門鎮護・岩木山神社に残っている。

  《参照》  岩木山神社

 東という字が誤解を招く。東国を伐したのではない。東国を霊的・融和的に大和国に取込むことをめざしたのだろう。

 日本国は、縄文時代の遥か昔に、「命の繋がりの神の概念」が巫女たちによって運ばれ、託された世界で唯一の国だった権力欲しかない凡庸以下の統治者ならいざ知らず、白鳥座の御魂を持つ日本武尊や、霊力に秀でた坂上田村麻呂が、それを知らなかったはずがない。

  《参照》 『 【宇宙の創造主:マスター】との対話① 』天無神人(ヒカルランド)《後編》

        【巫女たちのルーツと「命の繋がりの神の概念」】

 

 

【平将門と日高見国】

 将門は桓武天皇の子孫を名乗る桓武平氏の出で、承平五(935)年、常陸の国府を襲い、関東八国を手中におさめ、新皇を称しましたが、朝廷が鎮圧する前に、豪族の平貞盛・藤原秀郷に打ち取られました。すでに述べたように常陸は日高見国の中心地です。そこには日高見国の子孫たちが残っていたことでしょう。そこが関西系の中央政府に国府として支配されていたことに対する反発もあったはずです。将門は自ら新皇を名乗るほどの野心家でしたが、関東の正当性を日高見国に見て、ここに新しい政権を打ち建てようとしたものと推測できます。(p.184)

 東京都内の主要な神社を含め、関東にある神社の多くは、主祭神が誰であれ、境内にある摂社や末社には、日高見(出雲・物部)系の神々をテンコ盛り祭っているのが普通ですね。これも、将門さんの “怨念” じゃなくて “真っ当な思い” がそこそこ報いられているからなのかもしれません。

 将門と聞けば、皇居の東側にある「将門の首塚」から、オドロオドロしい怨霊級の怖いオッチャンと思っている人々が多いのかもしれません。能天気なチャンちゃんも、つい先ごろまでそんなもんでした。チャンちゃんと同じように思っていた人は、「将門さん、ごめんなさい」って心の中でチャンと謝っておきましょう。

 

 

<了>