《前編》 より

 

 

【玉城には不思議がいっぱい】

 玉城の地には、不思議に宮古によく似た雰囲気がある。人々の気質もそっくりという人もいる。植生も似たような感じがある。

 どうして、と考えていて、ふと気がついた。そうなのだ。この地は沖縄本島でも唯一、琉球珊瑚石灰岩の地層の上にできた土地だったのだ。宮古と同じ!

 アマミコの降り立った百名の浜辺の、ヤハラツカサの神威漂う太古の昔の御嶽、その名が浜川なんて。どうして宮古の伊良部に多い名前が出てくるのだ。

 沖縄随一の聖地、玉城ぐすくの中に「伊良部の殿」の拝所がある。どうして、宮古の伊良部島の名が、こんなところにでてくるのだ。玉城には不思議がいっぱい。 (p.114-115)

 伊良部島は宮古諸島のひとつで、伊良部島は白龍が住む島。伊良部島と宮古島は橋でつながっている。

 もう一つ、「垣花」という地名・人名について記されている。

 玉城で垣花がつくのは、垣花御嶽と垣花集落と垣花樋川です。

垣花御嶽の祭神の名は「アフィハナツカサの御(う)イべ」で、創世神アマミコの次男という伝えがあります。(p.115)

「アフィハナ」は、垣花の古称。

 ともあれ、垣花氏が沖縄全域の中で、玉城と宮古に集中的に残っているという事実は、天孫族北上の伝承を見るうえで、大変重いと見て良いのではないでしょうか。(p.117)

「宮古島」と「沖縄本島の玉城」の関連だけ書き出したけれど、それだけではない。

伊勢神宮のある伊勢市の西隣に玉城という町がある。沖縄の玉城が元だろう。

 

 

【宮古島・久高島・青島】

 ジョージ・H・カー著の 『琉球の歴史』 をもとにした記述の中から。

 カー博士の記述に見える「青島」は大変神秘的な島です。全島クバ(学名・ビロウ)の原生林に覆われたさまを見ると、誰しも即座に黒潮という大河と南の島々と、そして民族の流れに思いが至るに違いありません。

 私の頭に浮かんだもうひとつのことは、クバのやたらに多かった昔の宮古島と久高島のクバウ御嶽のことでした。

 宮古島の久高島も、大昔は青島と同じようにクバの原生林がうっそうと繫る島であったことが容易に想像がつきます。

 開闢神話の聖地、久高島とその南の一番近い宮古島と青島をつなぐクバの森が古代の謎を解く糸口になるのでは、という思いが長く私の頭から離れません。(p.130-131)

 なるほど、「クバ」と「黒潮」を鍵にすれば、天孫降臨の地が宮崎だったことの説明ができる。

 久高島は、斎場御嶽と対をなす、神聖な島。

 なお柳田国男も、クバに対する宗教的畏敬の念が古代朝廷に広く浸透していたこと(『古事記』)を見て、民族の北進を立証できるとしています(阿遅摩佐の島)。

 ちなみに沖縄ではクバは古来神の木と呼ばれてほとんどの御嶽はクバに囲まれています。植物の中で唯一神秘性に富み、クバに囲まれた空間に入ると、人皆深い心の安らぎを覚えます。なぜクバが霊気を発するのか。私はただただ宇宙の神秘を感じるのみです。(p.186)

 

 

【神武天皇生誕の地】

 建国の父、神武天皇は2~3歳のころまでは沖縄にいた。つまり生誕の地は沖縄であったことをこの機会に明記しておきます。

 ところで、神武天皇の古里が沖縄だと言ったのは私がはじめてではないのです。

 太古の昔から庶民の間でひそかに語り継がれていることです。

 ツタエの大本は神女たちで、昔、ノロと尊ばれた人たちの、その神がかりの仕事を引き継いでいる、いわば後継者の神女たちによって脈々と伝わってきているといわれます。

 それは彼らの大先輩たちが、かつて今帰仁と伊平屋で、東征出陣(天孫降臨)の大祈祷という空前絶後の大事件に遭遇しそれを担当したからです。 (p.133)

 神武東征の祈願祭は、「しぬぐ」という祭祀によって、今日まで伝わっている(p.187)と書かれている。今帰仁村は、沖縄本島の真ん中あたりで東シナ海側にある。伊平屋島は、今帰仁から50kmほど北の沖にある島。

 神武天皇は沖縄で生まれた、という見解は、下記リンクにも記述されている。

  《参照》  『なぜ日本中枢の超パワーは「天皇」なのか』 中丸薫・ベン・アミー・シロニー 《後編》

            【悠仁親王誕生の秘話】

            【沖縄海域】

 下記リンクには、神武天皇のお母さまは宮古島出身の方であることが書かれています。

  《参照》  『日本の神々と天皇家のルーツ』 天無神人 (ナチュラルスピリット) 《後編》

            【神武天皇の母】

 

 

【護衛戦士団・久米部】

 『古事記』に「久米部」という部族の名が見えます。天孫降臨のときに大伴隼人軍とともに天孫ニニギノミコトの護衛にあたった戦士団のことです。・・・・・(中略)・・・・・。

 久米部は神武天皇を身近で護衛した近衛兵団と分かっていますが、正体は一切不明で古代史の謎のひとつです。

 近衛親衛隊なら、一番身近な親しい者たちで編成されるのが普通でしょう。ところが、隼人とは違うという。ならばもっと親密で気心の知れた人たちが、ほかにいたことになります。

 私はこれこそ、沖縄出身の戦士団と見ているのです。あるいは精強をもって鳴る久米島部族を中心とする部隊だったとも考えられる。伝承によると、波華でのナガスネヒコ軍との戦いで大半が戦死して、のち、兵員の補充がきかぬため、大伴隼人軍に編入されたといわれます。 (p.141)

 久米島は、沖縄本島の西側100kmほどの所にある。沖縄本島の今帰仁と久米島と伊平屋島は、沖縄本島の北西側を流れる海流の流域にある。

 彼らは出征の際は、故郷沖縄の家族のもとへ復員するつもりでいたでしょうが、ついに一人も帰れず、大和に骨を埋めたものと思われます。神武天皇を祀る橿原神宮のそばに、「久米」という地名が残っています。(p.142)

 橿原神宮の南、近鉄線の橿原神宮前駅付近は、「久米」という地名になっている。

 

 

【スンダランド仮説】

 海洋学者・多紀保彦氏の『魚が語る地球の歴史』によると、・・・・・(中略)・・・・・。

「およそ100万年前から1万年前にかけて何度も氷河期が訪れ、現在のマレー半島からインドネシアなどを含む海域はそのたびに陸地化した。

 オーストラリア大陸にも匹敵するといわれる大陸がスンダランドである。

 スンダランドは、アジア人全体の共通の故郷のようなものである。(p.196)

 タイトルが示しているように、著者さんは天皇家のルーツを、中央アジア⇒インド平原or長江南部⇒東南アジア⇒スンダランド、だと考えているらしい。下記リンクにあるトラジャは、スンダランド仮説に嵌りそう。

   《参照》  『宇宙人と闇の権力の闘いが始まりました』 田村珠芳 (ヒカルランド) 《後編》

            【ミンダナオやニューギニア地域】

 日本人のルーツである天つ族は、スンダランド北東域(現在のフィリピン寄り)の黒潮流域に住み、ポリネシアなどの南方海域に近いインドネシア北東部あたりにラピタ族が住んでいた、とも書かれ(p.208)ている。

    《参照》  『海のモンゴロイド』 片山一道 (吉川弘文館)

 とはいえ、チャンちゃんは、地球風水である 『ガイアの法則』 に即して、地球上の文明活性点は東西に遷移すると思っているから、スンダランド仮説を援用すると、ほぼ南北方向のみの遷移になってしまい、地球全体に跨るダイナミックな 『ガイアの法則』 が適用できなくなってしまう。つまり、オモロナイ。

 この点に関しては、スピリチュアルな視点で記述されている下記リンク著作が、オモロイ。

   《参照》  『日本の神々と天皇家のルーツ』 天無神人 (ナチュラルスピリット) 《前編》

              【日本民族のルーツ】

 

 

【天御中主・カミムスビ・タカミムスビ】

 高天原神話の玄妙な世界では、この高天原というところに最初に出現したとされる天御中主神ほか二柱の神が、最も偉大なるクリエイター(建国者)ということになるでしょう。・・・(中略)・・・。

 天御中主を知る手がかりはひとつしかありません。古代中国の史書 『新唐書』 「日本伝」 の中の次の記事です。

 

  その王の姓は阿毎(あま)氏である。自ら言う。

  初主は天御中主と号す。彦瀲(ひこなぎさ)に至る。

  およそ三十二世。みな尊をもって号とし筑紫城にいる。

  彦瀲の子、神武立ち、さらに天皇を号とし、うつって大和州を治める。

       (安本美典『邪馬台国と高天の原伝承』)

 ・・・・・(中略)・・・・・。

 つまり、紀元前10世紀のころ、天つ族の天子(天御中主)と皇妃(かみむすび)、天御子(皇子たかみむすび)の一行は、スンダランドでの最後の移住国の出発を見届けて、しんがりで出発、黒潮の奔流に乗ってやがて基地宮古に到着しました。(『古事記』は天御中主を顔を出してすぐ消えたと記しています)。皇子天御子は、高齢と疲労で体調を崩してほどなく他界した父母の弔いでしばらく滞在したのでしょう。 (p.219-220)

 沖縄本島では、天御子(あまみく)のツタエは散見するが、天御中主の名はまったく聞かれない。ということは天御中主は本島に来なかった、つまり皇妃のかみむすびの神ともども、宮古で客死したのではないかと考えられる。本島の玉城の百名の浜に上陸した天御子は皇子のたかみむすびの神ということになろう。(p.224)

 この記述にある通りだとすれば、沖縄本島の近くの浜比嘉島にあるアマミチューの墓は、たかみむすびの墓ということになる。アマミチュー=アマミキヨ=アマミク=アマミコ(天御子)。ついでに「みこ」を漢字にすれば、巫女、御子、皇子。

 紀元前10世紀は、この国にとって夜明けという言葉がぴったりするような、目覚ましい新時代の到来であったのです。(p.220)

 私は皇子天御子と太伯の運命的な邂逅はそのとき起きたと見ています。(p.221)

 天御子と太伯との仲を取り持ったのは、本島沖縄玉城の創生神伝承より推考して、天御中主の弟(天御子の叔父)アフィハナテルツカサノウイベ(阿父照る司の御畏方)=垣花氏であると、著者さんは推測している。

 

 

【漲水御嶽】

 そして(宮古で)客死した二柱の神の証しがほかならぬ漲水御嶽ではないかということである。・・・・・(中略)・・・・・・。幸いにも御嶽の本名が他にしっかりと残されていた。「ツカサヤー」である。「ツカサ」は首・長・天子。「ヤー」は家。つまり天子の(眠り給える)家(風葬墓地)」なのである。(p.224-225)

 漲水御嶽は、天子(天御中主)と皇妃(かみむすび)の墓であるといっている。

 漲水御嶽は、宮古島の市街地、平良港の近くにある。

 

 

【ヤハラズカサ】

 次に古代伝承で天御子(創世神)が上陸したとされる本島玉城(たまぐすく)の百名の浜の岩礁の拝所(うがんじょ)「ヤハラズカサ」について関連を考えてみたい。従来は「ヤハラ」をやわらかと解して単なる穏やかな海浜風光の標示とされてきた。然し北進説でみると意味が180度異なる。

 ヤハラを発声の通り八原(四方八方の原(くに)、高天原の原)と解くと、ずばり「八原(天下)を統べる天子」の謂れとなる。つまり、大移動の完結を果たした天子が第一歩を印した日本国発祥の場所を地名として未来永劫に残したということになる。宮古島と玉城は、大移動の要の根拠地である。そして所名に「ツカサ」は沖縄全島でこの二カ所にしかない。偶然の一致など考えられない。(p.225)

 「ツカサ」を名にもつ2カ所とは、

 宮古島にある「漲水御嶽」の本名「ツカサヤー」 

 そして

 沖縄本島の玉城にある「ヤハラズカサ」

 ヤハラズカサの場所は、下記リンクに取り込まれている写真の中にあります。

   《参照》  アマミキヨの道

 

<了>