《上巻》より

 

 

【欲が深すぎるぞ。こんな都を持ちながら】

 都にやって来ていた蝦夷のリーダーたちの会話

「市は物で溢れかえっておる。食い物から絹や刀まで、ないものを思いつく方がむずかしい。かほどに満たされていながら、なにゆえ陸奥に固執する? 攻め取りたいのは我らの方だ。そこがどうにもわからんな」

「黄金だ」

「そりゃ承知だが------」

 伊佐西古は母礼と向き合って、

「仏像を造る以外にさして役立たぬ物。我ら蝦夷には無縁のものではないか。礼を尽くして、くれと言うたら考えぬでもない。それを刀で奪おうとするから戦となる」

「我らに無用の物と承知ゆえに頭など下げたくないのだ。伊佐西古とて、もし都の者らが魚を食わずに道端に捨てておれば、断らずに持ち帰るであろう。要らぬ物を持ち去ったとてなにが悪いかという気でな。大事な魚と分かっておれば銭や頭を下げて手に入れる」

「そういう理屈か?」

「まぁ、そんな簡単なことでもなかろうが、根底はそこにある。黄金などどうでも構わぬと見過ごした我らの側にも責めがあろう」

 母礼は溜息とともに返した。蝦夷にとって黄金は今でも無用の長物であるのだが、その黄金が海の向こうの唐では銭の代わりになることを母礼は知っている。それを何代か前の蝦夷たちが承知してさえいれば、もっと別の対応ができたに違いない。取り放題にさせてしまったことが今に繋がっている。掘れば自由に入手できた黄金に対して朝廷がいまさら蝦夷に頭を下げる気にはならないのだ。

「欲が深すぎるぞ。こんな都を持ちながら」

 伊佐西古の憤慨に皆は頷いた。(p.14-15)

 

 

【なぜ都の者らは疑いを持たぬ?】

「噂以上のものだったぞ。八年もかけて造っただけのことはある。あれではいくら黄金があっても足りぬのが当たり前だ。我らは無駄なものと侮っていたが・・・美しくて思わず身震いした。あんなものを拵えながら、なにゆえ蝦夷の命を軽んじるのか・・・俺にはそれの方がわからん。都の者たちにとって仏とはなんなのだ?」

 阿弖流為の言葉に飛良手も頷いた。

「仏は殺生を堅く禁じているのであろう? 貴族は仏罰を恐れて獣ばかりか魚さえ口にせぬ者もおるそうだ。それでいて蝦夷を滅ぼすことは何とも思っておらん。蝦夷などは殺生にも値せぬと言うことか」

「都のほとんどの者が、蝦夷より仕掛けられた戦さと信じ込んでいる。襲い来る敵を打ち払うのは殺生と違う」

 母礼はあっさりと応じた。

「帝は仏によって守られている身。それに敵対する者は獣以下という理屈になる」

「伊佐西古の怒りが俺にも分かってきた。なぜ都の者らは疑いを持たぬ? 蝦夷が陸奥でどれほど兵たちに痛めつけられてきたか考えようとはせぬのだ」(p.23-24)

 情報操作は、昔も今も為政者たちの得意技。奸智にたけた支配者たちは、情報操作することで自らの正当性をどのようにでもでっちあげる。第二次大戦においては、日本国が蝦夷と同じ立場だった。

 《参照》 『ついに来たプラズマ・アセンションの時』池田整治(ヒカルランド)《後編》

        【ヴェノナ文書】

 しかしながら、今やインターネットの発達で、こういった情報操作は、そうそうやすやすとは通用しなくなっている。であるにもかかわらず、いまだにマスゴミを支配している世界支配者たちの作為に気づいていないのなら、もはや救いようのない完璧な愚民である。

 今日の直近事例でいうなら、「世界規模で企まれたコロナ対策のワクチン接種は人口削減のための陰謀だった」と、いまだに気づいていないのなら、完璧な愚民である。そういう人が、この小説の時代に生きていたら、「蝦夷は蛮族だ。征伐せよ!」と思い込む都の者たちに該当する。

 

 

【蝦夷政策の目的】

「遷都をやり遂げるには、民までも含めて皆も心を一つに纏めるのが肝要だ。心が揺れ動いていては必ず途中で潰れる」

「・・・」

「蝦夷政策はそのためのものだ」

「は?」

「そなたらの脅威を人心に植え付けることで皆の心を一つにしようとなされている。蝦夷が今にも都へ攻め上ってくるかもしれぬと皆が恐れればお帝の力にすがるしかなくなるだろう。お帝がしきりに蝦夷討伐をお口になされるのはそういう意味だ。むしろ今度の大敗をお帝自身は喜んでおられるやも知れぬ」

 阿弖流為は呆然として田村麻呂を見詰めた。(p.66)

 当時の、蝦夷を利用した朝廷。現在の日本を利用している中国。こういった政治手法を、中国では「指桑罵槐」と言っているけれど、腹黒いのが普通である政治においては、ごくありふれた常套手段。

  《参照》 『マンガ 中国入門』 黄文雄 (飛鳥新社)
         【日本人留学生の破廉恥寸劇事件】

 若く純粋な阿弖流為は、呆然として受け止めていたのだろうけれど、物部の天鈴は、田村麻呂のような “政策としての側面” だけで考えてはいない。

 

 

【斐本】

 物部の天鈴と、蝦夷の阿弖流為との会話

「蝦夷はもともと出雲に暮らしていた。出雲の斐伊川流域が蝦夷の本拠。斐伊を本とするゆえ斐本(ひのもと)の民と名乗った。それがいつしか日本と変えられて今に至っておる。宮古や玉山金山の辺りを下斐伊(現在の岩手県下閉伊郡)と呼ぶのもその名残」(p.113-114)

 この説は初めて読んだけれど、岩手県出身の著者さんが書いているのだから、むしろインパクトがある。

 続いて以下の会話が記述されている。

 

 

【蝦夷―物部―朝廷】

「出雲を纏めた大国主命が蝦夷の祖先にあたることは俺の親父からも聞いておろう。・・・(中略)・・・。その大国主命の子の一人に長髄彦という者が居て、大和を纏めていた。一方、われら物部の先祖はニギハヤヒの神に従って海を渡り、この国にやってきた。ニギハヤヒの神は今の天皇の遠祖と言われるスサノオの命の子であったらしい。本来なら大国主命と敵対関係にある、なのにニギハヤヒの神は長髄彦の妹を妻に娶って大国主命の親族となった」

「なぜにござる?」

「強引に国を奪うをよしとせなんだのであろう。ここに今の天皇の祖先たちが乗り込んできた。大国主命を幽閉し、力で国を奪わんとしたが、長髄彦は激しく抗った。結局、長髄彦は敗れて東日流に従うこととなった。しかし、一度は敵対した物部への疑念はいつまでも晴れぬ。冷遇が目立つようになり、ついには都を追われた。東日流を頼るしかなくなったとき、そなたらの祖先らは我ら物部を喜んで受け入れてくれた。以来、物部と蝦夷はしっかりと手を結んでいる」

「この国のすべてが、もともと我ら蝦夷のものであったと?」

「そうだ。力で奪ったくせして朝廷は出雲の民から継承したものだと言っておる。蝦夷を執拗に憎むのは、己の罪を認めたくない心の表れであろう。獣に近いものゆえに追いやって当たり前と己に言い聞かせておるのだ」

「・・・・」

「同族でありながら裏切った物部はもっと憎い。陸奥にひっそりと暮らしておれば文句はつけぬが、もし蝦夷への支援が明瞭になったときはただでは済むまい。いや、あるいは薄々と気付いていればこそ五万もの兵力を投じてきたのかも知れぬな。・・・(中略)・・・。金山を差し出せばそれで済むという問題ではない。蝦夷と朝廷は宿敵。夥しい血が双方の間に流れておる。和議を画策した俺も甘かった」

 天鈴は言って苦笑した。(p.113-115)

 三者(蝦夷・物部・朝廷)の関係を簡略にまとめると、蝦夷(大国主・長髄彦)が治めていた日本(出雲)にやって来た渡来系の物部氏(スサノオ・ニギハヤヒ)は、蝦夷と争うことなく縁組した。

 しかし、遅れて渡来した秦氏(朝廷)は、蝦夷・物部と争い、両者を東日流に遠ざけることで日本を支配した。

  出雲・東日流:源日本:地系:蝦夷 ― 大国主   ― 長髄彦

  出雲・東日流:渡来系:地系:物部 ― スサノウ  ― ニギハヤヒ

  大和朝廷  :渡来系:天系:秦氏 ― アマテラス ― 神武

 物部の天鈴が言うには「都を攻める気などない蝦夷を、朝廷が執拗に攻めるのは、単に黄金や遷都が目的で人心を纏めるために蝦夷を利用していると言うよりも、その根底には、過去の歴史に残された遺恨が大元にある」と。

 大和朝廷の主体となった秦氏の中には、穏健派も急進派もいたことだろう。故に、その二つの見方のいずれにも真実があるはず。下記リンクには、穏健派側の秦氏の趣旨が書かれている。

 《参照》 『日本の神々と天皇家のルーツ』天無神人(ナチュラルスピリット)《中編》

        【「イスラエルの光」と秦氏一族】

 下記リンクには、和睦史を改竄した大和族側の動きが書かれている。

 《参照》 『誰も知らない世界の御親国日本』布施泰和(ヒカルランド)《後編》

        【和睦史を改竄した大和族】

 世界史における天系(大和朝廷)と地系(出雲王朝)の確執図式は、下記リンクに。

 《参照》 『根源への道 日本の神々』佐田靖治(光泉堂)

        【二つの系統】

        【ユダヤの神界劇と日本神話】

 宇宙史における、天系は天津神すなわち宇宙人であり、地系は国津神すなわち地底人(内部地球人)なのだけれど、ここまで書くと、意識が開かれていない人たちは、“チャンちゃんはアホの塊”と思うことだろう。

  《参照》  『天と地と』 中丸薫 (あ・うん)

 真正日本の復活は、“渡来系かつ地系の物部” と共に、“源日本かつ地系の蝦夷” の復権によってこそなされるだろう。

 蝦夷=アラハバキ族なので、下記リンクをつけておきます。

  《参照》  “アラハバキ” に関する引用一覧

 

 

 

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