イメージ 1

 1年以上前に半分ほど読み、何故かそのままになっていたこの本。最近になってようやく読む気になり、後半を読み終えた。伊勢神宮のみならず、彌彦神社、鹿島神宮、香取神宮、日吉大社、諏訪大社などを巡った記録も記述されている。良書だろう。2012年12月初版。

 

【神武東征の背景】
 当時、邪馬台国連合は相当分裂していた。邪馬台国に対する反発が高まっていたのだ。海部氏は元々海の民なのでアマテラス族(伊都国)とも交流があった。当時は今の我々が考える以上に連絡が密で、しっかりしたネットワークがあった。・・・中略・・・。
 海部氏は、アマテラス族と連携していて、海部氏がアマテラス族を大和へ導いたと言っていい。
 彼らに吉備国も同調していたので、神武は瀬戸内海を難なく通り、途中で吉備に立ち寄っていたのだ。ただ、表向きはみなまだ邪馬台国連合を作っていた。
 連合の将軍のナガスネヒコはそういう裏の話はまったく知らされておらず、神武軍と戦うことになる。(p.42-43)
 海部氏は先発先着の古代ユダヤ民族、アマテラス族も後発後着のユダヤ民族。
 下記リンクの、海人族は海部氏のこと。
  《参照   『空海は古代ユダヤの錬金術師だった』 月海黄樹 (徳間書店) 《前編》
            【海人族】
            【日本に渡来した2つのユダヤの系譜】
  《参照   『ベールを脱いだ日本古代史』 坂本政道 (ハート出版) 《前編》
            【アマテラス族の渡来経路】
            【アマテラス族のルーツ】

 

【天香山命と高倉下】
 『先代急事本紀』には天香山命と高倉下は同じとされている。高倉下とはだれかというと、・・・中略・・・。
 神武天皇とその軍が東征中に熊野で敵の毒気に倒れたが、霊剣・布都御霊(ふつのみたま)によって覚醒した。その霊剣をもたらしたのが、高倉下である。つまり、絶対絶命のピンチに陥っていた神武を救った人物である。(p.12-13)
 高次元情報によると、天香山命と高倉下は、親族関係にある人物となっている。

 

弥彦神社

 縄文時代の日本には多くの龍族が関わっていました。ニュージーランドのワイタハ族とも関わっていました。
 日本では、天橋立あたりと弥彦山、それに三輪山で龍族が地元の人々と交流していました。・・・中略・・・。
 天香山命も縄文時代のあなたと同じように人として生まれた存在です。弥彦山を中心とした地域を収める王になっていました。海からやってきたのは、生まれは丹波で、海部氏の一人だったからです。
 ところが、アマテラス族が攻めこんできて、征服され、この人物は殺されました。そして弥彦山の頂上に埋葬されました。その際、アマテラス族は封印の儀式(鎮魂祭)を行いました。それは今でも弥彦神社で行われています。
 三輪山に封印されていた存在は神として崇められていた龍のほうでしたが、弥彦山に封印されていたのは、神としての龍ではなく、王としての人の方です。(p.40-41)
 ワイタハ族に関しては、下記の著作が詳しい。
   《参照》  『世界に散った龍蛇族よ!』 浅川嘉富 (ヒカルランド) 《前編・第一部》
           【ワイタハ族】 【ルカファミリー】
           【封印された龍を解き放つ】
 天香山命は、邪馬台国連合の中の一大勢力で、女王卑弥呼を輩出していた一族・海部氏の首長、海部氏の始祖・天火明命(アメノホアカリ)の息子である。
 本書では、天香山命は、神武の東征に協力していたけれど、神武が支配者になることは予定していなかったらしく、新たな支配者である神武によって、天香山命は越後に遠ざけられたという解釈が記述されている。
 しかし、下記リンクでは、遠ざけられたというより、明らかに追われたという解釈である。
   《参照》  『「超古代」の黙示録』 後藤まさし (たま出版) 《前編》
            【籠舟で真名井から弥彦へ】

 

香取神宮鹿島神宮の要石】
 香取神宮と鹿島神宮には要石と呼ばれる不思議な石がある。(p.62)
 伝承によれば、この地方は古来から地震が多く、人々は大ナマズが暴れているのだと怖がっていた。そこで、香取・鹿島両神宮の大神等は、地中深く石棒を差し込み、大ナマズの頭と尾を刺し通したとのことだ。
 この伝承、今ではナマズとされているが、江戸時代の初めごろまでは龍とされていたらしい。(p.63)
 近年、鹿島神宮の要石に向かう境内の道には、マナズを抑え込む絵柄の石の彫り物が置かれるようになったけれど、ナマズではなく、龍であるとしたら・・・。

 

【鹿島神宮にて】
「今、闇龗神(くらおかみ)を祀る神社があったけど、あれが元々のご祭神かもね。
 くらおかみのかみは縄文の女神で、瀬織津姫(せおりつひめ)と同じように水に関連するのよ。御手洗池にすごくきれいな湧き水が出ていたから、鹿島神宮はたぶん元は水に関連する神社だったんだと思う」(p.88)
 ウィキペディアには、鹿島神宮の末社として、
 津東西社(つのとうざいのやしろ) - 祭神:高龗神・闇龗神 と記載されている。
 著者は、「龗」は龍の古語で、「闇」は谷間を、「高」は山の上を意味することから、共に龍神ではあるが、高龗神は男神で、闇龗神は女神であろうと書いている。
 この2神は、貴船神社の主祭神。下記リンクに記述されている。
   《参照》  『セオリツ姫・シ♭』 山水治夫 (ナチュラルスピリット)
            【シ♭:磐長姫】

 

【龍神との交信】
「我々は地主神だ。この地の者たちを深く愛し、導き、一緒になってこの地に住んでおったのじゃ。(p.89)」
「そこへ次第に稲作の民が現れるようになった。彼らは縄文の民とはまったく異なる価値観、文化をもつ人々だった。鹿島の大神を信奉する人々だ。鹿島の大神とは彼らの先祖神だ。先祖を神格化したものだ。・・・中略・・・。
 縄文の民は森の恵みと海や湖の恵みをいただいて生きていた。彼らは必要なだけを取っていた。我々は龍神であり、雨を自在にコントロールできるので、彼らの必要なだけの恵みが得られるように適量の雨を降らせていた。縄文の時代を通じて、人々は干ばつや洪水で飢えるということはなかった。人口もほぼ一定で急増することはなかった。自然の一部として自然とうまくバランスした生き方をしていた。・・・中略・・・。
 彼ら(鹿島と香取に来た者たち)は異なる部族だが、稲作民であることに違いはなかった。彼らは連携して、土着の縄文人を追い出していった。
 経津主神(ふつぬしのかみ)とか、武甕槌神(たけみかづちのかみ)とかいうのは後で付けられた名前だ。・・・中略・・・。
 香取に来た軍人は残虐で、つかまえた民を切り刻んで埋めた。そこが要石あたりだ。多くの民が恨みや悲しみを持ったまま死に、そこに囚われていた。
 我々は彼らがかわいそうで、その地にいつまでも居座ることになった。
 鹿島では縄文人に対し、もう少し敬意を払った。そのため、そこで死んだ者たちは上へ上がることができた。
 稲作民のシャーマン。巫女の中に、我々の存在に気づくものがいて、要石でもって我々をここにくぎ付けするという儀式を行った。
 我々はそれによって若干影響されたが、ここにい続けた真の理由は、民への愛情からだ。
 ・・・中略・・・。
 鹿島の地で縄文人は、生命エネルギーの女性的な側面の表れを水の神として祀り、男性的な側面の表れを龍神として祀っていた。

 アセンション後の生き方は縄文式の生き方。その意味は自然に任せて自然の一部として生きる。必要な時に必要なものが必要なだけ手に入る。

 囚われていた民は全員上へあがることができた。もう思い残すことはない。
 あなたには感謝している。ありがとう。さらばだ」   (p.90-93)
 
「ここはエネルギーの流れがすばらしいので、トートでもディアナでも、あるいは龍型生命体ともつながることができます。・・・中略・・・。龍型生命体はミシャグジと呼ばれていました。・・・中略・・・。
 この地は伊勢神宮と異なり、人が特定のイメージを持ちませんので、自然のままのエネルギーの流れがあります。トートとディアナにすんなりとつながっています。
 ここでは、実は生命エネルギーそのものを感じられるのです。
 小川のせせらぎや陽の光は生命そのもので、そこには私もトートもいるのです。木の葉にも、私たちはいます。風の中にも、小川のしぶきの水の粒にもいます。木にもいます。みな私たちの小さなかけら。どれもみな生命エネルギーの発露で、そこにトートやディアナがいるのです。
 古代の諏訪の人たちは、さまざまなものに生命エネルギーを見ました。(p.220-221)
 ここにあるトートとディアナは、男性性エネルギーと女性性エネルギーの高次元表現。
 諏訪大社・上社前宮のエネルギーを尊んでいる人々に、滝沢泰平 さんや、祜松泰成 さん がいます。他にも大勢いるでしょう。

 

《後編》 へ