《中編》より

 

 

【これが縄文人】

 人の本性、本質は、高次元空間に属しています。その高次元から、3次元世界を見渡している存在、それが人間なのだということです。

 ・・・(中略)・・・。

 かつ、肉体としては3次元に身をおきながらも、本体である霊(ヒ)の部分は、高次元に属しているからこそ、3次元を認識して、世界の森羅万象の様態を体験しながら、観察しているということになります。

 なんだか理屈っぽいお話となってしまいましたが、こうした空間の中に秘められた力を活用していた人々が、縄文人であったと考えられます。

 彼らは、自分が何者であるかを知っていたので、日常的に、高次元に属する「本体」から見渡した目をもって、森羅万象の様態を捉えていたのではないでしょうか。

 おそらくは、そのような共通のパラダイムをもって、1万年以上にわたる長き時を過ごしていたのではないかととらえています。

 ・・・とするならば、現象として、表される世界に多様性はあれど、上下の差異は生じることなく、それぞれの本体である霊(ヒ)の力を尊び、敬いながら、その時々を慈しみながら生きていたのだろうと思われます。(p.217-218)

 そう、高次元に属する「本体」から見渡せる目をもっていなければ、1万年以上にわたる長き時代を、悠然と維持できるわけがない。

 現在の地球人は、高次元に属する「本体」から切り離され、制限された意識構成ゆえに、時の流れを生む世界に生きざるを得ない。このような世界において悠久と表現してみたところで、文学的比喩表現でしかなく、それは高次元そのものの悠久ではない。「世は仮初」と達観していたとしても、盛衰を免れないこの世界に生きることは、どうしたってシンドイもの。それをブッタは「諦観」と表現して慰めにしていたのかもしれないけれど、輪廻から出ることも語っていた。

 高次元に属する「本体」から切り離された意識構成がいったんセットアップされたら、時の漸次加速は必然の過程に入り、弥生から現代へ次第に加速され、今や地球は、ホッケースティック曲線を描くように物事が急加速で変容する時代に突入している。故に、時の消滅・輪廻からの超脱・高次元への帰還は、必然的に起こりうるアセンションのタイムゾーンに入っている。

 だからこそ、スピリチュアルな人々は、縄文を意識の射程に捉えて語っているのである。

 

 

【レヴィ=ストロースを興奮させた「縄文時代」】

 フランスの民俗学者・人類学者だったクロード・レヴィ=ストロース(1908~2009)は、著者『野生の思考』において、近代の西洋中心の文明史観を痛烈に批判しました。

 とりわけ、「未開」な社会と揶揄される古代社会や先住民族などの文化形態に対して、これは “未だ開かれていない” や “遅れている” といった軸ではなく、現代の私たちとは別のベクトルの中で、丹念に観察され、知性が蓄積されているのだといった考え方を提唱したのです。(p.222)

 そんなレヴィ=ストロースが、最も憧れた国―――それは日本でした。・・・(中略)・・・。

 その中でも、もっとも彼を興奮させたものが「縄文時代」だったのです。(p.223)

 彼は、私たちの暮らしの中に、今もなお生きている「縄文」を次々と見つけていくのです。(p.224-225)

 例えば、和食、神話と歴史の連続性、日本庭園、等々。

  《参照》  『日本国史(上)』田中英道(育鵬社)《前編》

         【神話と歴史の連続性】

 実は、レヴィ=ストロースが最も注目したのは、モノでもなく行為でもなく「人」そのものでした。

 彼が日本人に見たもの―――それは「人間性」そのものの質の高さであり、豊かさだったのです。(p.226)

 レヴィ=ストロースが注目した日本人の人間性の根源について、著者さんは、【これが縄文人】に書き出した “「ヒ」の認識” が根底にあるからだろう、と記述している。

 “「ヒ」の認識” は、“霊性” ないし “魂の視点” と言い換えてもいい。

 

 

【精神物質文明へ】

 行き過ぎた物質文明から、いよいよ精神と物質が統合された、精神物質文明へ。

 オレサマ文明からオカゲサマ文明へ。違いを比べる時空から、違いを尊ぶ時空へ。

 その鍵を握るのは、霊的使命として担わされた役である、ヒの本の民たちです。

 朗らかに、胸を張って進んでいきましょうね。(p.246)

 唯物論はディセンションの道であり、唯心論はアセンションの道。

 唯心論の基盤は “霊・ヒ・魂”。

 中国文化圏に生まれ日本人として生きていた李登輝さんは、日本人の精神性の高さを、唯心論として表現していた。“物” より “心・精神” を尊ぶ生き方。

 《参照》 『金美齢と素敵な男たち』金美齢(WAC)《後編》

        【唯心論:日本人の美質の一つ】

 《参照》 『ハーバードでいちばん人気の国・日本』佐藤智恵(PHP新書)《前編》

        【仕事の価値を定めるマインドセットの最終基盤】

 

 

【多次元世界に生きていた縄文人】

 通常、私たちの意識は3次元に紐づけられているため、異なる次元を垣間見ることは出来ませんが、何かの要因で、空間に揺らぎやひずみが起こった時は、異なる時空間へと運ばれることもある。

 これを意図的にやっていたのが、縄文の人たちだったのではないかと思えてなりません。(p.252-253)

 現代人も多次元世界に生きているのだけれど、その認識と自覚を失っているに過ぎない。意識が物に傾斜しすぎると、時間が生まれ、多次元にまたがって存在しうることを忘れてしまうのだろう。縄文人たちは、“今ここにおいて、どこにも属さず、どこにでも属している” ことを自覚していたはず。

 さて、縄文時代より使われている言葉(音韻)に「マ」というものがあります。

「マ」とは、時間と空間を表す言葉で、たとえば、「つかの間」の「マ」は時間を、「居間」の「マ」は空間をというように一音で時間と空間という双方の性質を同じ言葉で言い表しているのです。

 縄文人たちは、その徹底的な観察力をもって、現代科学が知りえた時間と空間の本質を、もののみごとに「マ」の一音によって表現していたのですね。

 「マ」は、真ん中のマのように、中心点という意味も持っています。

 この意味するところは、どこにも属さず、かつ、どこでも属することができる最強、最適な場が「マ」であり、であるからこそ、同時同刻、同空間に多次元世界が広がっているよ、ということでもあります。(p.252-253)

 「マ」が意味する時空間の本質は、英単語に置き換えてみれば分かりやすい。

 Now here(今、ここ)= nowhere(どこにも属さず、どこでも属する)を踏まえて下記リンクを。

  《参照》  『I am here.』宮里藍(角川SSC新書)《前編》

         【私はここにいるんだよ!:タイトル解題】

 

 

【縄文的心性をもって・・・】

 これから始まる黎明の時代―――「ネオ縄文」ともいえる、縄文的心性をもって、物心共に栄えていく「霊性文明」の夜明けが近い今、縄文と呼ばれた人々から、時空間を超えて、多くの愛が注がれています。

 本書はそんなあなたに届けられた、彼らからのラブレターでもありました。(p.255)

 呼び覚ますのは「縄文的心性」であって、その蘇りと共に、日進月歩で進化する科学技術をもって、物心共に栄えていけたらと願っています。

 そんな高次な精神性が底支えする精神的物質文明のことを「霊性文明」と呼び、歴史の変遷軸でみるなら、「ネオ縄文」時代が始まったということになるのかなと考えています。(p.261)

 神霊界の玄極が降りている日本国に生まれ育っていたとしても、高次の精神性(縄文的心性)を欠いたままであるなら、著者さんが言うところの「霊性文明」、「ネオ縄文(=新縄文)時代」に参入することは出来ないだろう。

 高次の精神性を欠いたまま加速的に発展する物質文明の中に埋没して行けば、メタバース(≒仮想世界)の迷宮世界に入り込んでしまうことになる。

  《参照》 『令和弐年天命会談』 浅川嘉富・保江邦夫 (明窓出版)

         【神を阻むもの】

  《参照》 『ついに、愛の宇宙方程式が解けました』保江邦夫(徳間書店)《後編》

         【+α:ネットの仮想空間に気持ちを向けない】

  《参照》 『覚醒への道』 サアラ (徳間書店) 《後編》

         【 無機のAI と 有機のAI 】

 すべての人々が同じ世界に行くのではない。

 あくまでも個々人による選択である。

 

 

<了>

 

 

  はせくらみゆき・著の読書記録

     『お金は5次元の生き物です!』

     『コロナショックから始まる変容のプロセス』

     『令和の時代が始まりました!』 

     『宇宙一切を動かす「数霊」の超メッセージ』

     『数霊に秘められた宇宙の叡智』 ☆☆☆

     『カルマからの卒業』