《前編》 より

 

【湯川秀樹博士の素領域理論】
 2014年9月14日の午後、・・・中略・・・、右手に懐かしい京大北部キャンパスが見えた瞬間に、あの頃の事が突然蘇ってきた。しかも、突然、素粒子論などの理論物理学研究に関連してではなく、霊魂や超能力といった形而上学的な現象についての本質的な理解に、素領域理論が不可欠となることが閃いてしまったのだ。
 振り返ってみれば、京大の大学院に入ったばかりの頃に、周囲の反対や指導教官の強い抵抗にあってまでも、いったいなぜ、湯川秀樹博士の素領域理論の研究に邁進してゆくことになったのか、僕自身まったく不明だった。何かに憑りつかれていたとしか言いようがないのだが、 (p.242)
 40年の時を経て、閃いたこと、とは、
 素領域理論とは、「空間とは何か?」という物理学において未解明の難問に答えることが出来るだけでなく、「愛」とか「情」、「奇跡」と呼ばれる自然界の物理法則に反する物質現象が生ずるメカニズムまでも記述することができるのだ。
 言い換えるならば、物理学の理論的な枠組みの中で初めて「空間」という実在を定義することができるだけでなく、「愛」や「霊魂」といった形而上学的な概念を定義することができるのが素領域理論ということになる。(p.244)
 これを読んで、“(我々が)存在として認識する物質は、空間という宇宙の実体の中で生まれた異質な空間スピン領域である”という下記リンク内容を思い出したのであるけれど、今まで理論物理学者たちは誰も、“「空間」という実在を定義する”ことをしてこなかったのだろうか。であるなら、ちょっと意外。
    《参照》   『ガイアの法則』 千賀一生 (徳間書店) 《後編》

              【物質科学】

 

 

【形而上学的素領域理論】
 通常の物理学理論の基礎を与えるという目的のためにはこれ(素粒子間に働く4つの力に関する説明)で充分である。さらに「愛」や「情」あるいは「霊魂」や「神」などの形而上学的概念までをも記述するためには、素領域構造自体に何らかの相互作用が存在するかたちに理論を拡張する必要がある。それが「形而上学的素領域理論」に他ならない。
 それによれば、空間そのものが持つ超微細構造素片である「素領域」が霊の要素であり、「霊素」とか「霊子」と呼ばれるべきものである。即ち、素領域の集まりが霊であり、素領域の全体集合が「神」となる。それが「空間」であり、そこが宇宙森羅万象を生成消滅させる「場」でもある。(p.246)
 このような内容は、大橋正雄著 『波動性化学入門』 の中にも書かれていたような気がする(確かな記憶ではない)けど、それを読んでいた学生であった当時は、「物質(素粒子)」と「空間(場)」の概念を区分けしつつ、その性質の違いを読み取ることができていなかったような気がする。物質と空間を媒介しつつ区分する概念用語が示されていなかったからである。
 その点、理論物理学者さんたちは「素領域」という明確な概念用語を用いていたのだから、考えやすかったのであろうし、今それを読んでいる我われ一般人でも、確かに理解しやすいというものである。
 で、このような概念に到達していたのは、湯川秀樹博士だけではなかった。数学者の岡潔博士も辿り着いていたのだという。
 空間は「愛」あるいは「情」と呼ぶべきものが粒々に、あるいは泡のようにつまっていて、素粒子はその粒々の間をエネルギーとして飛び移っているとされた。そして、その「愛」や「情」としても素領域がどのような性質を持つかによって、そこを飛び交っていくエネルギーの素粒子としての性質が決まるのだ。
 これはまさに素領域理論の考え方そのものであり、大数学者としての研ぎ澄まされた感性が分野違いの物理学においても十二分に発揮されたことを物語っている。

 湯川秀樹博士と岡潔博士、日本を代表する世界的な理論物理学者と数学者の二人が同時にたどり着いたのは、「空間」そのものに目に見えない世界とのつながりを見出すという、時代に何十年も先駆けた斬新な宇宙観だった。(p.250-251)

 

 

【次元転移と素領域の重ね合わせ】

 ピラミッド空間を、ことあるごとに次元転移で各地につないだ経験から、以下のように書いている。
 その間実際にその場に存在し続けているのは、確かにこの地球上の、あるいは宇宙の中の時間と空間を超えて二地点の空間が、そこに同時に存在しているという何とも言えない奇妙な感覚だった。(p.268)
 そこに居合わせたスピリチュアル感覚を持つ方々は、「実際にエジプトの神々がそこにいた」ことを確認していたという。
 素領域は単に三次元の広がりを示すミクロな風船の内部のような空間領域だと考えるのではなく、本来三次元以上の広がりを示す高次元の存在であると考えればよい。たとえば異なる二地点AとBにある素領域が、この三次元空間の中では地点Aの素領域aと異なる地点Bの素領域bというように、ふたつに区別されていたとしても、高次元空間の中では素領域aと素領域bは、同じひとつの高次元素領域となるのだ。その高次元素領域を異なる三次元断面で見た三次元領域が、それぞれ素領域aと素領域bとして、この三次元空間に異なる素領域として現れているに過ぎない。(p.268-269)
 同一空間には複数の次元が重合しているという多次元宇宙論を受け入れている方々は、こんな面倒くさい説明を読むまでもなく、「当然じゃん」くらいに思っているだろう。

 

 

【空間を友として生きる】

 最後の最後に「空間を友とする」あるいは「空間を味方にする」ための具体的な方策をいくつかご披露しておくことにする。(p.279)
 ということで、「3つ+α」が書かれている。

 

 

【その1:「ありがとう」と言う】
 まず、一番のおすすめは、機会あるごとに「ありがとう」を言うことだ。(p.297)
 実は、「ありがとう」を心で思ったり発声したりすることが「愛」の真の姿だという思想家も少なくないのだが、これは今では「こんにちは」や「ありがとう」の意味で使われているハワイ原住民の言葉「アロハ」が、ほんとうは「愛」を讃えるために神に捧げる神聖な言葉だという事実と呼応している。
 その昔、太平洋に没したレムリア文明の流れを共に汲むハワイ原住民と日本人が、レムリア文明において最大限に高められていた感性の頂点に位置づけられていた「愛」を、それぞれ「ありがとう」と「アロハ」によって賛美する伝統だけを守り通してきたと考えれば大いに納得できるところだ。
 そして、「愛」こそは、我々人間が「素領域」に働きかけることができる唯一の手段となるものなのだから、「空間を味方にする」ためや「空間を友とする」ためには「愛」が必要不可欠となり、「ありがとう」という言葉がここにきて最大限に重要な役割を担うことになる。
 心して、実践してもらいたい。 (p.281)
 「アロハ」に関する現地の解釈は、下記に書き出しておいたけれど、
    《参照》   『奇跡の習慣』 ソンドラ・レイ (ビジネス社)

              【アロハ】

 ふと、カタカムナの思念で「アロハ」を読むとどうなるのかと思ったら、
 なんと、「感じる・生命(ア)空間(ロ)引き合う(ハ)」である! ドンピシャ!!!
    《参照》   『カタカムナ 言霊の超法則』 吉野信子 (徳間書店) 《前編》

              【「思念表」に対応させて、その言葉の本質を読み解く】

    《参照》   『賢者たちのメッセージ』 光田秀編著 (PHP) 《後編》

              【人生を変えようと思ったら】

 

 

【その2:手を合わせる】
 神社仏閣とそれにまつわる岩座や水源などがある神秘的な場所に行き、その場を包み込んでいる空間の広がりを感じ取ってから「手を合わせる」というのがそれ。・・・中略・・・。
「手を合わせる」ことは我々人間にとって根源的な動作となっており、それがそのままで「愛」つまり「神を無条件に讃える」ことになるのだ。(p.282)
 神社参拝では、「礼」と「拍手」が組み合わされた作法が用いられているけれど、これもそれである。

 

 

【その3:逆効果になることを排除する】
 「悪口を言う」ということ自体が、「愛を賛美する」ことからもっとも遠い行いであるためなのだが、同様に愛から最も遠い行いとしては「人を嫉妬する」とか「人を騙す」、あるいは「人を蔑む」とか「人を呪う」といったものがある。(p.284)
 「愛の反対は、嫌よ」、ということ。
    《参照》    『心を整える』 長谷部誠 (幻冬舎) 《前編》

              【心を正しく整える】

 

 

【+α:ネットの仮想空間に気持ちを向けない】
 以上の3点の他に、「ネットの仮想空間に気持ちを向けない」という点が指摘されている。
 そんなありもしない空間の中に自分が置かれているかのような錯覚を持続させればさせるほど、自分が本当は無数の素領域からなる空間に抱かれているという真実から遠ざかっていく。(p.285)
 仮想空間に馴染んでしまうと、現実空間の側にある“神霊界”に馴染めなくなってしまう。仮想空間の側にだって“神霊界”はあると思っているなら違う。それは人工的に作られたタイムライン上にある“機神界”という魔界である。
 神道には「自然(実在空間)は神なり」という言葉があるけれど、これに対比させたら、「仮想空間は魔界なり」ということになるだろう。
    《参照》   『ループ』  鈴木光司   角川書店

              【ループ】 【主催者】

 

<了>

 

保江邦夫・著の読書記録