《中編》 より
【時間と空間の法則】
時空間にかかわる根本原理は、16花弁の菊家紋が象徴する “聖なるリズム” に依っているという。
これによって、存在という存在は、それぞれに自立時間を有していることになる。
しかし、大きくなるほど自立時間スピードが遅くなるということは、相対時間スピードは速くなるということであろう。人が大人になるにつれて時間の経過が早くなると感じるのは、相対時間スピードこそが時間として意識されるものであることを意味している。
上記の記述にある “空間量” を単純に “体積” と置き換えて考えれば、立方体体積としての16倍は、長さとしては16の3乗根である2.5倍程度になる。単純に長さに置き換えて解釈すれば、身長が2.5倍大きくなれば時間意識は2倍になることになる。人間の生まれたときの身長を50cm、大人の平均身長を150cmとしても、身長差は2.5倍を上回る3倍にも達しているのだから、誰であれ、時間意識は明らかに子供の頃より2倍以上速く感じていることになる。
著者は、空間量 = “体積” という考察で終わってしまっている。しかし、正確には、空間量 = “体積” ではない。空間量 = “意識の及ぶ範囲” のはずである。であるならば、意識の及ぶ範囲が広い人ほど、自立時間スピードは遅くなり、相対時間(通常の時間意識)は “早い” と認識されるのである。大人になってさえ本など殆ど読まず、生まれたときから意識の及ぶ範囲が日常生活範囲内だけの人は、空間量=体積として算出される時間意識の分だけ速まるだけだけれど、この本を読んでいるようなアセンション問題に興味を持っている人々の意識は、不可避的に広大な宇宙に及んでいるのだから、そのような人々の時間意識は、実際に急速に加速しているのである。
神は悠久の時間を過ごしているとか、古文献にあるように古代人の寿命は現代人より遥かに長かったというのは、まさに意識領域の差によって実際に生じていることを意味しているのである。
そして、意識とはオーラの領域でもあり、高度なスピリッチュアリストは自在にオーラの範囲を拡大・縮小させつつ、自在に時を行き来している。意識(≒空間)と時間は全くもって不可分の関係にある。
マヤ(時の民)族が言っていた 「時間の終焉」 とは、インターネットを介したかつてない量の情報開示により、地球上の人々の意識の及ぶ領域が急速に拡大し、それが臨界点に達した時、人類全体の時間意識が急速に変容することを意味しているのだろう。
《参照》 『空洞地球 2012バージョン&アセンション』 中丸薫 (徳間書店) 《3/4》
【時間の長短を感じる因子】
時空間にかかわる根本原理は、16花弁の菊家紋が象徴する “聖なるリズム” に依っているという。
これによって、存在という存在は、それぞれに自立時間を有していることになる。
「一つの自立空間スピンがあり、その16倍の空間量を持つ時空間スピンがあったとしよう。すると、この自立空間スピンの時間の速さは、前者から見て1/2になる。逆に1/16空間量のスピン体の自立時間スピードは2倍となる。宇宙のすべてはこの法則に貫かれている」(p.286)
この法則を単純に表現すれば、大きいものほど自立時間スピードは遅く、小さいものほど自立時間スピードは速くなる、ということ。だから、地上のいろんな生物を見ても分かるように、小さな生物ほど時間を急速に消費してしまうから短命なのである。しかし、大きくなるほど自立時間スピードが遅くなるということは、相対時間スピードは速くなるということであろう。人が大人になるにつれて時間の経過が早くなると感じるのは、相対時間スピードこそが時間として意識されるものであることを意味している。
上記の記述にある “空間量” を単純に “体積” と置き換えて考えれば、立方体体積としての16倍は、長さとしては16の3乗根である2.5倍程度になる。単純に長さに置き換えて解釈すれば、身長が2.5倍大きくなれば時間意識は2倍になることになる。人間の生まれたときの身長を50cm、大人の平均身長を150cmとしても、身長差は2.5倍を上回る3倍にも達しているのだから、誰であれ、時間意識は明らかに子供の頃より2倍以上速く感じていることになる。
著者は、空間量 = “体積” という考察で終わってしまっている。しかし、正確には、空間量 = “体積” ではない。空間量 = “意識の及ぶ範囲” のはずである。であるならば、意識の及ぶ範囲が広い人ほど、自立時間スピードは遅くなり、相対時間(通常の時間意識)は “早い” と認識されるのである。大人になってさえ本など殆ど読まず、生まれたときから意識の及ぶ範囲が日常生活範囲内だけの人は、空間量=体積として算出される時間意識の分だけ速まるだけだけれど、この本を読んでいるようなアセンション問題に興味を持っている人々の意識は、不可避的に広大な宇宙に及んでいるのだから、そのような人々の時間意識は、実際に急速に加速しているのである。
神は悠久の時間を過ごしているとか、古文献にあるように古代人の寿命は現代人より遥かに長かったというのは、まさに意識領域の差によって実際に生じていることを意味しているのである。
そして、意識とはオーラの領域でもあり、高度なスピリッチュアリストは自在にオーラの範囲を拡大・縮小させつつ、自在に時を行き来している。意識(≒空間)と時間は全くもって不可分の関係にある。
マヤ(時の民)族が言っていた 「時間の終焉」 とは、インターネットを介したかつてない量の情報開示により、地球上の人々の意識の及ぶ領域が急速に拡大し、それが臨界点に達した時、人類全体の時間意識が急速に変容することを意味しているのだろう。
《参照》 『空洞地球 2012バージョン&アセンション』 中丸薫 (徳間書店) 《3/4》
【時間の長短を感じる因子】
《参照》 “時間” に関する引用一覧
【物質科学】
スピンこそが物質の生成原理であると言っているのだけれど、下記なら理解しやすいだろう。
「現在あなた方は、空間は何もなく、物質が存在であると認識している。あなた方の科学もその上に成り立っている。しかし、これは人間中心の宇宙観だ。宇宙主体に捉えれば事実は逆だ。
この空間こそが、宇宙という広がりそのものであり、あなた方が存在として認識する物質は、むしろこの空間という宇宙の実体の中で生まれた異質な空間スピン領域、すなわち、それは母体に子が孕まれるような、いわば宇宙が自らの内部に孕み続ける自らの似姿としての別空間、ないしは、別空間の集合体なのだ」(p.278)
根本的な 「発想の逆転」 を示しているのだけれど、どうしても物質という固定概念が先行してしまう人には、理解が困難なのかもしれない。この空間こそが、宇宙という広がりそのものであり、あなた方が存在として認識する物質は、むしろこの空間という宇宙の実体の中で生まれた異質な空間スピン領域、すなわち、それは母体に子が孕まれるような、いわば宇宙が自らの内部に孕み続ける自らの似姿としての別空間、ないしは、別空間の集合体なのだ」(p.278)
スピンこそが物質の生成原理であると言っているのだけれど、下記なら理解しやすいだろう。
「まず空間がある。そしてその中にある空間の一部 ・・・(中略)・・・ をイメージ上でスピンさせてみる。 ・・・(中略)・・・ ある現象が発生することがわかるだろう。 ・・・(中略)・・・ それは境界面の成立だ。 ・・・(中略)・・・ その境界面、すなわち界で仕切られた領域世界は、絶対的自立の運動を成立させることになる。これが、宇宙が持つ自立スピンの原理、すなわち、私たちが 『聖なる働き』 と呼ぶ物質生成の働きなのだ。この働きゆえに私たちシュメール人は円を宇宙の象徴と見なしてきたのだ。(p.276-278)
【生命科学】
全体なるものの一部がスピンすることで界を生じ、全体の似姿としての自立スピン体が生まれる。だからこそ大宇宙から銀河系、太陽系、人間、電子、素粒子、クォークへと至るあらゆる領域が相似象をしているということになる。
生命科学も物質科学も、全体なるものの一次的意識へと体験的に意識が及んだ人々の出現によって初めて、本質的な解明へと至るはずである。
意識体験まではできなくとも、自然科学に携わる人々が、この本に出会って読んでおくか否かで、人類に対する貢献度は全く違ったものになるのではないだろうか。
「あなた方の現在の生命科学は、思考レベルで構築された概念に過ぎない。
生命発生をハプニングとしてとらえるあなた方のその生命観は、生命の重みを宇宙に求めることを不可能にさせている。」(p.298)
「生命意識は、部分的脈動としての意識であるスピン体の集合が結果的な世界で構築した、二次的意識にすぎない」 (p.301)
これらの記述に類する表現は、かつていずれかの著作の中で読んだことがあるけれど、それ以上発展的に考え用のない単なる記憶にとどまっていた。しかし、この本を通読する過程の終盤付近で、これらの言葉を読むと、将来的に延展する科学の先を明らかに予感することができる。生命発生をハプニングとしてとらえるあなた方のその生命観は、生命の重みを宇宙に求めることを不可能にさせている。」(p.298)
「生命意識は、部分的脈動としての意識であるスピン体の集合が結果的な世界で構築した、二次的意識にすぎない」 (p.301)
全体なるものの一部がスピンすることで界を生じ、全体の似姿としての自立スピン体が生まれる。だからこそ大宇宙から銀河系、太陽系、人間、電子、素粒子、クォークへと至るあらゆる領域が相似象をしているということになる。
生命科学も物質科学も、全体なるものの一次的意識へと体験的に意識が及んだ人々の出現によって初めて、本質的な解明へと至るはずである。
意識体験まではできなくとも、自然科学に携わる人々が、この本に出会って読んでおくか否かで、人類に対する貢献度は全く違ったものになるのではないだろうか。
<了>
この著作の続編 ⇒ 『ガイアの法則[Ⅱ]』