《前編》 より
 

 

【狂狷】
 元駐タイ大使で、外交評論家の岡崎久彦さんとの対談。
岡崎  これは論語ですけれども、あまり見たことはないでしょう。「中行を得て之と與にすることを得ざれば、必ず狂狷か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有り」。つまり、すべてバランスがとれている人間はいないのだから、中途半端はだめだと。「狂」か「狷」でなければいけない。狂というのは、人のしないことをする男。狷というのは、みんながそうするからって、おれだけはしないよということをいう人。どっちかだと。
金  この狂というのはパッションに近いでしょうね。どうなんですか。
岡崎  狂にはいろいろな意味がある。オリジナリティもあるし、パッションもあります。つまり、両方とも他人と妥協しない人。はっきりいえば、自分というものがある人ですよ。
金  でも、狷というのは、大変屈折した感じがしますけどもね。(p.158-159)
 「狷」という字を使った四字熟語に「狷介孤高」とか「狷介固陋」があるけれど、この字を見ると、いつも高橋和巳のいずれかの小説(『悲の器』だっけ?)の主人公の名前を思い出してしまう。「狷介(ケンスケ)」という名前だった。狷介孤高な精神をそのまま名前にしているところが、いかにもという感じだった。一匹狼的な魂がなかったら芸術であれいかなる世界であれ、高みへは至れないだろう。
   《参照》   『旅はまたずれ』 石塚達也 (新風舎)
             【益荒男の日本人】

 

 

【台湾人と中国人は「兄弟」だと解釈する人がいるけれど・・・】
 金さんの旦那様、周英明さんとの対談から。
 日本の幕末における会津藩と長州藩のような事例で、台湾人と中国人を捉えるのは違うと言っている。
 遺伝的に言えば、我々は中国沿岸部から渡ってきた人たちの子孫に違いない。しかし、我々は明らかに違う民族なんですね。その最大の理由は、台湾人の意識が中国人に比べて問題にならないほど近代化されているところにある。
 日本統治時代の遺産としてよくいわれるのは、鉄道や下水道といったインフラストラクチャーの近代化だけど、実は意識の近代化の方が何十倍も大きな影響を与えていますよね。
 戦前の日本は軍国主義の暗い時代だったとばかりいっているけど、それはほんの一時期のことで、戦争に突入するまでは大正デモクラシーあり、社会主義運動あり、自由、民主、個の解放といった精神の近代化がすすめられていた。
 それは台湾にも影響を及ぼしたんだね。日本統治時代を通じて、最も大きな台湾人を巻き込んだ政治運動は台湾議会設置運動。本国の帝国議会とはべつに台湾の民意を反映した議会をつくろうという運動は、大正以来延々と第二次大戦の勃発までつづいたんだから。
 こういう精神の近代化の洗礼を受けた台湾人と、封建時代そのままの中国人との意識のズレは決定的な違いだよね。
 中国では、皇帝を頂点に、一糸乱れぬ全体主義的な統制のもと号令が全体に行き渡る状態を“太平”だと考えているでしょう? 彼らの価値観は国家の隆昌であり、その要素としては皇帝の権威、中華民族の支配、領土の大きさなどがあるだけで、市井に生きる一人ひとりの庶民が人間として幸せかどうかを問うような政治思想はない。
 問題は、その観念が国民党になろうと共産党になろうと、なんら変わりがないことだよ。この意識の差があるからこそ、我々は実感として中国人を同じ民族だとは思えないんだね。(p.178-179)
 中華意識にかぶれた中国人と、日本統治によって新たな価値観を学んでいた台湾人は、「意識の差」故に同じ民族ではないと言っている。「意識の差」によって生じた圧政に苦しめられた体験を有する世代の皆さんは、それゆえに重要なことを語ってくれているから、我々はそれを学ばないといけない。
   《参照》   『日本よ、台湾よ』 金美齢・周英明 (扶桑社)
 けれど、21世紀の地球は20世紀とは違って、新たな時代へと移行してゆく。宇宙の周期率的サイクルに従って、地球は稀なる帯域に入ってゆくから、地球に住む人間たちも、自ずと徐々にではあれ意識が変容してゆくはずである。実際のところ、過去20年間を振り返っただけでも、スピリッチュアルな意識は格段に開かれてきたのは明らかである。20世紀の戦争の時代を仕切っていた連中が、いまだに世界に対して影響力を持っているから、政治経済において大きな変革は起きていないように見えるけれど、魂次元の捉え方を会得して意識を変容させつつある人々は増えているはずである。近年の若い中国政府指導者の中にも、かつての中国人とは違った意識を持つ人々が出てくるはずである。もういるだろう。
 

 

【唯心論:日本人の美質の一つ】
 12年間にわたって台湾総統を務めた李登輝さんとの対談から。
李  私がよく読んだのは鈴木大拙の本でした。
 大拙は禅の思想を中心に仏教哲学を世界的視野で説いた人物で、私が影響されたのは「自我を抑える」という考え方でした。朝早くから使役に出て克己心を鍛えたり、滝に打たれて無我の境地になるという、いわば徹底的な唯心論です。『臨済録』にあるように、「心生ずれば種々の法生じ、心滅すれば種々の法滅す」となる。一心に何事かを行えば、自我は消え去り、悩みも消えるというわけです。
 実際、私は朝早くからの使役にも積極的に参加して、また便所掃除など他人がやりたがらない仕事も一生懸命やりましたね。モーゼの宿命ではないでしょうが(笑)、私の場合、たしかに克己すべき対象があると、ともかく情熱が生まれる傾向があるとは言えます。
 こうした唯心論は当時の日本に浸透していて、さまざまな形で、のちのちまで日本の軍隊にも影響を与えていた。それを批判的に捉える向きもあるようですが、私はこの唯心論は、必ずしも全部を否定する必要はないと今も考えています。明らかに日本人の美質の一つですよ。(p.206-207)
 科学技術が進展する過程で、客観的・合理的に捉えうる唯物的視点が重用されるようになり、相対的に唯心的(精神的)視点は後退しつつあるように思えるけれど、観測者の意識が結果に影響を与えているというハイゼンベルグの物理実験結果は、唯心論と唯物論の境界を溶かしてしまっている。
 実際のところ、心は宇宙の果てまで届いているのだけれど、人類が「体主霊従」から「霊主体従」へと霊的に進化してゆくにつれて、唯心論的な捉え方は確実に再評価されるようになるだろう。
 

 

【今の日本人より、かつて日本人だった李登輝さんのほうが・・・】
李  それから、日本からの訪問者に尋ねられることの多い新渡戸稲造の『武士道』については、改めていうまでもないでしょう。今の日本人より、かつて日本人だった私のほうが、ひょっとして日本という国、その伝統的な姿、価値観を、より深く知っているかもしれない。それほど私は膨大な作品群と向き合い、それを精神的な糧として青春時代を過ごしたのです。
 余談ですが、当時の私は岩波文庫だけでも700冊以上持っていました。 (p.209)
 今の日本人より、かつて日本人だった李登輝さんのほうが、はるかに日本の伝統的な姿、価値観を、より深く知っているのは間違いないことである。戦後どころか、高度度長期以降に生まれた我々ボンクラでノー天気な日本人は、生え抜きであれロクに本を読まない日本人のオジサンたちからよりも、かつて日本人(籍)だった李登輝さんのような方々から、本当の日本を学ばせてもらった方が圧倒的に勉強になるだろう。
 この本の中にも、李登輝さんが当時読んでいたい本の名前がたくさん書かれているけれど、下記のリンクにも書き出しておいたので、そちらで。
   《参照》   『最高指導者の条件』 李登輝 (PHP)
              【教育】

 “日本からの訪問者に尋ねられることの多い新渡戸稲造の『武士道』”とあったから、
 「武士道」をキーにしてこのブログ内を検索してみたら数多ヒットする。ノー天気な読書記録が多い中でも、さすがに「武士道」で検索すると、ちょっとマシな内容を含む割合が高い。
 下記リンクは、チャンちゃんがまとめた『武士道』
   《参照》   日本文化講座⑧ 【 武士道 】

 

 

<了>