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 1988年から2000年まで、重要な時期の台湾総統を立派に務めた李登輝さんならば、このようなタイトルの本を書くに相応しいだろう。日本の政治家で、このようなタイトルの書を認めることができる人物はいるだろうか。
 2008年3月初版。 時代の今昔には関係ないタイトルではあるけれど、記述されている具体的な事例内容を読むと、どうも2002年頃に書かれたものらしい。 『台湾の主張』 や『李登輝学校の教え』 の焼き直しかもしれない。前者は出版社も同じである。

 

 

【昨今の政治家】
 信仰において、どのような神を信じるかは、人それぞれである。私はクリスチャンとして、 『聖書』 の強調する愛と公義の精神が信仰の全てであり、主イエスはつねに私と共にあると考えているが、他の宗教を信仰しているならばその神に祈ればいい。いずれにせよ、人が 「自分の力で生きる」 には信仰が不可欠であり、個人のレベルでは神を信じることは大切だと思う。
 ・・・(中略)・・・。昨今の政治における欠陥として、指導者が 「政治を政治の中でしか考えていない」 という問題があるように思う。
 信仰なりフィロソフィーなり、政治を超えたところにある 「何か」 を自分の内にもたず、政治を行う。そのために、使命感が希薄になり、実行するエネルギーも弱くなるのではないだろうか。 (p.18-19)

 

 

【善政のための死生観】
 ヨーロッパには古くから 「メメント・モリ(死を思え)」 という、死生観を持つ重要さを述べた言葉がある。
 ・・・(中略)・・・。
 では東洋ではどうかというと、儒教の場合、死生観がはっきりしていない。そもそも儒教では、「死と復活」 という契機が希薄である。
 孔子は、「生を知らずしてなぜ死を問うか」 と述べている。そのため儒教は、善悪を定めた道徳でありながら、「生」 に対する積極的な肯定ばかりが強くなりやすい傾向がある。結果として 「いまがよければそれでよい」 となり、人間個々の生きる意義と、そこに立てられる道徳とのあいだに、かなりのズレが生じやすいのだ。
 そもそも儒教は 「文字で書かれた道徳」 ともいわれ、しょせんは科挙制度とともに皇帝型権力を支えるイデオロギーにすぎない。そう考えたとき人民の心に平安をもたらすものではなく、また指導者のもつべき死生観の拠り所としてふさわしいとはいいがたい。
 士族出身で、儒教的な教養を積んできた 『武士道』 の著者、新渡戸稲造先生が最終的にキリスト教に道をもとめたのも、結局は儒教における死生観の不在が関わっているのではないだろうか。そしてキリスト教という新たな道徳体系のもので、精神的かつ理想的な生き方を追求する、しかも未来永劫に通じる道徳規範としての 「武士道」 の価値を再発見したのである。 (p.26-27)
 李登輝さんは、 『武士道解題』 (小学館) という本も著している。

 

 

【選挙と国政は別のもの】
 謝意をあらわすにしても、選挙は選挙、国政は国政であり、まったくの別物と考えるべきだ。選挙が終わったら、支援者との私的な関係はきっぱりと絶つことが大切である。 (p.50)
 地方選出の議員なのだから地元への利益誘導は当たり前であり、それこそが議会制民主主義であるという考え方をする人々が多いだろうけれど、最高指導者(国家元首)がそのような態度では困る。
 田中角栄という地元への利益誘導を最大限に行った元首相がいた。角栄さんの政治権力による地元インフラ完備は、畢竟、中越地震ですべて崩壊したのである。地盤もろともに。

 

 

【エイジアン・バリューに与さない】
 それから、台湾のみならず、アジア世界でしばしば見られるのが、身内への利益供与だ。偉くなった人物が親戚縁者に職を与え、引き立てる。これを私は 「エイジアン・バリュー(アジア的価値観)」 と呼ぶ。
 ・・・(中略)・・・。
 いま、李登輝を一番憎んでいるのは、ひょっとすると私の親戚かもしれない。12年間も総統の地位にありながら、親戚縁者の誰一人として、高い地位に上らせたり、利権がらみの仕事を与えたりしなかったのだから。
 頼みに来る人がいなかったわけではない。たいがいは直接ではなく、人を介しての依頼だったが、私はすべて断った。  (p.50-52)
 日本の政治家であっても、この件で、面を上げて李登輝さんに会える人は、おそらく一人もいないだろう。
           【正義・大義】
 

【中国史は 「輪廻の芝居」 】
 誤った認識をもった指導者が登場し、台湾が自由と民主の方向に向かわないと、大陸中国の 「輪廻の芝居」 の中に永久に取り込まれてしまうことになる。
 皇帝の支配する中国の歴史は4千年とも5千年ともいわれるが、その間、発展と後退が繰り返されるだけで、ただただ時間が集積されたに過ぎない。これが 「アジア的停滞」 である。現在の大陸中国は経済が伸びているのは事実だ。しかし、それがいつどうかるかわからないことは、中国の長い 「停滞史」 が示唆している。 (p.135)
 この考えは、ヘーゲルが語っていた中国史観と同じである。
             【持続の帝国:中国】
 そんな中国を視野に入れて、李登輝さんは台湾のことを、以下のように書いている。
 台湾人は頭がよく、働き者であり、努力家である。教育水準が高く、人材も豊富だ。だから一時的に国際経済の景気や大陸中国の 「磁吸効果」 の影響を受けても、いずれ生存発展の道を見出すことが出来るはずである。
 私が最も心配しているのは、民主主義の素養や法治精神などの、現代民主主義社会に必要な価値観を向上させることができるかどうかということだ。これは近代国家建設における基礎工程なのである。 (p.193-194)
 
 
【教育】
 私は、自分が受けた日本の教育は素晴しいものだったと感謝している。・・・(中略)・・・。日本の教育制度のもと、若いころに教養を通して精神的な格闘ができたことは大きかった。それが精神の核を作り、台湾精神やキリスト教と結びついたのである。 (p.147)
 鈴木大拙の 『禅と日本文化』 、西田幾多郎の 『善の研究』 、新渡戸稲造の 『武士道』 、阿部次郎の 『三太郎の日記』 、トーマス・カーライルの 『衣裳哲学』 など、洋の東西を問わずあらゆる文学や哲学に接したが、当時の日本は教養を重視した教育環境の中で深い思索の場を用意していたのである。 (p.148)
 下記リンクに、李登輝さんが鈴木大拙に関して言及している記述がある。
             【唯心論:日本人の美質の一つ】
 このあと、「民数記」 の出エジプトのことにふれて、40年間もシナイ半島を彷徨ったユダヤ民族に関して、このように書いている。
 では、なぜ40年かかったのか。その間に奴隷だった世代が死に、教育を受けた次の世代が集団の中心になった。そうして初めて国をつくることができたのではないだろうか。
 教育によって切り換えるには時間が必要だ。その意味では、精神を磨く教養重視の教育を行っても、日本が本当に立ち直るまでには時間がかかるだろう。しかし、その教育をしなければ、いつまでたっても立ち直ることが出来ないのである。 (p.150)
 そういえば、今年度の物理学賞と化学賞、ノーベル賞受賞者4人は素晴しいことだけれど、いずれも教養重視の風潮が日本に残っていた時代の方々ばかりだ。
           【知性の軽視は・・・】
 
 
【李登輝さん・台湾に関連するもの】
 李登輝さんは、2020年7月30日に亡くなられました。
 「尊敬できる政治家は?」 と問われたら、チャンちゃんなら、「一人だけいます。李登輝さんです」 と即答します。
 李登輝さんに関連する記事をリンクしておきます。
            【客家による投資】
            【台湾文化向上のために本屋】
            【李登輝さんのこと】
            【台湾精神はあるのか?】
            【台湾と日本の距離】
            【内面世界を描くにはやはり日本語】
            【『公の精神』の大切さ】
            ○台湾では「石頭」をこう表現する〇
 
<了>