イメージ 1

 まえがきの中で渡部先生は、以下のように書いている。
 “和田さんが書くものはすべて、「わが意を得」 ている。私よりも30歳、つまり一世代も若い和田さんの出現は、まことに心強い気がする。 「勉強」 という日本人の特色だった美徳が、公の場でも軽視される風潮の中で、敢然と 「勉強」 の大切さを説く和田さんに拍手を送りたい。” (p.3)

 

 

【企業の利権構造に与する医学部教授】
 アメリカではFDA (Food and Drug Administration) が一括で医薬品の認可を行っている。しかし、
和田 : 日本では、製薬会社が自分のとことで治験をしてよいことになっているために、製薬会社の側が何人かの教授に治験を依頼し、そのデータをもとに厚生省に認可してもらうというシステムになっています。 ・・・(中略)・・・。病院からもらえる年収はせいぜい1000万円やそこらといわれる大学の医学部の先生が、本も書かずに目立った仕事もしていないのに、なぜ豪邸に住んでいられるのかを考えれば、容易に想像がつくことです。
 医学界に市場競争原理が働いていないために、このようなとんでもないことがまかり通っているのです。アメリカで認可された薬であれば、日本でも基本的には認可し、競走させるという姿勢を行政側がとらないかぎり、日本の製薬界、医学界は腐敗していくばかりです。(p.71-72)
 「アメリカの薬は日本人にだけ特別な副作用がある可能性がある」 などとバカなことを言う教授もいるとか。なら、その医学的根拠を示せと言うべきである。
 厚生省ががっちり規制してくれているおかげで、製薬会社にしてみれば、海外と競争しなくても国内で利益を上げることができるから、それでいい。実際、日本の製薬会社の利益を全部集めたら一兆円を超えるとされています。しかも、この一兆円というのは、殆どが保険薬による利益ですから、医療保険から出ています。そして、その医療保険は赤字なので、医療サービスの削減や保険料の値上げは、毎年のように行われている。つまり国民が犠牲になっているのです。(p.75-76)
 医療に関しても、政治は国民の方ではなく、医療・製薬関連企業の方を向いているということである。

 

 

【脳の優秀さよりも勉強の方が大事】
和田 : ハードは大切ですが、それによってすべてが決定するということではなく、場合によってはソフトのほうが大事で、脳が優秀であることよりも勉強の方が大事だという考え方が主流になってきているということです。(p.149)
 繰り返された勉強によって、シナプス結合が増加し脳が構造化され優秀になるのである。つまりソフト(勉強)の仕様が物を言うのであって、生まれつきのハード(脳)の性能が全てを支配しているわけではない。
 IT分野でのソフトウェアーの設計仕様というのは、処理の最適化という言葉で評価されるのであろうけれど、結論は全体の処理時間で得られる。どんなにアクセスタイムの短い高性能なハードを用いても、単純な論理回路で膨大な回数のアクセス処理をするソフトより、ある程度複雑な論理回路でアクセス処理回数を少なくしたソフト方が全体の処理時間は短くなるのである。
 パレートの法則のように、8割は単純回路、2割は複雑回路にならざるを得ないのが大方の現実のはずである。2割の複雑回路を構築できなければ最適化されたソフトはできない。ゆとり教育は、10割単純回路のソフトをつくろうとしているようなものなのだろう。最適化されていなければ国際的なマーケットから見向きもされなくなってしまう。日本人が世界から脱落するということである。

 

 

【戦後、日本を守ろうとしたカトリック】
渡部 : 私が入ったころの終戦直後のカトリック教会は、あとから考えると、おそらくバチカンからの指令ではなかったかと思うのですが、皇室を守ることに熱心のようでした。当時のローマ教皇は、大の全体主義嫌いで共産党嫌いでしたから、日本が共産主義化するのを怖れていたのではないかと思います。
  ・・・(中略)・・・。
 またカトリックは、神道自体は敵視していませんでした。喧嘩するにしても、ドグマがありませんから論争にならないのです。 ・・・(中略)・・・。カトリックはとにかく日本の伝統を大切にしました。
  ・・・(中略)・・・。
 当時の日本ではタブー中のタブーが自由に語られた空間が上智大学であったのです。偶然ながらそこで学ぶ機会があったことは、幸運としか言いようがありません。カトリックというと異教徒のイメージがありますが、当時の上智大学は、どの大学よりも国粋的であり愛国的でした。(p.181-182)
 英語学が専門の渡部先生は、国学的な著作も多く書いてくださっており、私自身それらから学ばせていただいたことは実に膨大であるけれど、先生が上智大学を選んでいなければ、戦後、学校以外の書物を通じて学んだ日本人の教養レベルの平均値は、かなり下がってしまったことだろう。

 

 

【遅刻した生徒は決して教室に入れない】
渡部 : 授業開始時間になり私が教室に入ったら、ドアを締めて鍵をかけさせます。鍵がかからない教室の場合には、遅刻してきた学生には 「出ていけ」 と言って出してしまいます。始業時には学生も立たせて、「おはようございます」 と挨拶をさせ、終了時も同じように挨拶するということを続けていました。そのように大学生を躾けたのです。(p.185)
 天候による電車の遅延が理由であっても入れなかったという。
渡部 : 私は上智大学でたくさんのいい先生につきました。留学先でも先生にはとても恵まれましたから、その伝統をぜひ守りたいと思いながら40年間つとめたことはたしかです。(p.185-186)
 最近の先生は、厳しさという躾の価値を理解していない。教養のない父兄からクレームを受ければすぐに譲歩してしまうのである。しかしそれは譲歩とはいえない。単に、教育する側に毅然たる資質がないのである。
和田 : アメリカでもそのような 「ゼロ・トレランス(zero-tolerance)」 教育をしている学校も多く、理由いかんによらず遅刻を3回やったらオールタナティブ・スクール(alternative-school)に送るなどということをしています。そして、これをやることによって、非行が激減したといわれています。(p.187)

 

 

【勉強不足の教育学部教授】
和田 : いまアメリカは、その60年代から70年代の個性重視のやり方を捨て、90年ごろから、試験重視、家庭学習重視、校則や制服復活などという形で教育システムを大幅に変えました。それによって少年犯罪も減り、かつ学力もかなり再建されてきています。それにもかかわらず、そういうアメリカでの実態を文部省に伝えることができないということは、いまの教育学部の大学の教授たちが、いかに勉強不足かということでしょう。(p.54)
 個性重視教育 ≒ ゆとり教育  のような認識で、その弊害の実例を調べる気もなく、思い込みで推進してきた不勉強な人々が殆どである。
   《参照》   『繁栄のシナリオ』 亀井静香・濤川榮太 (中経出版)
            【授業時間を増やそう : 濤川】

 IQばかり重視してEQが無視されてきたというような言論を、詰め込み教育の弊害として理解してしまう人々も多いことだろう。これも事実誤認である。

 

 

【 IQ  と EQ 】
和田 : EQというのは、IQが高いのに社会で成功できていないのはなぜだろうかと考えたとき、それは他人との共感能力とか自己動機付け能力が足りないからだという、IQを補うものとして考えられてきました。
 ところが日本で紹介されるや、IQが高い人は逆にEQが低いなどと勝手に誤解されるようになったのです。でも実際にはインテリによる殺人事件というものはすごく少なくて、メッカ殺人事件(1953年、銀座のバー 『メッカ』 で証券ブローカーを慶大生が殺害)で加害者が始めて大卒者であったといわれています。大卒者が人口の4割を占めているという時代に、年間1200件起こっている殺人事件をみても、大卒者による殺人事件は本当に少ないはずです。
 そういう意味では知的な教育を受けている人のほうが、情的にも育つ可能性というのは高いということです。ですから、片方がよければ片方がだめだという発想こそが、おかしいのです。(p.215-216)
 知識が豊富であれば、それらが材料となって自ずから考える習慣がつきやすい。それは思い込みの弊害に気づくことでもある。知的な教育を受けていない人々というのは、自ら事実関係を確認することもなく噂話を鵜呑みにしたり、自分にとって寄りつきやすい思い込みで人を判断するという性もかなり強いのではないだろうか。
 和田さんは、知的な生活において “視点をかえて見る” ことの大切さを、この本の中で何度か語っているけれど、この作法を心得ている人々なら、噂話で群れをなして人を断罪するなどという、無教養な態度はとらないはずであるけれど、読書に親しまない人々は、大卒であれ、その知的習慣の欠如ゆえに容易に冤罪に加担する側で群れをなす。IQが磨かれていないから、衆愚に染まったままEQの低さが維持されているのである。

 

 

【知性の軽視は・・・】
和田 : 現在に日本の問題点は、表に見える不景気より、潜行する知性の崩壊だと私は考えている。事実、日本人は知的なポテンシャルがあったから、明治維新後にたちどころに世界の先進国の仲間入りができた。 ・・・(中略)・・・。しかし、逆に知性を軽視していれば、いつ三流国に落ち込むかわからないのが現代社会の怖いところである。(p.246)
 ハーバード大学に学部生として在籍する日本人は、かつては何十人もいたのに、現在は一人もいないという。日本の大学のレベルが高くなったから海外留学する必要がなくなっている、というのであるならそれでいいけれど、地方の国立大学工学部で教鞭をとる人が、「近年の学生のレベルはヒ・ド・イ・ヨ」 と言っているのを聞いたことがある。
 生徒の知性どころか、小中高では既に教える側の知性が劣化しているのであろう。そのような報告は、書物やテレビで、何度も繰り返し見聞している。
 どう楽観的に考えようにも、教育の現状を知るにつけ、心中では 「 日本は既に “終わっている” 」 と思ってしまう。渡部昇一先生のような世代の方々が、強固な日本丸を建造してくれていたから、その恩恵でなんとか今日でも航行できているのだろうけれど、この先どうなるのか、ノー天気に楽観的な振りをして生きるしかなさそうである。
   《参照》   『最高指導者の条件』 李登輝 (PHP)
              【教育】
 
<了>