イメージ 1

 著者が行っているセミナーで出された、いろんな質問に対する回答として編集されている。著者は傑出した霊能者でもあるから、悩み事の背後にある霊的な問題を含めて回答しているケースもあるけれど、その部分は書き出さなかった。その部分も本当は重要である。2008年9月初版。

 

 

【悟りの中でも、最上のもの】
 前書きに書かれていること。
 「悟りとは考え方の工夫である」とも言えるので、ちょっと考え方を変えれば、解決策が出ない時でも幸せで居れる悟りも得られましょう。その悟りの中でも、最上のものは、気を転じて別なことに没頭することで、悩みをもっている自分を完全に忘れ続けることができるという方法でしょう。悩みを持ったまま進歩向上を続けるという、大変立派な解決のあり方です。(p.4)
 雲ひとつない快晴の日なんてそうそうあるわけない。
 すなわち、普通の幸せな人生とは、少々悩みをもったままで明るく元気に生きることだと言えるのです。(p.5)
    《参照》   『解決策』 三休禅師 (たちばな出版)
              【不昧因果(ふまいいんが)】
 黒雲に覆われたドシャ降りの日だってそうそう何日も続くはずがない。
 たくさんの悩みを抱えていてさえ、明るく元気に生きよう。
 ここまで勝手なことを書いちゃうと「安易すぎるかも。不謹慎かも」なんて思ったりするけれど、「人生なんて、畢竟するにラプソディーさ」って思えるくらいの人なら安易でも不謹慎でもないだろう。

 

 

【いつも柔軟で謙虚なのがいいわけではない】
 いつも柔軟で謙虚なのがいいわけではありません。何の覚悟も信念ももたずにフラフラしている人より、少しぐらい我が強くても、腹ができている人間のほうがずっと尊いのです。・・・(中略)・・・、特に五十を過ぎたら、もう自分というものが固まっていすから、・・・(中略)・・・。
 我の強いまま、心の狭いまま、エネルギッシュに、「それ行けー」と生きろ、というのが日本の神様の考え方です。生成化育、進歩発展していく御魂の力こそが、神道では尊ばれます。熱田の神様も伊勢の神様も、これを一番喜ばれるのです。暗く落ち込んでいるより、明るく元気な方が周囲も助かります。(p.27-28)
 下記リンクも、神道的人生観を理解する上で参考になるだろう。
   《参照》   『こんな恋愛論もある』 深見東州  たちばな出版
             【没入、忘我で顕現する動中の静】

 

 

【要するに暇な人の蹉跌】
 いつも怒っていると、心の鏡には、怒った顔の残像がいつまでも残ります。その上に恨んだ顔や妬んだ顔の残像が幾重にも重なっていくと、心の鏡はどんどん曇って、神様を映し出すことができなくなってしまいます。心をパッと切り換えれば、鏡もまたパッときれいに澄み渡って、神様が浮かび上がってきます。
「あの人は絶対に許せない」
 と、いつまでも怒っていたり、ああすればよかった、こうすればよかったと悔やんだり、ずーっと誰かを恨み続けている人というのは要するに暇なのです。いつも前向きにエネルギッシュに生きている人は、過ぎ去ったことをいつまでもグチャグチャと考えている暇はありません。(p.38)
 これって、「小人閑居して不善をなす」に近い。
 「暇人閑居して、後ろ向きに滞る」か。
 「前を向け! 暇をつくるな!」

 

 

【自分自身を充実させる】
 子どもの頃の友情とか、若い頃の友情とか、職場の利害関係とともにある友情というのは、ある程度無視してもいいのです。それよりも自分を確立することのほうが大切です。自分が立派になれば、立派になったなりの人間関係が、また新しくできます。・・・(中略)・・・。真の友情というのは、成熟した人間としての値打ちというものを認め合う関係でなければ、長続きしないものなのです。
 友達のための人生ではないし、学校の先生のためでも、お父さんやお母さんのための人生でもありません。自分自身のための人生なのです。誰かの期待に応えるということを考える前に、自分自身を充実させることが一番大切なのです。(p.54-55)

 

 

【期待しない】
 自分の部屋をぜんぜん片付けようとしないダンナにイライラしている奥様の悩みに対して、
 物事には解決できる問題と、解決できない問題があります。この場合は、解決できないと考えて、あなたが毎日お掃除すればいいのです。
「あなた、いらない物があったら出して」
 と言って、セッセと片づけることです。 ・・・(中略)・・・ 
 そんなに完璧な人はいませんし、それさえ辛抱すればうまくいくのです。
 なぜイライラするのかと言うと、期待感があるからです、愛情とか真心とか言いますが、その中には、相手にこうあってほしいという期待感が必ず入っています。援助でも協力でも、あるいはご奉仕でもそうです。(p.94)
 期待感を持たずに、短所をそのまま愛してあげてください。それが本当の愛情であり、包容力というものです。あるいは、人に親切にするのでも、ご奉仕や援助、協力ということでも、期待感を持たずにやるのが本当なのです。(p.96-97)
 反転して表現すれば以下のようになる。
   《参照》   『神との対話 ③』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《前編》
             【外からの承認】
   《参照》   『神とひとつになること』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《後編》
             【「わたしはすべてを自分自身のためにしている」】

 

 

【不条理な世の中と神と人間】
 神様は全知全能の可能性をもっておられますが、いまだ全知全能を発揮されたことはありません。なぜならば、この3次元は、私たち人間が神様の代行者として、万物の霊長として、神様の御心を成就する責任があるからです。だから、人間が頑張らなければ、この世の中はよくならないわけです。そのために私たちは生まれてきて、使命感を燃やして生きているのです。不条理を解決するために頑張っている人に、神様は、力と智恵と運と勇気を与えてくださるのです。(p.151)

 

 

【神様に届く祈り】
 人に動いてもらうためには、相手を感動させる必要があります。これは人間も神様も同じことです。あるいは、守護霊も如来も菩薩も蛇でも龍神でも同じことです。(p.208)
 それには、まず自分が情感を極めることです。神様に言うというより、自分の魂と感性に言って聞かせるように祈ることです。真心が震えてくると、その波動が神様にバーンと通ります。すると、胸がホッとしたような気持になります。そうなるまで祈り続けてください。何時間祈っても情感が盛り上がらなければ駄目です。(p.210)
 こんなふうに祈れて、その波動が神様にバーンと通った時には、「受け取ったよ」の合図として、白い光がバーンとこっちに飛んでくるんじゃないだろうか。
            【孤独(ひとり)の祈り】

 

 

【人心と道心】
 欲というのは、肉体から来る心の働きです。これを人心といいます。これに対して魂から来る心を道心といいます。求道心とか、高貴なるものを求めていこうという心は、自分の精神の深い部分、つまり御魂から来ているのです。これを魂と呼んでいます。一方、人心、つまり肉体から来るものを魄と言います。両方合わせて魂魄と読みます。(p.218)
 道心が60%ぐらいで、人心が40%ぐらいならば、大変素晴らしい人生を送れます。50%ずつならまあまあでしょう。ところが、ちょっと間違って、魄のほうが大きくなってしまうと堕落してしまいます。欲望や煩悩に負けてしまった状態になってしまうわけです。(p.219)
   《参照》   『大天運』 深見東州 (たちばな出版) 《前編》
             【「道心これ微かにして、人心これ危うし」】

 

 

【正義・大義】
 この魄を抑える働きをするのが「義」なのです。つまり、欲というものが起きてきたときに抑えるのが、義の心です。正しき義が、「正義」です。正義の味方というのは、自分の欲や損得に関係なく働く義の心の持ち主です。楠正成公が「大義」に生きたと言われるのは、自分の欲、立身出世したいという欲や領土欲、あるいは、財産や家の名誉などのためという人心を抑えて生きたからです。これが大きな義の心、大義です。(p.219)
 武士道は「義」に生きることを常に説いている。『武士道解題』を著している李登輝さんは、間違いなく義に生きた政治家だった。日本の政治家にそんな人がいるだろうか?
   《参照》   『最高指導者の条件』 李登輝  PHP
             【善政のための死生観】~【エイジアン・バリューに与さない】

 

 

【人が報いてくれなくても】
 神社の神様は、スの大神様の大愛の大御心に仕え奉って、人々のために一生懸命働いておられます。ですから、私たちが少しでも感謝すれば大いに喜ばれます。しかし、仮に感謝しなかったら、全く動いてくださらないかというと、それでも人々のために動いてくださるのです。伊勢の神様も、住吉の神様も、諏訪の神様も、神社の神様は全部そうです。菩薩も如来も、守護霊も守護霊団もエンゼルも、高級神霊というのは皆そうなんです。
 決して「俺がやってやったんだ」とは言わないし、願いを叶えてやったかわりに、ああしろ、こうしろなんて反対給付を求めません。なぜ求めないかというと、義の心によってスの神様の大愛という神命、大御心に仕え奉っているからです。人が報いてくれなくても、神様が報いて下さるのです。愛を与えてくださるのです。(p.226)
 おそらく宗教的世界に惹かれる人は、「人が報いてくれなくても・・・」とか「人が報いてくれないからこそ・・」という表現に涙を流すような時期があったに違いない。そんな人々は道心の意味を知るだろう。
 人生において権力ある縁者に恵まれた人は、七光利用で人心は十分満たされるから道心なんて必要ないだろう。道心なき人々にとっての宗教とは単なる弱者の御利益頼み処であり、道心なき政治家にとっての宗教とは単なる票田なのである。
 道心の発露に至らない人々が多いと、世がすさむ。

 

 

<了>
 
 
   《参照》  深見東州・著の読書記録