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 過去に多くの転生を繰り返す中で、国内外の文化を経験し最後にこの日本でまとめとしての人生を経験している人々は、必ずや深見東州著の著作に辿り着くはずと思っている。

 

 

【タイトル解題】
 本書では、絶対的な強運である天運をつかむ方法について、神霊世界の本質的なところから説き起こしたいと思う。だが、それにはどうしても、宗教的色彩が濃くならざるを得ない。(p.12)
 20年近く前、著者の主要な7作 ( 「大天運」 「強運」 『大創運』 『大除霊』 『神霊界』 『恋の守護霊』 『神界からの神通力』 を読んだ時、いずれも極めて印象的だったけれど、その当時の想いで、強いて一冊を挙げるならば、この 『大天運』 を挙げたはずである。ドクマを離れた普遍的宗教性、すなわち自在性へと至る過程が記述されていたから。

 

 

【真髄とは】
 結論から言えば、真髄とはこの世に生まれる前から自己に内在しているものであり、ただ、それを自覚できていないだけなのだ。 ・・・(中略)・・・ 。
 真髄とは、到達して得られるものではけっしてないのである。それゆえ、本にたとえるならば、クライマックスに到達するまで読み続けてゆく連載小説や連載マンガではなく、「毎回感動の読み切り、次回ご期待!」 でなければならないのだ。(p.41-42)
 「真髄って、期待して期待して最後に訪れる大感動の渦中にあるものじゃないんですかぁ~~~~」 という感じで、前のめりにコケてしまいそうな記述である。

 

 

【神意にかなうすばらしい人生】
 わかったようなことを言って、ふんぞり返っている宗教者や霊能者より、 『少年ジャンプ』 を夢中で読んで、
「ボクも北斗神拳のケンシロウのように、正義のために武術をやろう」
 と、目を輝かせている少年のほうを神様はより好まれる。また、庭に咲く一輪の菊に素直に感動して、
「この菊の美しさを、ぜひ描いてみたい」
 と、夢中で写生をしている老画家のほうを、より真実と、真髄と、正しい道に近い人であるとして、神さまは評価しておられるのである。
 だから、 ・・・(中略)・・・ 森羅万象、人事百般、すべてから学び続け、それを神様の一部として会得し、感謝感動して、幸せに日々を生きているならば、これ以上、神意にかなうすばらしい人生はないのである。
 だから、そんな人には、天運がこぞってお出ましになるのである。(p.48-49)
 宗教を学んでいる人に限って大天運が訪れるのではない。すでに前世において宗教的人生観を会得し学びを完了している人は、今世、宗教には殆ど関心を示すことなく、神意に叶った生き方をしているのだそうである。
 宗教的人生観の確立とは、不昧因果の法則を学び、修身(内修)と積徳(外慈)に努め専心する態度の確立なのであろうけれど、こういったことを学ぼうとしない人々は、運・不運にいちいち喜んだり悲嘆したりして浮沈のある人生を何回でも繰り返してゆくのだろう。
    《参照》   『解決策』 三休禅師 (たちばな出版)
              【不昧因果(ふまいいんが)】

 

 

【変化】
 実は、無形の何かが有形なものになっていくのを 「化する働き」 といい、有形のものが無形のものになっていくのを 「変ずる」 というのであって、この二つの意味を合わせた言葉が 「変化」 というわけだ。だから、ものの順序からいえば本来、「化変」 というべきであって、「変化」 というのは有形のほうにウエートをおいた言葉といえる。(p.55)
 この 「化変」 を一般的によく知られた用語を用いて説明すると・・・、

 

 

【化 ⇒ 無形の宝を積む】
 私たちが本来目指すべきは、「変」 ではなく 「化する働き」 のほうである。つまり、無形の宝を積んでいくと、やがて有形の宝となって現われるという面に視点を置いて、ますます無形の宝を積むことに努めねばならないのだ。(p.61)
 「無形の宝を積む」 とは、一般的に言われる 「積徳」 のことだろう。大天運を養う基礎である。

 

 

【変 ⇒ 諸法無我】
 形あるものはやがて無に帰する、だから空しいのだという 「諸法無我」 は、執着心や煩悩に捉われている人間や祟り霊、自縛霊、浮遊霊などを救済するとき、あるいは死んだ人間を悟らせるとき、これを説かねばならないが、生きている私たちが 「諸法無我」 などと聞くと、何事も空しくなってしまい。やる気、勇気が出なくなってしまう。(p.61)
 仏教でも 「積徳」 の大切さを語ってはいるのだろうけれど、仏教教学の基礎として最初に 「諸法無我」 を教えるから、暗く受け取られてしまう傾向がある。

 

 

【宗教教理という枷】
 一つの宗教教理を固く信じている人。こういう人は、もはや多種多様な前世の記憶を引き出すのは難しいといえる。前世で立派な徳を積んでいても、引き出せずに終わってしまうことが多いのである。なぜなら、何を見ても、何を聞いても、自分の信じる教理教論で料理してしまい、その背後にある前世の才能の記憶を自らふさぎ、神さまの声、守護神、守護霊の声を聞こうとしないからである。(p.112)
 特定の宗教団体に属している人の中には、必ずこういった人々がいる。あらゆるものを自分の信じる教理教学に照らして断ずるような人と共に長時間を過ごさなければならないとしたら、ほんとうに苦痛である。観念の枷が強烈過ぎる人ほど自覚がないからどうしようもない。宗教教学の枷にガッチリ嵌っている人の頭の周りには、孫悟空の頭についている枷のようなものが実際に神霊的に見えるという。宗教団体に属するということは、この神霊的な枷を受け取るということなのである。だから、宗教団体に入れば、大抵の人は頑固になるのである。
 宗教的観念の強烈さに関しては、一般的に外国人より日本人の方が遥かにマシだけれど、同じ日本人同士であっても、教学を持つ仏教系の人々より、宗教教学をもたない神道系の人々の方がまだマシである。

 

 

【クリスチャンの問題霊】
 クリスチャンの問題霊は、イエスに対する信仰は信仰としてしっかりもち、怨念は怨念として強く持っている場合が多い。
 バイブルには 「因果の法則はない」 と否定している個所はない。逆に、 ・・・(中略)・・・ 肯定している個所もない。要するに、説かれていないだけなのである。
 だから、バイブルをもって 「因果の報い」 を否定する論は成り立たないのであるが、クリスチャンの霊は、ただ頑固であるというだけで、なかなか改心ができないのである。(p.135)
 日本人の中にもかなり根深い怨念を持つ人々がいるけれど、 「水に流す」 文化の日本人と、宗教的確執をタップリ・コッテリやってきた欧米人とを比べたら、その頑固や執着の度合いは、日本人の方が遥かに軽度である。頑固というのは神霊的にはかなり暗い状態である。

 

 

【四勿主義 : 三猿の原典】
「礼に非ざれば視ること勿れ。礼に非ざれば聴くこと勿れ。礼に非ざれば言うこと勿れ。礼に非ざれば動くこと勿れ」
 これを四勿主義というのだが、師の言葉を聞いた顔回はこれを固く守り、以後、四勿主義を貫いて、仁の道を成就した。そのことによって、
「顔回、三月仁に違わず」
 とまで言われたのである。三月とは三か月のことではない、長い年月の意である。 ・・・(中略)・・・ 実は、この四勿主義が 「見ざる、いわざる、聞かざる」 の三猿の原典となっているのである。この場合は 「礼に非されば」 が抜けているが、
「悪いことは見ないようにしましょう。 ・・・(中略)・・・ 」 というのが本来の意味である。 (p.116-117)
 日光東照宮の外国人観光客用の英文パンフレットには、ちゃんと 「See no evil, ・・・」 と目的語が書かれている。

 

 

【「道心これ微かにして、人心これ危うし」】
 ついでに4番目の 「動く勿れ」 も解説しておこう。「礼に合わないことに心を動かしてはいけない」 という意味である。
 ところで、この四勿主義を本来の観点から言い換えると、このようになる。
「道心これ微かにして、人心これ危うし」
 この有名な言葉は、孔子が理想にしていた古代の理想社会の統率者、最高のまつりごとを行っていたとされる帝であり、聖人であり、大政治家でもあった堯が舜に伝えた、政治と聖道修業の極意とされる文だったのだ。いわば、儒教の根源の根源となっている名文である。
 ここでいう道心とは、求道心や仁というような意味で、人心とは人間の欲望のことである。道心は非常に微かであるのに対し、人心、つまり欲望はあらゆる局面で不幸な結果を招く、というのがこの言葉の意味である。(p.117)
 日本神霊界の守護神となっている多くの神々は、揺るぎない心で道を歩む人々が余りに少ないことを、きっといつも慨嘆しているのだろう。

 

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