江戸時代の不思議。 | 自分らしさを追求する女性セラピスト  Hitomiのブログ

自分らしさを追求する女性セラピスト  Hitomiのブログ

女治療家ひよっこダンサーがお伝えする「できる女」の作り方

みなさま、こんばんは☆Hitomiです。


久しぶりの更新。


今日は、ヨガで体をほぐし、はじめてフェイシャルエステというものをしました。

顔はつるつるになったんだけど、体は何故かまた固まったような…しょぼん


さらに、相方さんに連れられ昨日TVで宣伝していたという、トンカツ屋さんへ!


ヨガとエステが台無しのような気もしますが、美味しく食べてきました音譜



自分らしさを追求する女性セラピスト     Hitomiのブログ


そこで、見上げると


「トンカツの歴史」なるものが書いてありました。



”トンカツの歴史は、明治維新にさかのぼります。…

 それまで日本人は、獣肉を食べるという習慣がありませんでした。…”



明治時代の前といえば、江戸時代。



最近私は、ずっと江戸時代が気になっていました。


何故か。


まずは、江戸時代の女性は月経血をプールしてトイレで出していたということを知ったとき。

もう、3年くらい前になりますかね…

生理ナプキン、いらなかったんですねアップ


そして、以下のブログを読んだとき。



日本人の体力


抜粋


開国の頃、日本人は西欧人が、そして今の私たちが驚くほどに健康で頑強な体をしていた。

なりは小さいながらも実力では西欧先進国の水準を遥かに超えていた。これがやがては日清・日露、そして二度に亙る世界大戦で、人的能力では実質「世界最強」を示したわが国軍事力の礎ともなるのである。


それは白人優越主義時代のただ中にあって、生の日本人の姿を見た欧米人にとっては信じがたい、けれども歴然とした事実だった。


でも、日本人は、、、汗


…しかし、にもかかわらず明治政府は、ベルツの研究結果よりもドイツの「栄養学理論」を重んじて、フォイトの「欧米人並みに体を大きくする栄養学」の方を選んでしまった


このあと、日本人はいわゆる「退化の歴史」を刻むことになるのです。



また、


『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』より

この本の核心部分とは違うところからの抜粋にはなりますが、気になるところ。



江戸時代には貨幣経済や商品経済が確立していた。民衆に対する教育の普及、

秩序を守る法の精神が中国や韓国を上回っていたのはもちろん、西洋以上の水準にまで達していたことがその土台になっている。


また、P.F.ドラッカーの名言

『歴史の哲学』より


人は日本の西洋化を論ずる。だが、それは西洋の日本化だった。


日本は、理論、制度、手続きの一切を輸入した。しかし日本は、それらのものを自らはぐくんできたシステムと構造、すなわち江戸の社会と文人の文化に組み込んだ。

事実、日本の普通教育はヨーロッパに先行していた。明治維新の成功は、西洋の日本化という視点によってのみ理解が可能である。


さらに、高岡英夫著

『意識のかたち』より


「江戸時代か…環境問題・資源問題という観点でみると、江戸時代というのはきわめて素晴らしい社会だったそうだな。自然に調和し、自然的な生産力を最大限有効に活かす、例えばリサイクルのシステムなどは大変に見事なものだったらしい。」


「世界的に見ても最大級の都市であったにもかかわらず、江戸というのはごみひとつない、世界で最も美しく、清潔な都市だった。同じ時代のロンドン、パリなど、今日からは想像できないほど、ごみと汚物にまみれた不衛生な都市だった…以下略」


江戸末から明治の初期、日本の土を踏んだ外国の知識人たちの多くが、日本の文化は極めて独自にしてその水準は世界でも最高レベルにあると、評価していたのです。浮世絵は、どうですか。ヨーロッパに移入されて、美術界に巨大な影響を与え、西洋絵画の根本思想を変えたのですよ。…中略


私たちの生んだ文化は、独自にして人類に普遍する価値を持った、最高度の文化だったのです。


こうした伝統の中身の何たるかを全く知らずして、近代的科学的トレーニングだ、最新の科学的動作分析だ、栄養管理だと言って、それで物事の核心を捉えたつもりになっていたとは…。



最後に、先の「日本人の体力」ブログには


肉食をしている人と、全く肉を食べない人との体力と耐久力についての比較検証


から、肉を食べていない人の方が圧倒的に筋力、筋持久力が高かったという結果を書いています。

(詳細は読んでみてください)



ね、江戸時代霧

町民レベルでもすごい身体能力を持っていたといわれているこの時代。


芸術、スポーツ、文化、どんな物事でも、核心をついた、素晴らしい思考をもとに形成されていたのではないかと想像できます。


少し興味がわきませんか?



そんな私の今日は


昭和4年に誕生したというトンカツを食べながら、


90歳代中盤にして、栄養摂取量が足りていないからとPEG(胃ろう)を奨めるIC(インフォームド・コンセント)をされる患者さんやその家族を、異論も反論もできずただ見ていなければならなかったことを思い出し


自然と調和するということと現代社会がどんどんかけ離れていくのだなぁと


つくづく思うのでした…



ちょっと話がそれますが

年老いて、食べる量が減って、だんだんと枯れるように死んでいくのは

自然死であって、餓死じゃないです!



胃瘻に関してとある医師に相談したら

「餓死はさせられない」と言われました。


私のおじいちゃんは、がんでしたが

食欲がなくなって、やがて立てなくなって、家族全員と長男の孫全員と

いつもの看護師さんとお医者さんの前で

自宅で、すーっとゆっくりと眠るようにして亡くなりました。

すごく静かで、全然怖くもなくて、いい顔をしていました。

「死ぬときは、こうやって死ぬんや」と見本を見せてくれたかのようでした。



今、いったい何人の人が自宅で看取ってもらえているでしょうか??

自然死を見たことがありますか?



何が正しい、間違っている、私は誰にも答えを教えてもらっていません。

だから、餓死じゃない!って主張したって何かの定義的には餓死なのかもしれません。



ここまで読んでくれた皆さん、今一度考えてみてください。


「自分(家族)がどうありたいか(生きたいか)(死にたいか)」



医療人の私が言うのもなんですが


現代医療には、頼りすぎず、自分でコントロールして、うまいこと医療を”利用”してくださいね。



トンカツぶーぶー並みに重たい内容でしたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました(‐^▽^‐)


Hitomiラブラブ