現代の英雄
「強い人はいない。強い振りができる人がいるだけだ」とは或る著名な作家の作中人物の言葉だが、弱い振りができる強さもあるのではないか。中村主水もクラーク・ケントも普段は昼行灯だが、いざとなれば悪人を成敗する強さを発揮する。最近の「ブラックポストマン」というドラマの主人公もそうだ。「いつもは弱いが、いざとなれば強くなる」――これがヒーローの鉄則だと言ってもいい。例えば、来る日も来る日も虐められて苦しんでいる子供がいるとする。先生に言っても無視される。親に言ってもダメ。親しい友人はいないし、皆「触らぬ神に祟りなし」とばかりに見て見ぬ振りをする。そんな絶望的な状況で待ち望まれるのはヒーローの登場だ。実際、手っ取り早く虐めを根絶したいなら、虐めっ子を抹殺すればいい。それも一番惨たらしい方法で抹殺すればいい。「人を虐めるとこんな悲惨な目に合うよ」という見せしめのために。必殺仕事人に依頼すれば、わずかなお金で請け負ってくれる。それも現実的な「永久平和」への道の 一つであろう。法律に反する道だが、超法規的な道を余儀なくされる場合もある。ただし、それはかつてアンチ・ヒーローの道だとされたが、今や「アンチ」が不必要になりつつある。「現代の英雄」としては、大衆はペチョーリンの如きニヒリスト(余計者)よりも安倍元首相を撃った山上容疑者の如き行動者を待望しているのかもしれない。どうもそんな気がしてならない。
理想主義と岡目八目
先日、秋田でクマ三頭が駆除されたことに対して「県外」から苦情が殺到しているというニュースがあった。私は何だか腹立たしい気分になった。苦情に対してだ。詳しい事情が分からないので誤解かもしれないが、どうやら私の腹立たしさの根源には「県外」があるようだ。おそらく、苦情は崇高な動物愛護の精神によるものだろう。そこには生きとし生ける全てのイノチを尊重する理想主義がある。しかし、その理想主義がクマの被害などあり得ない都会から掲げられたものであるならば、やはり腹立たしいものではないか。余談ながら、先日テレビで観た鳥海山のマタギのドキュメンタリイでは、「自分たちはハンターと言われたくねぇ」という言葉が印象的だった。アイヌのイオマンテは言うに及ばず、それは単なる「クマの駆除」などではない。そのことを無視して、しかもクマの危険とは無縁の安全な場所で「クマさんたち、かわいそう」と苦情を訴えているとすれば、もはや腹立たしさを通り越して絶望的な気分に陥る。それは理想主義のキレイゴトに対する絶望でもある。
しかしながら、「県外」からの無責任な苦情がキレイゴトにすぎなくても、動物愛護の精神に理想が胚胎していることは事実だ。殊に幼い子供たちの「クマさんたち、かわいそう」という純真な声をキレイゴトの一語で葬り去りたくはない。端的に言えば、そこに潜在する理想主義を何とかして救い出したいと思う。しかし、それは至難の業だ。私は「永久平和」の現実主義ではなく、あくまでも「永遠平和」の理想主義を貫きたいと思っているが、それをウクライナのど真ん中で主張したらどうなるか。「ウクライナの外」から、取り敢えず戦争の危険とは無縁の安全な日本から「永遠平和」の理想を訴えることは、私がクマ駆除に対する「県外」からの苦情に感じたように、やはりウクライナの人たちにとって腹立たしいものだろう。「理想なんかウンザリだ!とにかく悲惨な戦争の現実から一刻も早く解放してくれ!」という腹立たしさに満ちた叫び。返す言葉もない。しかし、当事者の現実は無視できないが、そこに真実があるとは限らない。むしろ、第三者の目に真実が映る場合もある。その真実こそ理想主義だと信じたい。戦禍の現実に苦しむウクライナの人たちの魂にも響く理想主義とは如何なるものか。
理想が現実になればケーサツいらない
「永遠平和」の理想を求めているうちにも、現実には暴力の毒が拡がり続けている。それなら悪しき独裁者を暗殺したり、ならず者国家を滅亡させたりするのを優先すべきではないか。遺憾ながら、暴力には暴力で対抗するしかない。そのためには国連でも何でもいいから権力を集中させて、全世界の暴力を取り締まる国際警察が必要になる。そうした絶対的権力の下での暴力一掃を現実的な「永久平和」と称して理想的な「永遠平和」と区別するならば、人々はどちらを選ぶだろうか。最近の刑事ドラマを観ていると、どうも「永久平和」の方が優勢のようだ。例えば、「未犯システム」というものがある。全ての国民の個人情報をAIに解析させて、犯罪者になりそうな人物を特定するシステムだ。言うまでもなく、現実には違法なシステムだが、「犯罪を未然に防ぐ」という点では有効でもあり、その葛藤がドラマの核になる。これはマイナンバー制度にも通じる問題だが、国民の個人情報が全てデジタル化され、国家権力によって管理されることは余り気持のいいものではない。しかし、それによって 様々なことが便利になることもまた事実だ。殊に「犯罪を未然に防ぐ」ことにも役立つならば、国家権力による監視は国民生活の安全保障としてむしろ歓迎されるだろう。すでに街の至る所に監視カメラが設置され、「永久平和」への道は着実に整備されつつある。この道をこのまま歩き続けていいのだろうか。
法治パラダイス
通常、我々は何か問題が生じると法律をつくって解決しようとする。例えば、ヤクザの横暴が善良なる市民の安寧を脅かすという問題が生じれば、それを規制する法律をつくって取り締まろうとする。ただし、その法律が現実に効力を発するためには、ヤクザの反社会的暴力以上の強さが必要になる。もしその強さがなければ、せっかく立派な法律をつくっても、ヤクザの暴力は平気でその法律を踏み躙るだろう。今の世界情勢が正にそれで、大国の横暴を抑えられる絶対的な強さはどこにもない。所詮、法律は無力なのだ。結局、絶大な力がなければ法律は有効にならない。とすれば、諸問題を最終的に解決するのはやはり力の強さということになる。今の国連は無力だが、将来、どんな大国も従わざるを得ないような絶対的な力 を有する国連が実現すれば、「永遠平和」も夢ではなくなる。では、そうした最強の国連が支配する世界が理想社会なのだろうか。確かに、それは法治パラダイスと言える。しかし、そのパラダイスは基本的に戦国時代を終焉させた絶対的権力者の支配下での天下泰平に等しい。「永遠平和」はそうした大審問官的平和でしかないのか。私は違うと思う。「永遠平和」の理想は力の強さによっては実現しない。
「勉強の奇蹟」を超える次元
人は皆、幼い頃から「勉強しろ」と繰り返し言われて育ってきた。一般的な受験勉強とは無縁の人でも、他の分野、音楽とかスポーツなどの勉強を怠ることはなかった。更に言えば、親や教師からの「勉強しろ」という言葉に反抗する人でも、自分の好きなダンスやゲームの勉強に没頭している。勉強の場は学校に限らない。学校の教科に興味が持てなくても、人は様々な分野で強くなろうと勉める。そこに勉強の本質があると私は考える。「勉強 勉強 勉強 勉強のみよく奇蹟を生む」とは実篤の言葉だが、こうした広い意味での勉強を無視する人は皆無だろう。誰もが多様な意味で強くなろうと勉める。「強さの正しさ」を疑う人はいない。
しかしながら、「人生の理想は強さに尽きるものではない」と私は思っている。そんな青臭いことを言っても、全く説得力はないだろう。実際、私はその言葉の真意を未だ上手く表現できないので、単なる「弱さの擁護」と見做されても仕方がない。「世の中、強い人ばかりじゃない。弱い人の苦しみを忘れてはならない」という程度の人道主義的な理解。それも強ち間違いではないが、私の真意はそこにはない。例えば、一向になくならない虐めの問題。強い者が弱い者を虐める場合、虐める強い者は非難され、虐められる弱い者は同情される。しかし、そのように虐める者の強さが厳しく糾弾される場合でも、虐められる者の弱さが正しいと思う人はいない。むしろ、内心では「虐められる弱い者にも責任がある。弱い者も頑張って強くならねばならぬ」と思っているのではないか。結局、弱い者には同情しても、その弱さが肯定されることは決してないのだ。弱さはあくまでも否定されるべきものにすぎない。ただし、子供(強さが未発達)や老人(強さが衰退)、あるいは障害者など、一般的に弱者と見做される人たちの弱さは、厳密に言えば不自由であって弱さではない。この点、やはり上手く表現できないが、たった一人でも日常生活が不自由となる環境は社会全体で改善しなければならない。当然のことだ。しかし、それは「弱さの擁護」ではない。強い者が弱い者を助ける。大人が子供を助ける。若者が老人を助ける。健常者が障害者を助ける。善き社会だと思う。しかし、その先があるのではないか。弱さが否定されるべきものであったとしても、それは強さによってではない。「勉強のみよく奇蹟を生む」と実篤は言うが、勉強(強くなろうと勉めること)が生み出す奇蹟としての理想社会は未だ究極的ではない。決して勉強を蔑ろにするつもりはないが、究極的にはそれを超える次元が開けてくると私は思わずにはいられない。
恩寵と垂直性
実定宗教とは無縁の私に恩寵を語る資格はないのかもしれない。私自身、違和感がある。私が問題にしている恩寵は通常の意味とはズレているからだ。敬虔な信者にとって、恩寵は常に全知全能の神の強さを前提にしている。人の力ではどうにもならないことが神の力によって可能になる。神の超人的な強さなくして恩寵はあり得ない。通常はそう理解される。しかし、私の求める恩寵はそうした神の絶対的な強さを前提にしていない。むしろ、神のどうしようもない弱さを前提にしている。神は絶望する人を救いたくても救えない。その強さがないからだ。しかし、オロオロしながらも決して人を見放さない。共に苦しんでくれる。共に闘ってくれる。確かに、重力が人を下方に引き下げる力だとすれば、恩寵は人を上方に引き上げる力だ。絶望の淵に沈む人を引き上げる力として働く。しかし、強さで引き上げるのではない。強さの対極にあるもの、すなわち弱さによって引き上げるのだ。果たして、そんなことが可能なのか。合理的に考えれば、明らかに不可能だ。しかし、不可能なことを可能にすることこそ恩寵ではないか。不合理ゆえに我信ず。 強さで引き上げるという合理を超えた次元に恩寵は働く。弱さで引き上げる。弱さの力、もしくは無力の力。これを恩寵と称するのが不適切であるのなら、私は端的に垂直性と称したい。神の強さによる恩寵を否定するつもりはないが、私はあくまでも垂直の次元に働く弱さによる恩寵を信じる。
ユートピアと恩寵
「今日の香港は明日の台湾」と危惧されているが、そんなことになれば我々にとっても対岸の火事ではなくなるだろう。「もはや戦後ではない」と言われて久しいが、ボーッと平和を享受しているうちに、いつの間にか戦前を生きているという不安が高まっている。杞憂であることを願うが、万が一の覚悟だけはしておくべきだ。すなわち、我々の独立が脅かされる事態になったら、どうすべきか。当然、攘夷一択のナショナリズムが非常な盛り上がりを見せるに違いない。そこには「強さの正しさ」に対する疑念は微塵もなく、悪しき強さには善き強さで立ち向かうしかないと誰もが信じる。それはやがて悪しき侵略者と徹底的に戦う陶酔へと発展するだろう。しかし、そのような陶酔の真只中で、もし「弱さの正しさ」を主張する人が現れたらどうなるか。「強さには強さで対抗してはならない」と言って、非暴力・無抵抗を説き続ける聖人の登場。おそらく、陶酔せる人たちはその聖人を「非国民!」と罵ってブン殴るだろう。かなり冷静な人でも、その正義を認めながらも、「弱さの正しさ」にはキレイゴトしか見出さないと思われる。当然の反応だ。非暴力・無抵抗の正義を貫くことが理想であったとしても、現実には侵略者への屈服でしかない。そのような屈辱の現実をただ甘受するだけの理想は信じるに値しない。「弱さの正しさ」というキレイゴトの理想よりも「強さの正しさ」を信じて戦う現実に徹するべきだ。殆どの人はそう思い、私も基本的には例外ではない。しかし、それにもかかわらず、理想を貫く道は無責任にキレイゴトを掲げるだけではないとも思っている。未だ上手く表現できないので誤解は必至だが、私は「強さの正しさ」を何とかして超克したいと思っている。それは決してキレイゴトではないし、単なる弱さの肯定でもない。鄙見によれば、理想を本当に貫くためには恩寵がどうしても必要になる。では、「強さの正しさ」ではなく、恩寵の働きを信じるとは如何なることか。強さに強さで対抗することをやめても、神風が吹いて悪しき侵略者を追い払ってくれると信じることか。断じてそうではない。それは神の強さに頼ることでしかなく、結局「強さの正しさ」から解放されていないからだ。真の恩寵は、神の前で、神と共に、神なしで「強さの支配」と戦う現実にこそ働く。これもまた未だキレイゴトにしか聞こえないだろうが。
強さの呪縛
攘夷か開国か。幕末には心ある多くの人が悩んだと思われるが、当時の日本に選択の余地はなかった。攘夷したくても、そんな強さなどなかったからだ。開国の必然性は揺るがない。しかし、もし日本に攘夷するだけの強さがあったなら、鎖国の維持は正しい選択であっただろうか。強き人は独力で生きていける。自らの独立を脅かす他者の存在を許さない。ただし、他者は必ずしも自らの独立を脅かす存在とは限らない。独立は孤立とは違う。独立する者同士の共働にこそ人生の至福があるとすれば、他者を寄せ付けぬ強き人の孤立は歪んだ独立でしかないだろう。自他共生にこそ真の独立がある。
しかしながら、現実には自らの独立を脅かす他者は存在する。「地獄とは他者のことだ」とサルトルは言ったが、その「出口なし」の窮境を如何にして突破するか。可能性は相互承認論にしかないが、ここでは現実に即して考えてみたい。例えば、或る日突然、ウクライナのような状況に陥ったら、我々はどうすべきか。攘夷か開国か。いや、この場合の開国は「他国への屈服=隷属」に等しいので、あくまでも独立に拘るなら,攘夷一択ということになる。それも攘夷できるだけの強さを前提にした上での選択になるが、万が一の破滅は覚悟しなければならない。勿論、「破滅は嫌だ、独立が踏み躙られても生きている方がいい」という選択も当然あり得る。独立の戦争よりも隷属の平和、という選択だ。実際、一般大衆にとっては国の独立よりも個人の幸福の方が大切だろう。そのエゴイズムを非難する権利は誰にもない。しかし、個人の幸福と国の独立は無関係だろうか。身捨つるほどの祖国はありや。少なくとも私は、国に代表されるコミューンの独立と個人の独立は不可分だと思っている。逆に言えば、不可分だと思えないような共同体は理想のコミューンではない。では、理想のコミューンとは何か。それは個人の独立を犠牲にすることなく、なおかつ真の独立を他者との共働を通じて創造していく場に他ならない。そのような場は未だどこにもないが、究極的な理想として絶えず我々の魂を奮い立たせる。当面の課題は強さの呪縛からの解放。
「強さの正しさ」とは別の道
重力と同様に、強さがこの世界を支配している。この現実に直面する時、私は幕末の黒船来航を思い浮かべる。当時の人は、黒船に象徴される欧米諸国の圧倒的な強さを目の当たりにして恐れ戦いた。とても敵わない。戦えば、間違いなく阿片戦争の清国と同じ運命を辿ることになる。その二の舞を避けるためには強くならねばならぬ。強さには強さで対抗するしかないのだ。かくして幕府は倒れ、明治維新となった。それから富国強兵の道を邁進し、幸か不幸か、日本は強くなった。少なくとも東亜を曲がりなりにも支配し、欧米と戦えるほどに強くなった。しかし、日清・日露の戦勝以降、日本の強さも次第に陰りを見せ、最終的には昭和二十年の夏に地に落ちる。その際、「強さの正しさ(支配)」に対する深い反省がなされたと思われるが、結局は依然として強さにしがみついている。「軍事力では負けたが、経済力でリベンジだ!」などと威勢のいいことも叫ばれた時代もあったが、その経済力も怪しくなってきた。日本は再び強くなれるのか。しかし、強くなることだけが日本の選択肢だろうか。むしろ、今こそ 「強さの正しさ」について真剣かつ根源的に思耕すべきではないか。弱くなれ、もしくは弱いままでいい、などと言うつもりはない。「強さの正しさ」についての思耕は決して負け犬の遠吠えではない。
理想社会をめぐる重力と恩寵
この世界は重力が支配している。十キロは五キロより重い。五キロが十キロより重くなることなどあり得ない。当然のことだ。重力の支配から逃れられる場所はどこにもない。しかし、そのどこにもない場所こそユートピアだ。そこでは重力ではなく恩寵が働く。シモーヌ・ヴェイユも言っている、「魂の自然な動きは全て、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される」と。しかし、重力が悪いわけではない。少なくとも、私は無重力状態を理想とは思わない。あるいは、無重力が恩寵だとも思わない。そもそも重力なくして誰も生きてはいけないだろう。生活に重力は欠かせない。ただし、重力は時に悲劇を生む。自然災害等で大きな岩が落下してきて多くの人を死に至らしめる。重力に罪はない。岩にも罪はない。しかし、悲劇は起こる。重力の支配を呪いたく なる。その時、死者が甦るとか、落下する岩が静止するなどの奇跡が生じれば、大衆はそこに恩寵を見るだろう。しかし、奇跡は生じないし、生じたところで、そんなものが恩寵であるとは思えない。では、恩寵とは何か。重力が支配する世界において、重力に抗して垂直に生きることを可能にする何かだ。再びヴェイユを援用すれば、理想社会の「創造は、重力の下降運動、恩寵の上昇運動、それに二乗された恩寵の下降運動とから成る」と言うことができる。