「勉強の奇蹟」を超える次元 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

「勉強の奇蹟」を超える次元

人は皆、幼い頃から「勉強しろ」と繰り返し言われて育ってきた。一般的な受験勉強とは無縁の人でも、他の分野、音楽とかスポーツなどの勉強を怠ることはなかった。更に言えば、親や教師からの「勉強しろ」という言葉に反抗する人でも、自分の好きなダンスやゲームの勉強に没頭している。勉強の場は学校に限らない。学校の教科に興味が持てなくても、人は様々な分野で強くなろうと勉める。そこに勉強の本質があると私は考える。「勉強 勉強 勉強 勉強のみよく奇蹟を生む」とは実篤の言葉だが、こうした広い意味での勉強を無視する人は皆無だろう。誰もが多様な意味で強くなろうと勉める。「強さの正しさ」を疑う人はいない。

 

しかしながら、「人生の理想は強さに尽きるものではない」と私は思っている。そんな青臭いことを言っても、全く説得力はないだろう。実際、私はその言葉の真意を未だ上手く表現できないので、単なる「弱さの擁護」と見做されても仕方がない。「世の中、強い人ばかりじゃない。弱い人の苦しみを忘れてはならない」という程度の人道主義的な理解。それも強ち間違いではないが、私の真意はそこにはない。例えば、一向になくならない虐めの問題。強い者が弱い者を虐める場合、虐める強い者は非難され、虐められる弱い者は同情される。しかし、そのように虐める者の強さが厳しく糾弾される場合でも、虐められる者の弱さが正しいと思う人はいない。むしろ、内心では「虐められる弱い者にも責任がある。弱い者も頑張って強くならねばならぬ」と思っているのではないか。結局、弱い者には同情しても、その弱さが肯定されることは決してないのだ。弱さはあくまでも否定されるべきものにすぎない。ただし、子供(強さが未発達)や老人(強さが衰退)、あるいは障害者など、一般的に弱者と見做される人たちの弱さは、厳密に言えば不自由であって弱さではない。この点、やはり上手く表現できないが、たった一人でも日常生活が不自由となる環境は社会全体で改善しなければならない。当然のことだ。しかし、それは「弱さの擁護」ではない。強い者が弱い者を助ける。大人が子供を助ける。若者が老人を助ける。健常者が障害者を助ける。善き社会だと思う。しかし、その先があるのではないか。弱さが否定されるべきものであったとしても、それは強さによってではない。「勉強のみよく奇蹟を生む」と実篤は言うが、勉強(強くなろうと勉めること)が生み出す奇蹟としての理想社会は未だ究極的ではない。決して勉強を蔑ろにするつもりはないが、究極的にはそれを超える次元が開けてくると私は思わずにはいられない。