私は正しい(3)
私は正しい。私の正しさの核にはdocta ignorantia(知ある無知)がある。私はあなたの正しさを知らないが、否定するつもりはない。むしろ、私の正しさとあなたの正しさが闘議する場を切り拓きたいと思っている。尤も、闘議の場については、これまでもアーレントに学びながら何度も述べてきた。しかし、私はそれを積極的に求めることをせず、自分の正しさを究極的に深化させることに集中してきた。それが自分の使命だと開き直ってもみたが、やはり間違いであった。闘議することなくして私の正しさの深化などあり得ない。だから、闘議の場をつくることに専心したい。それが私の正しさの当面の実践でもある。具体的には、唯一の正しさのみが強要される状況に対する抵抗だ。勿論、それは容易なことではない。例えば、国安法が正しいとされる香港で如何にして自分の正しさを主張できるのか。そこに闘議の場を切り拓くことは事実上不可能だ。今や中華圏では台湾のみに闘議の場の可能性があると言われているが、それをどうやって発展させていくか。それぞれの正しさが試されている。
私は正しい(2)
私は正しい。しかし、私は自分の正しさにおいて戦ってこなかった。敢えて戦う必要が見出せなかったからだ。理解してくれる人だけに理解されればいい。私の正しさは究極的なものであり、その究極性が自ずと道を切り拓いてくれる。私はそう信じていた。その信念は「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想」だったのかもしれない。しかし、たとい私が廃人だったとしても、私は戦うべきだった。いや、私は戦いを求めてきた。自分の正しさをラディカルに世に問いたいと思ってきた。私はガリレオとは違う。ガリレオが自分の正しさにおいて戦わなかったのは、それがイノチを懸けるだけのものではなかったからだ。私の正しさはそのようなものではない。イノチを懸けるに値するものだ。それなのに何故、私は戦わなかったのか。無意識の裡に、敢えて戦う必要のない場所に自分を追いやっていたからだ。それは廃人と見做されて誰にも相手にされない場所でもある。私は間違っていた。結果的に、「戦わない正しさ」に逃げ込んでい た私は間違っていた。私の正しさは、あくまでも「戦う正しさ」でなければならない。便りを続行する。
私は正しい
国安法下の香港の窮状を報じる番組を観た。併せて「ロシア:洗脳される国民」と題するフランス制作のドキュメンタリイも観た。こうした戦慄すべき現実に直面すると、自分の無力さを絶望的に思い知らされる。こんな殆ど誰の目にも触れない世界の片隅で、グダグダ思耕などしている場合ではない。誰の目にも触れないということは、それだけ安全ということでもあり、どんなにラディカルな発言をしても私に投獄の恐れはない。ノンキなものだ。しかし、「ラディカルな発言」とは何か。実際に自由を奪われた人の苦しみに寄り添う善きサマリア人とは一線を画し、過酷な現場ではできない「究極的な問題についての思耕」こそが自分の使命だと私は開き直った。確かに、独裁者の抑圧からの解放は全世界にとって喫緊の課題だろう。そのために多くの人たちが連帯して戦っている。しかし、究極的な問題は「その先」にある。抑圧から解放された人が生きる自由にこそ究極的な問題はある。白は救済の色ではない。いや、一つの色に染まることを強制される状況では白は人を救う色になる。しかし、それは刹那的な救いにすぎない。人は白に止まり得ない。白から様々な色を生み出していく。白は解放の色ではあるが、色が乱舞する自由を象徴することはできない。その自由にこそ究極的な問題がある。その格闘なくして、真の解放もあり得ない。一時は解放されても、再び抑圧は生み出される。必ず生み出される。だから私は究極的な問題に没頭することを決断した。善きサマリア人にはなれないが、私には使命がある。私は正しい。その正しさを微塵も疑っていない。しかし、どうやら私は間違っているようだ。正しいけれど、間違っている。こんな便りを書いている場合ではない。
「深い河」からの思耕
遠藤周作の「深い河」について考える番組を観た。すでに何度も観たものだが、目の前にあれば必ず観る。そして、そのたびに改めて「深い河」で沐浴する。新たな発見がある。遠藤氏は幼くして母にキリスト教の服を着せられ(幼児洗礼)、その違和感に終生悩み続けた。日本人である自分の身体に合わないと感じたからだ。合わなければ早々に脱ぎ捨てればいいものを、遠藤氏にはそれができなかった。何故か。「脱げば母が悲しむ」という気兼ねは当然あったであろうが、私にはそれが決定的な要因だったとは思えない。遠藤氏は見たのだ。キリスト教の奥底に流れる「深い河」を。それは自分の心の奥底にも流れ込んでいる。おそらく、仏教や他の宗教の奥底にも流れているだろう。では、そのような「深い河」とは何か。「神」と称してもいいが、そんな立派な言葉でなくてもいい。むしろ、立派でない方がいい。作中の修道者・大津は「玉ねぎ」と言う。しかし、問題はここから始まる。「玉ねぎ」本来の味とは如何なるものか。調理法は様々だ。ヨーロッパ風に調理された「玉ねぎ」料理の味が本来なのか。頑なにそう主張する人もいるだろうが、私は違う。そもそも「玉ねぎ」本来の味などというものは存在しないのではないか。日本人には日本人の口に合う「玉ねぎ」料理の味がある。とは言え、ヨーロッパの「玉ねぎ」料理を拒絶する必要はない。自由に楽しめばいいのだ。他にも、中華料理とか、アフリカ料理とか、南米料理とか、「玉ねぎ」の素材を活かした味は無限に広がっていく。そこに祝祭が生まれる。「深い河」から祝祭へ。ただし、祝祭は「玉ねぎ」の味の優劣を競う争いと表裏一体だ。常にファシズムへの危険性を孕んでいる。だからこそ、我々は「深い河」での沐浴を忘れるべきではない。そこにずっと留まるわけにはいかないが…。
危険な「接木」と原点回帰
先日、自宅の郵便受に或る宗教団体の新聞が投げ込まれていた。近所に住む熱心な信者の人の仕業だろう。「日蓮大聖人」という大きな活字が目に入ったので、かの有名な団体の機関誌かと思ったが、ザッと目を通してみるとそうではなかった。逆に、その団体の親玉の悪口などが書かれていた。察するところ、同じく日蓮に帰依しながらも、その新聞は有名な団体に敵対する勢力によるものに違いない。近親憎悪とでも言うのだろうか。別に珍しいことではない。キリスト教でもイスラム教でも、血で血を洗う宗派の争いは幾度となく繰り返されている。それは宗教に限らない。新左翼の内ゲバも記憶にこびりついている。どうしてこんな醜悪なことになってしまうのか。それぞれの歴史的経緯というものはあるだろう。そして、そこには或る必然性が認められる。それは「接木」の運命と言ってもいい。人は良かれと思って「接木」をする。更に良くなることを願って「接木」をする。「接木」は一通りとは限らない。むしろ、数限りない「接木」の可能性がある。その結果、「接木」同士の争いが始まる。泥沼の争いだ。そ の泥沼を脱する可能性の一つとして次のような叫びが考えられる。「日蓮の原点に戻れ!」とか「マルクスの原点に戻れ!」という原点回帰を訴える叫びだ。果たして、その叫びは有効だろうか。「接木」の危険な運命は原点回帰によって克服されるだろうか。難しい問題だ。
金髪の日本人
スポーツの国際大会における最近の日本チームには青い目や黒い肌が目立つようになった。その人たちは日本を代表し、日本の勝利のために頑張っているが、必ずしも日本国籍を取得しているわけではない。つまり、日本人ではない。日本人でなくても、所定の条件を満たせば外国人でも日本チームで活躍できるという国際ルールによるものにすぎない。従って、日本人でありながら、他国のために戦うという逆の場合もあり得る。こうした国際ルールの是非は別として、私は改めて「日本人とは何か」、もしくは「ナショナリズムとは何か」と問わずにはいられない。それはかつて純粋狂であった私の純血主義をディコンストラクトする試みでもある。
さて、かつて「フジヤマのトビウオ」と称された古橋選手がアメリカで世界記録を連発した時、敗戦に打ち拉がれていた日本国民は奮い立った。また、力道山が大男のシャープ兄弟を空手チョップで倒す勇姿に国民は熱狂した。周知のように、力道山の出身地は朝鮮だったが、当時の人には「日本人のヒーロー」以外の何者でもなかった。今でもスポーツ選手や芸能人の誰それが実は在日だとか何とかという情報が乱れ飛んでいるが、実に下らない。出身地や出生がどうであれ、その人が「日本人のヒーロー」となった事実に変わりはない。問題はあくまでも象徴の力であって、血ではないのだ。それとも「日本人の純血」を科学的に証明する方法があるのだろうか。もしかしたら遺伝子の解析で民族集団の区別ができるのかもしれないが、私には然したる問題ではない。確かに、日本人がノーベル賞を受ければ何となく嬉しい気分になる。たといその受賞者がアメリカ在住で、国籍もアメリカに移していたとしても、日本人の血が受賞したように感じるからだ。しかし、それで日本人の血の優秀性が証明されたなどと思うのは妄想にすぎない。そもそも、その日本人が優秀だからと言って、「同じ日本人である」ということだけで私も優秀になったような気分になるのは滑稽でしかない。とは言え、優生思想も含めて、血の妄想は実に根深い。容易に否定できるものではない。
どうも上手く表現できないが、私が問題にしたいのは「日本人であることの象徴」の力だ。青い目でも黒い肌でも構わない。そこで注目したいのはドナルド・キーン氏のような人だ。彼の原点は明らかに日本ではない。しかし晩年、「日本人として死にたい」と思い、日本人になることを決断した。私はそこに法的に日本国籍を取得すること以上の意味を見出す。キーン氏は自らの原点を棄てて、日本の原点に転向したのだろうか。私はそう思わない。キーン氏は自らの固有の原点に何かを「接木」して日本人になったのだ。その何かこそ、「日本人であることの象徴」に他ならない。
原点と接木
原点が存在する。それは間違いない。しかし、原点とは何か。それはどこにあるのか。「下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちる所へ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある」と或る著名な詩人は述べているが、問題は「そこからの一歩」ではないか。確かに、原点には人を魅する力がある。魔力と言ってもいい。しかし、原点は「白紙状態」ではない。「白紙状態」より更に深層の、そこからあらゆる色が生まれてくる場所だ。従って、原点に美を見ることはできない。
「奥底にあるものをつかみ出す。そういう思考の方法に、われわれ二十世紀の人間は馴れすぎている。その奥底にあるものとは、唯物弁証法の教えるものでもよい、精神分析や民俗学の示唆するものでもよい、何か形のあるものの、形の表面を剥ぎ取ってみなければ納まらぬ。 目に見えるままのものは信じないがよい。そこで視覚を本質とする古典主義は人気を失った。しかるに、形の表面を介してしか魅惑されないというわれわれの官能的傾向は頑固に生きのびており、それが依然として「美」を決定するから厄介なのだ。」(三島由紀夫「日本文学小史」)
「美しい花がある。花の美しさというものはない」とは小林秀雄の言葉だが、我々は「美のイデアに美を見ることはできない」という逆説的現実に直面する。しかし、美のイデアがなければ美しい花はない。原点はあくまでも美のイデアだが、我々が人生の出発点とすべき「白紙状態」には現実に咲くそれぞれの美しい花がなければならない。例えば、日本人の「白紙状態」にあるべき花は何か。美しい菊の花か、桜の花か。民俗学は記紀万葉の古(いにしえ)に遡り、それなりの答えを見出すだろう。しかし、別の道もある。折口信夫は次のように述べている。
「篤胤先生という人は、何でもいい、とにかく古代の書物を読んで、日本の古代だけで足らなければ、支那の古代の書物、印度の古代の書物を読んで、それから新しいものが出てくればそれが、日本の国の為になる書物だ、日本の国の著しい古代をば引き出すことになるのだ。こういう風に考えていられたようです。」(折口信夫「平田国学の伝統」)
これは「接木」の道だ。日本人の「白紙状態」にあるべき花が菊であれ桜であれ、それに薔薇を「接木」して日本人の新しき理想を生み出していくことは可能だろう。邪道かもしれない。いや、学問的には邪道以外の何ものでもない。それにも拘わらず、私はこの道を果てまで歩いてみたいと思っている。極めて危険な道であることは百も承知だ。「接木」とは言わば品種改良でもあり、延いては遺伝子組み換えの如き魔道にも通じている。原点と接木、我々の求めるべき理想はどちらにあるのか。
「白紙運動」の発展的拡大解釈
周知のように、中国における白紙革命の「白紙」はゼロコロナ政策に対する抗議として掲げられたものであり、その主たる目的は当局による弾圧を回避することにあった。すなわち、白紙には何も書かれていないので、その抗議を具体的に取り締まることができないのだ。勿論、抗議内容は明白なので当局も黙ってはいなかったが、結局はゼロコロナ政策が終了した事実からすれば、白紙を掲げて抗議するという戦略は功を奏したと言えよう。しかし、昨日の便りで述べたように、私は「白紙運動」を単なる抗議の戦略とは考えていない。あくまでも歪んだ現状を「白紙状態」に戻す運動だと解している。言うまでもなく、これは私の勝手な解釈であり、歴史的事実に反する。しかし、批判を承知の上で、私は敢えて単なる戦略以上のものとして発展的に拡大解釈したい。そうすることで「白紙運動」を普遍的なものにしたい。例えば、ルターの宗教改革などもキリスト教の「白紙運動」と解することもできるだろう。当然、仏教などの他の宗教についても「白紙運動」は考えられる。いや、宗教だけではない。あらゆる ものについて常に「白紙運動」は問題にされるに違いない。それは原点回帰の運動だと言ってもいい。原点が存在する。「その先の問題」を忘れるわけにはいかないが、今は「白紙運動」に集中すべき秋なのかもしれない。
白の呪縛
「白の超克」などと軽々に言うべきではなかった。深く反省している。私は先日、「色はどれも同じだ」と述べたが、美白という言葉が象徴しているように、現実には白は特別な意味を担っている。多くの人にとって「白くなること」は「美しくなること」であり、「白無垢」は「純真無垢」を意味する。白は理想(の状態)を象徴する。実際、穢れたこの世で虐げられている人たちにとって、どこかに自分たちも清らかな存在として受け容れてくれる世界、すなわち浄土があると信じることは大きな救いになるだろう。穢れたこの世が暗黒世界だとすれば、浄土は光に満ちた白の世界だ。こうした現実において、「白の超克」は時期尚早だと言わざるを得ない。今その必要性を訴えても、殆ど誰も理解してくれない。例えば、先日の「クローズアップ現代」では中国の白紙世代と称される若者たちの現状が取り上げられていたが、今必要とされているのは正に「白紙運動」の方なのだ。すなわち、悪しき共産党支配によって汚された現代中国を「白紙状態」に戻す運動に他ならない。勿論、これは中国に限らず、世界中のあらゆる国に必要とされる運動だ。北朝鮮やロシアは言うに及ばず、厳密には日本も例外ではない。しかし、「白紙状態」とは何か。当然、それはそれぞれの国によって異なるだろうが、「白紙状態」に戻れば、問題は全て解決するのか。確かに、「白紙運動」はこの世界に住む全ての人にとって喫緊の課題だ。私はそのことを認める。そして、私もまた微力ながらその運動に何らかの形で参加したいと思う。しかし、それと同時にやはり、「白紙状態」のその先、すなわち「白の超克」についても思耕せざるを得ない。白は理想の象徴ではあるが、決して究極的な理想を象徴する色ではないからだ。白の呪縛から自由になることは容易なことではない。
白の超克
生きていれば汚れがつく。それはやがてシミとなって人生にこびりつく。人生がタブラ‐ラサのようなものであれば、忘れ去りたい数々のシミを全て搔き消してしまいたいと思うに違いない。白紙に戻す。それが人生の理想になる。しかし現実には、人生にリセットボタンなどはない。恥辱に満ちたシミは人生にこびりついたままだ。その現実に耐え切れなくて、人生そのものを無に帰そうとする人もいる。それも一つの生き方だとは思う。しかし、その選択をする前に、為すべきことが未だたくさんあるのではないか。ちなみに、最近のドラマはどういうわけか「人生を何度もやり直す」という設定が多くなった。一度目の人生でできなかったことを二度目の人生で果たす。しかし、それでも挫折はあるわけで、それは三度目の人生で…という一応コメディだと思われるが、こうした設定にはゲームの影響があるのだろうか。その点を危惧する意見もあるが、ゲーム感覚で人生を生きることには若者特有の新しい考えがあるのかもしれない。たといそうだとしても、もう若くはない私には到底理解できない。理解しようとするつもりもない。むしろ、時代遅れだと嗤われても、「人生の一回性」をこそ若者たちに訴えたい。かつて陽水は「人生が二度あれば」と切々と歌い、多くの人が共感した。しかし、それは「人生は二度ない」という絶望への共感であった。問題は、その絶望から如何に生きるか、ということであろう。確かに、「人生を白紙に戻したい。そして、一から生き直したい」という願望には捨て難いものがある。実際、見知らぬ土地へ赴いて、そこで人生をやり直す人は少なくないだろう。私も「人生をやり直す」こと自体を否定するつもりはない。何度でもやり直せばいい。しかし、それは人生を白紙に戻すことではない。人生は決して白紙に戻らない。シミだらけの人生を生きるしかないのだ。それは実に苦しいことではあるが、喜びもある。シミにシミを重ねて、最初の白に優る色を生み出していくという喜びだ。白の超克。その喜びこそが人を人間にし、延いては祝祭共働へと導く。