「深い河」からの思耕 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

「深い河」からの思耕

遠藤周作の「深い河」について考える番組を観た。すでに何度も観たものだが、目の前にあれば必ず観る。そして、そのたびに改めて「深い河」で沐浴する。新たな発見がある。遠藤氏は幼くして母にキリスト教の服を着せられ(幼児洗礼)、その違和感に終生悩み続けた。日本人である自分の身体に合わないと感じたからだ。合わなければ早々に脱ぎ捨てればいいものを、遠藤氏にはそれができなかった。何故か。「脱げば母が悲しむ」という気兼ねは当然あったであろうが、私にはそれが決定的な要因だったとは思えない。遠藤氏は見たのだ。キリスト教の奥底に流れる「深い河」を。それは自分の心の奥底にも流れ込んでいる。おそらく、仏教や他の宗教の奥底にも流れているだろう。では、そのような「深い河」とは何か。「神」と称してもいいが、そんな立派な言葉でなくてもいい。むしろ、立派でない方がいい。作中の修道者・大津は「玉ねぎ」と言う。しかし、問題はここから始まる。「玉ねぎ」本来の味とは如何なるものか。調理法は様々だ。ヨーロッパ風に調理された「玉ねぎ」料理の味が本来なのか。頑なにそう主張する人もいるだろうが、私は違う。そもそも「玉ねぎ」本来の味などというものは存在しないのではないか。日本人には日本人の口に合う「玉ねぎ」料理の味がある。とは言え、ヨーロッパの「玉ねぎ」料理を拒絶する必要はない。自由に楽しめばいいのだ。他にも、中華料理とか、アフリカ料理とか、南米料理とか、「玉ねぎ」の素材を活かした味は無限に広がっていく。そこに祝祭が生まれる。「深い河」から祝祭へ。ただし、祝祭は「玉ねぎ」の味の優劣を競う争いと表裏一体だ。常にファシズムへの危険性を孕んでいる。だからこそ、我々は「深い河」での沐浴を忘れるべきではない。そこにずっと留まるわけにはいかないが…。