金髪の日本人 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

金髪の日本人

スポーツの国際大会における最近の日本チームには青い目や黒い肌が目立つようになった。その人たちは日本を代表し、日本の勝利のために頑張っているが、必ずしも日本国籍を取得しているわけではない。つまり、日本人ではない。日本人でなくても、所定の条件を満たせば外国人でも日本チームで活躍できるという国際ルールによるものにすぎない。従って、日本人でありながら、他国のために戦うという逆の場合もあり得る。こうした国際ルールの是非は別として、私は改めて「日本人とは何か」、もしくは「ナショナリズムとは何か」と問わずにはいられない。それはかつて純粋狂であった私の純血主義をディコンストラクトする試みでもある。

 

さて、かつて「フジヤマのトビウオ」と称された古橋選手がアメリカで世界記録を連発した時、敗戦に打ち拉がれていた日本国民は奮い立った。また、力道山が大男のシャープ兄弟を空手チョップで倒す勇姿に国民は熱狂した。周知のように、力道山の出身地は朝鮮だったが、当時の人には「日本人のヒーロー」以外の何者でもなかった。今でもスポーツ選手や芸能人の誰それが実は在日だとか何とかという情報が乱れ飛んでいるが、実に下らない。出身地や出生がどうであれ、その人が「日本人のヒーロー」となった事実に変わりはない。問題はあくまでも象徴の力であって、血ではないのだ。それとも「日本人の純血」を科学的に証明する方法があるのだろうか。もしかしたら遺伝子の解析で民族集団の区別ができるのかもしれないが、私には然したる問題ではない。確かに、日本人がノーベル賞を受ければ何となく嬉しい気分になる。たといその受賞者がアメリカ在住で、国籍もアメリカに移していたとしても、日本人の血が受賞したように感じるからだ。しかし、それで日本人の血の優秀性が証明されたなどと思うのは妄想にすぎない。そもそも、その日本人が優秀だからと言って、「同じ日本人である」ということだけで私も優秀になったような気分になるのは滑稽でしかない。とは言え、優生思想も含めて、血の妄想は実に根深い。容易に否定できるものではない。

 

どうも上手く表現できないが、私が問題にしたいのは「日本人であることの象徴」の力だ。青い目でも黒い肌でも構わない。そこで注目したいのはドナルド・キーン氏のような人だ。彼の原点は明らかに日本ではない。しかし晩年、「日本人として死にたい」と思い、日本人になることを決断した。私はそこに法的に日本国籍を取得すること以上の意味を見出す。キーン氏は自らの原点を棄てて、日本の原点に転向したのだろうか。私はそう思わない。キーン氏は自らの固有の原点に何かを「接木」して日本人になったのだ。その何かこそ、「日本人であることの象徴」に他ならない。