白の超克
生きていれば汚れがつく。それはやがてシミとなって人生にこびりつく。人生がタブラ‐ラサのようなものであれば、忘れ去りたい数々のシミを全て搔き消してしまいたいと思うに違いない。白紙に戻す。それが人生の理想になる。しかし現実には、人生にリセットボタンなどはない。恥辱に満ちたシミは人生にこびりついたままだ。その現実に耐え切れなくて、人生そのものを無に帰そうとする人もいる。それも一つの生き方だとは思う。しかし、その選択をする前に、為すべきことが未だたくさんあるのではないか。ちなみに、最近のドラマはどういうわけか「人生を何度もやり直す」という設定が多くなった。一度目の人生でできなかったことを二度目の人生で果たす。しかし、それでも挫折はあるわけで、それは三度目の人生で…という一応コメディだと思われるが、こうした設定にはゲームの影響があるのだろうか。その点を危惧する意見もあるが、ゲーム感覚で人生を生きることには若者特有の新しい考えがあるのかもしれない。たといそうだとしても、もう若くはない私には到底理解できない。理解しようとするつもりもない。むしろ、時代遅れだと嗤われても、「人生の一回性」をこそ若者たちに訴えたい。かつて陽水は「人生が二度あれば」と切々と歌い、多くの人が共感した。しかし、それは「人生は二度ない」という絶望への共感であった。問題は、その絶望から如何に生きるか、ということであろう。確かに、「人生を白紙に戻したい。そして、一から生き直したい」という願望には捨て難いものがある。実際、見知らぬ土地へ赴いて、そこで人生をやり直す人は少なくないだろう。私も「人生をやり直す」こと自体を否定するつもりはない。何度でもやり直せばいい。しかし、それは人生を白紙に戻すことではない。人生は決して白紙に戻らない。シミだらけの人生を生きるしかないのだ。それは実に苦しいことではあるが、喜びもある。シミにシミを重ねて、最初の白に優る色を生み出していくという喜びだ。白の超克。その喜びこそが人を人間にし、延いては祝祭共働へと導く。
汚れと柄
ウクライナの悲惨な状況を見ていると、改めて普通の生活ほど尊いものはないと思う。自然に、ありのままに暮らす日常。しかし、そうした普通の生活は普通には得られない。全世界の人が諸共に「世界の水平化」を目指す必要がある。言うまでもなく、それは至難の業だ。殆ど不可能に近い。その理由は様々だが、私は「世界の水平化」の先のヴィジョンが明確でないことだと考えている。言い換えれば、その先のヴィジョンがなければ、たとい一時的に「世界の水平化」が成っても、それは早晩崩壊する運命にあるだろう。
さて、少し横道に逸れるが、いつものように漫然とドラマを観ていたら、クリーニング店の場面が出てきた。顔馴染の若者たちが、店主から染み抜きのテクニックを学んで、自分たちの白いTシャツについたカレーやコーラの汚れを取る場面だ。その作業を続けながら、若者の一人が「汚れと柄は何が違うんだろう」と呟く。ただそれだけの場面だが、私は暫し考え込んだ。クリーニングの目的は汚れを落とすことにある。しかし、柄は落ちない。当然だ。クリーニングして柄まで落ちたら大変だ。問題を単純化して、白いTシャツを例にすれば、常に真っ白の状態にしておくことが理想となる。しかし、ウクライナのTシャツには血がべっとりとついている。それはいくらクリーニングしても取れるものではなく、今や一つの柄と化そうとしている。望まれた柄ではない。しかし、それを汚れとして必死にクリーニングして、再び真っ白なTシャツにすることが「普通の生活を取り戻すこと」なのだろうか。私は甚だ疑問に思わざるを得ない。
空(くう)の色
「色即是空 空即是色」と言うが、色=空であるならば、空の色は何か。論理的には、空に色はない。無色だ。従って、空の色を問うことは無色の色を問うことに等しい。明らかに論理が破綻している。ただ、その破綻を更に論理的に考えれば、イデアと現象の関係が見えてくる。空がイデアで、色が現象だ。空なくして色なし。色なくして空なし。空と色は相即している。切り離し得ない。例えば、椿の花を見て、赤という色の現象を見る。赤そのもののイデアは見えない。空だ。しかし、空は無としてある。見えない空のイデアなくして赤という色の現象はない。これは詭弁であろうか。牡丹の花を見る。赤という現象を見る。この赤は椿の花の赤と同じであろうか。赤と紅と区別しても、イデアと現象の関係は変わらない。私は赤と紅という二つのイデアを想定するよりも、一つの無色の空から様々な色が限りなく現象すると考えたい。そして、たとい科学者に妄想だと嗤われても、赤そのものとか紅そのものといった見えないイデアの純粋な色を求めるのではなく、この現象の世界を様々な色が乱舞する祝祭の場としたい。そこに私の究極的な 理想がある。赤も紅も白も黒も、皆同じ色だ。特別な色などはない。様々に現象する色の共働が世界を祝祭空間と化す。純粋な色は神の国にのみ存在する。人間の国では色の祝祭が理想となる。
純粋を求めることの不純
純粋とは混り気の一切ない状態であり、生き方としては自然に、ありのままに生きることだ。古来、洋の東西を問わず、それは理想とされてきた。自己を滅却する無の境地。あるいは、野の花や空の鳥の如く自然と一体となって生きる無垢。今でも、そのような純粋を目指して生きている人は少なくないだろう。かつての私もそこに「本当の生」を求めていた。汚れないように、汚れないように、細心の注意を払って純白の心のままでいようと思った。しかし、それは無理であった。いつまでも「無垢の歌」ばかりに執著してはいられない。人は誰しも否応なく「経験の歌」に移行せざるを得ない。汚れは不可避だ。無法松ならずとも、「俺は、汚い…」と唇をかみしめる瞬間が必ず訪れる。しかし、その汚れっちまった悲しみと共に人は本当に生き始めるのではないか。生きることに伴う汚れを忌避して純粋に執著することは、む しろ不純ではないか。そう思った瞬間、「ただ生きて在るだけでは駄目だ」――何かが私にそう呟いた。それは悪魔の囁きであっただろうか。たといそうだとしても、神と人との透明な関係性を反復するためには悪魔的なもの(キルケゴールによれば、最高度の強さの絶望、「絶望して、自己自身であろうと欲する絶望、反抗」)を避けることはできない。虎穴に入らずんば虎子を得ず。確かに、木乃伊取りが木乃伊になる危険性は常に潜在しているが、私は純粋の先にある理想を求める。この道より外に「本当の生」に辿り着く道なし。この道を歩く。
純粋狂
幼い頃から私には少々おかしなところがあった。「少々」ではないかもしれない。それが南方熊楠のような天狗的「おかしさ」であれば、私も後世に名を残す奇人になれたかもしれない。しかし、私は単なる凡庸な変人にすぎなかった。私は本当に生きたかったのだ。どういう影響によるものかはわからない。私はただ、人間として本当に生きたいと強く願った。しかし、「人間として本当に生きる」とは何か。勿論、子供の私にそんな論理的問いかけがあったわけではない。私の念頭にあったのは「純粋」ということだけだ。純粋に生きる。それが本当に生きることだと思っていた。余談ながら、野球少年だった私は巨人ファンだった。今思い返せば若気の至りでしかないが、当時の「巨人・大鵬・卵焼」という風潮からすれば、極めて自然な流れだったと思う。しかし、巨人戦しかテレビの野球中継をしなかったマスコミの影響だけではなかった。外国人選手を拒絶する巨人の純血主義に私は子供心に特別な意味を読み取っていたのだ。異物の混じらない純粋、そこに本当がある。私は「純粋」に憑かれていた。しかし、そうした幼い私の純粋主義は巨人の陳腐な純血主義同様に早晩崩壊する運命にあった。生きていくことに「純粋」などあり得ないからだ。確かに、純白を「純粋」だとすれば、「純白の生」こそ「本当の生」に他ならない。しかし、「純白の生」を維持していくことは不可能だ。また、たとい可能だとしても、そのような維持にどんな意味があるのか。現実に生きれば必ず汚れがつく。純白は否応なく失われる。その絶望を以て私は純粋主義から転向した。「本当の生」は「純白の生」の喪失から始まる。
開き直るしかない思耕者
哲学は行き倒れの人を救えるか。救える道理がない。彼を救えるのはおにぎりと水だ。善きサマリア人はその現実を知っている。行き倒れの人の苦しみに寄り添い、おにぎりと水を与える。それだけではない。取り敢えず雨露を凌げる場所を探し、将来的には自立して生活できる環境を整えるために就職を含めた支援をする。そうした善きサマリア人たちの活動をテレビのドキュメンタリイなどで垣間見たりすると、「世の中、まだまだ捨てたもんじゃない」と思う。そこには「世界の水平化」という理想がある。しかし、大半の人は行き倒れの人がいても見て見ぬふりをする。触らぬ神に祟りなし。それが現実だ。この現実を変革するにはどうすればいいのか。イエスは「サマリア人のように生きなさい」と説くが、確かにこの世界に善きサマリア人のように生きる人が増えていけば、その場所は確実に神の国に近づくに違いない。しかし、人は神ではない。善きサマリア人は神の如き存在だが、人デナシの悪人は神にはなれない。むしろ、神に反抗する。その反抗が悪魔への隷属に堕するかどうかはわからない。ただ、悪人は神の 如き善人のみが住める国に居場所がない。誤解を恐れずに言えば、哲学はそのような悪人を救うためにある。
水平革命の個人的断念
劇作家のつかこうへい氏がその筆名に込めた思いのように、私もこの世界が「いつか公平」になることを願っている。「公平な世界」とは、全世界の人が自由にそれぞれの物語を書くことのできる場所だ。尤も、「自由に書く」と言っても「無からの創造」をするわけではない。通常は既存の物語の中から「自分のなりたい物語」を自分の能力と相談しながら選択することになる。いくら「赤ひげのような立派な医者になるという物語」を選びたくても、自分にその能力がなければ断念するしかない。しかし、それ相応の能力があるのに、貧困とか差別といった理不尽な理由で物語の自由な選択が妨げられるなら、その醜悪なる現実とは徹底的に戦うべきだ。その戦いこそ「世界の水平化」を目指す革命であり、私はそれを自らの生きる物語にしたいと思った。しかし今、私はその物語を断念しようとしている。何故か。繰り返し述べているように、水平革命の物語はそれだけでは完結しない。それは垂直革命と相即して初めて成就する。とは言え、そのような相即を具体的な運動として展開することは至難の業だ。また、私一人で実現できるような物語でもない。そこで私は実篤が百年ほど前につくった新しき村という場所を、水平革命と垂直革命が相即する祝祭共働の拠点にしたいと願った。しかしこの願いは余りにも抽象的過ぎて、いつまで経っても現実的な運動に辿り着けないでいる。致命的な欠点だ。現実的な運動とはあくまでも、今まさに理不尽な窮地に立たされている人たちと共に戦うことだろう。善きサマリア人なら間違いなくそうするに違いない。善きサマリア人は目の前の水平革命だけに集中する。しかし結局、私は善きサマリア人に成り切れなかった。どうしても水平革命と垂直革命を二段階論的に切り離すことができなかったからだ。それは私が求める本来の物語に反する。もし私が能力に恵まれていたら、二つの革命の相即を一身に担う離れ業ができただろう。あるいは、もし新しき村が私の求めるような祝祭共働の拠点になっていたら、善きサマリア人の活動を包摂することもできたと思われる。しかし、今やどちらも画餅にすぎない。この厳しい現実に直面して、私は一つの決断を迫られている。善きサマリア人と共に水平革命だけに没頭するか。それとも自分が究極的だと信じる垂直革命の物語(ヴィジョン)の深化に没頭するか。私は後者を決断しようと思う。それは決して「公平な世界」の実現を目指す水平革命そのものの断念ではないが、実際の運動としてはそう見做されても仕方がない。その非難は甘んじて受ける覚悟はある。
Im-Roman-Sein
「言葉は存在の住処だ」とハイデガーは述べているが、人はその言葉で物語を織り出していく。「物語ー内—存在」。人は世界を劇場にする。そこで人生の物語が展開する。どんな物語を生きるかは人それぞれ自由だ。しかし、そのことを自覚するには或る程度の時間と経験を要する。人がこの世界に投げ出された時、そこにはすでに物語があった。それは生まれた場所の民俗や歴史に基づいて、両親や教師やマスコミなどによって書かれた様々な成功物語(サクセスストーリー)だ。例えば、日本人として恥ずかしくない生き方をする。その上で、医者とか弁護士とかプロのスポーツ選手とか、社会的に評価の高い仕事で成功することを目指す。おそらく、殆どの人は自然にそうした既存の成功物語に即して生きようとするだろう。その結果、そのまま順風満帆の成功物語を生きる人もいれば、挫折の物語を余儀なくされる人もいる。また、その挫折によって、既存の成功物語ではない、自分本来の成功物語を見出す人もいる。実際、成功しても挫折しても、それぞれが物語になる。あるいは、成功を目指すことを最初から拒絶しても、生きること自体を強制終 了させても、それが物語であることに変わりはない。人はどんな風に生きても、生きなくても、否応なく物語をつくってしまう。世界は無数の物語から構成されていて、人は物語から逃れることができない。それが水平の次元における人生の運命だ。では、その先に如何なる物語が可能であろうか。
LogosとTat
「初めにロゴスがあった。ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった。このロゴスは初めに神と共にあった。全てのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」とヨハネは記しているが、このロゴスをゲーテのファウストはTatというドイツ語に訳した。その意図はよくわかる。ロゴスを言葉と解するならば、「初めに言葉があった」ということには違和感がある。少なくともファウストは言葉に先立つ何かがあったと思わずにはいられなかった。そしてTatと訳した。「初めに行為があった」鄙見によれば、これはピュシス、すなわちnatura naturans(能産的自然)と訳すに等しい。「初めに言葉ありき」か「初めに行為ありき」か。唐突ながら、ここで私が思い出すのはヘレン・ケラーだ。waterという言葉を知る以前のヘレンは行為の世界に棲んでいた。それは整然とした言葉の世界に比べれば混沌(カオス)でしかない。しかし、どちらがより根源的かと言えば、やはり行為の世界であろう。ヘレンはサリヴァン先生の御蔭で言葉の世界に住むことができるようになった。それがヘレンにとって本当に幸いなことであったかどうかはまた別の問題だ。と言うのも、言葉の世界は虚妄であり、それ以前の根源的な世界に憧れる人もいるからだ。しかし、一たび言葉を知ってしまったら、もう二度と行為の世界にそのまま戻ることは叶わない。せいぜい「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」という詩人の言葉に希望を見出す他はない。
思耕機(マシーン)の悲哀
遊びたくなかった。生きたかった。労働したくなかった。仕事がしたかった。私は生き方を間違えた。そんな男が理想を語るなんて噴飯ものだ。この便りには意味がない。即刻やめるべきだと思う。しかし私は書き続ける。棄てようにも棄てきれない問題があるからだ。ヒトが人になり、更に人間になっていく問題。これはピュシスそのものからすれば虚妄の問題でしかない。余談ながら、先日、坂本龍一氏と福岡伸一氏の対談を観たが、同じような問題が話題になっていた。ただし、私とは全く正反対の方向で。福岡氏曰く、夜空に星座を見出すのは人のロゴスにすぎない。ロゴスの力で人は世界を進歩発展させてきたが、自分はロゴス以前の夜空、すなわちピュシスそのものを目にしたい。坂本氏も同感の様子だったが、私は逆だ。夜空に星座を見たい。そこから言葉を紡ぎ出し、その言葉で物語のテクストを織り出していきたい。それはヒトが人を経て人間になっていく物語だ。これはピュシスそのものに反するビオスであり、殆ど誰も共感しないだろう。しかし、やめられない。だから書き続ける。誰かに止められるまで 、いや止められても書き続ける。