LogosとTat
「初めにロゴスがあった。ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった。このロゴスは初めに神と共にあった。全てのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」とヨハネは記しているが、このロゴスをゲーテのファウストはTatというドイツ語に訳した。その意図はよくわかる。ロゴスを言葉と解するならば、「初めに言葉があった」ということには違和感がある。少なくともファウストは言葉に先立つ何かがあったと思わずにはいられなかった。そしてTatと訳した。「初めに行為があった」鄙見によれば、これはピュシス、すなわちnatura naturans(能産的自然)と訳すに等しい。「初めに言葉ありき」か「初めに行為ありき」か。唐突ながら、ここで私が思い出すのはヘレン・ケラーだ。waterという言葉を知る以前のヘレンは行為の世界に棲んでいた。それは整然とした言葉の世界に比べれば混沌(カオス)でしかない。しかし、どちらがより根源的かと言えば、やはり行為の世界であろう。ヘレンはサリヴァン先生の御蔭で言葉の世界に住むことができるようになった。それがヘレンにとって本当に幸いなことであったかどうかはまた別の問題だ。と言うのも、言葉の世界は虚妄であり、それ以前の根源的な世界に憧れる人もいるからだ。しかし、一たび言葉を知ってしまったら、もう二度と行為の世界にそのまま戻ることは叶わない。せいぜい「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」という詩人の言葉に希望を見出す他はない。