新・ユートピア数歩手前からの便り -51ページ目

Imagineの先

ジョン・レノン(厳密には、オノ・ヨーコも含めるべきだが)のImagineは多くの人に感動を与え、今でも世界中で愛唱されている。私も若い頃に耳にして以来、そこに込められた夢のイメージについて考え続けている。しかし、野暮を承知で言えば、夢と理想は厳密に区別すべきだと私は考えている。レノンは夢想家(dreamer)だが、私はその先に行きたい。行動者だ。勿論、レノンは単にイマジンするだけではなく、I hope someday you’ll join us.と呼び掛けている。それは「夢を共有できれば、世界は一つになる」という祈りでもある。しかし、夢の共有は行動ではない。行動はあくまでも理想を実現する行為に他ならない。ただし、夢と理想の区別については他日を期すことにして、ここではレノンの夢についてのみ少し考えてみたい。それは大略、次のようにまとめられる。

「天国も地獄もない。今日生きている、この世界しかない。そして世界には、身を捨つる祖国もなければ、祖国を守るために人を殺すこともない。この世界を超越する何かの存在を説く宗教は無意味だ。皆が今を生きることだけに集中し、何かを所有して他に勝る富を築こうとする欲を持たず、逆に世界を皆と分かち合うという意識を持てば、飢えて死ぬ人はいなくなる。人類は皆兄弟、世界は一つ」

私はこのレノンの夢に「世界の水平化」を見出す。素晴らしい夢だ。しかし、その先があるのではないか。「世界の水平化」はそれだけでは成就しない。その先に行って初めて夢は実現の可能性を得る。それは夢が理想に転化する瞬間でもある。

You may say I’m a dreamer.

「その先に行く」というのは、やはり高等遊民の戯言であろうか。「人は食うために生きている。それだけだ。それが人生の基本だ。食って、生きて、その上で多少の娯楽があれば人は幸せになれる。人生にそれ以上の幸福はない」――高等遊民はこれをつまらない人生だと思う。普通の人生など生きるに値しないと嘯く。しかし、普通の人生は決して普通には得られない。ゾルバや与作の人生が普通なら、それに憧れる人は少なくないだろう。別に大金持にならなくてもいい。有名にならなくてもいい。褒められもせず、苦にもされず、いつも静かに笑っている、そんな普通の人生は理想とさえ言える。世の中には、心身の障害、いじめ、差別、その他の理不尽なことで、普通の人生から疎外されている人は未だたくさんいる。先ずは、そうした人々が普通に生きられるように皆で努力すべきではないか。それが「世界の水平化」、すなわち水平革命に他ならない。おそらく、これに異議を唱える人は殆どいないだろう。いるとすれば特権階級だが、そうした既得権益者を社会の高みから引き摺り下ろしたところで水平革命は成就しない。新たな特権階級を生むだけだ。鄙見によれば、水平革命は「世界の垂直化」なくして実現しない。この点、納得できない人は多いと思われる。そもそも「世界の垂直化」とは何か。「その先に行く」ことだ。全世界の人が普通の人生を実現するためには、普通の人生の「その先に行く」ことが要請される。それは決して普通の人生を蔑ろにすることではない。こうした逆説的な理想をイマジンするのは、やはり私だけだろうか。

その先に行く

富士山に登山客が殺到しているというニュースがあったが、最近は山ガールなど気軽に登山を楽しむ人が増えている。その楽しみにケチをつけるつもりはない。ただ、そうした「娯楽としての登山」とその先にある山野井氏などが目指す「挑戦としての登山」は厳密に区別すべきだ。もとより「どちらが真の登山か」という無粋な問いは無意味であり、どちらも真だ。しかし、区別は不可欠だ。娯楽に止まる人とその先に行く人との区別。勿論、それは登山に限られるものではない。スポーツや芸術など、あらゆる分野について言えることだ。一般的には、娯楽に止まるか否かは能力の問題だと思われている。いくら野球が好きでも、能力がなければプロにはなれない。しかし、たとい能力があっても、厳しいプロの野球で苦しみたくはないと思う人もいるだろう。登山も同じことで、能力に恵まれていても、死と背中合わせの危険な登山など御免だという人の方が大半だ。とすれば、娯楽の先に行くかどうかは必ずしも能力だけの問題とは考えられない。また、娯楽の先に行くことが偉いわけでもない。趣味の登山を楽しむ幸福と山野井氏の求める幸福は質的に異なるものの、それは優劣の問題ではない。当然のことながら、人の生き方は自由だ。娯楽に幸福を見出す人生もあれば、その先にある何かを命懸けで求める人生もある。正直言って、私個人としては「後者の人生こそ!」という思いは否めない。しかし、私のSollenを他者に強要することはできない。このことだけは人生の基本理解として改めて確認しておきたい。

 

さて、私はこの拙い便りにおいて「人間が本当に人間らしく生きられる理想社会とは何か」と問い続けてきた。その際に、私は繰り返し「ジョギングを楽しんでいる人にマラソンを強要するつもりはない」と断ってきた。しかし実際には、上から目線で「娯楽の幸福に甘んじるな。娯楽の先に行くべきだ!」と主張してきたような気がする。その点は反省している。私こそ区別が曖昧だった。今後は区別をしっかりと踏まえて、「その先に行く」ことだけに集中する。諄いようだが、それはその先に行かない人生を軽蔑することではない。娯楽に幸福を見出す人生が「人間が本当に人間らしく生きられる理想社会」の一つであることを私は認める。しかし、私は別の道を行く。その先にある理想社会を求める。But I’m not the only one.であることを信じて。

他人の役に立つ

戦時中。岐阜県の盲学校の校長が生徒たちを積極的に戦場に送り出していたと言う。「聴音兵」と称するらしい。聴力に優れた盲人には敵機の接近を逸早く察知する任務が与えられた。爆音だけで敵機の種類まで聴き分けられたそうだ。他にもマッサージの技術を活かして航空兵たちの疲れを癒す海軍技療手というものもあった。戦後、生きて祖国に帰還したそうした人々を「盲人たちの戦争体験」として取材した録音テープが最近発見されたというニュースを観た。そのテープの中に、自分たちを危険な戦場に送り出した校長に対する意見を求めるものがあった。当然、恨み辛みの言葉が発せられるものと思ったが、全く逆であった。校長先生はいつも自分たちのことを心配してくれる優しい人で、本当に感謝していると言うのだ。それは心からの言葉であった。その理由を私なりにまとめると次のようになる。

「それまで兵隊になれない盲人の自分たちは穀潰しと陰口されて、随分肩身の狭い思いをしてきた。それが校長先生の積極的な働きかけで、自分たちにも戦場で役に立てる場所ができたのだ。これほど嬉しいことはなかった」

おそらく、こうした盲学校の生徒たちの感謝の念に嘘はない。居場所とは自分が他人の役に立てる場所なのだ。言うまでもなく、これは盲人だけの問題ではない。戦争は嫌悪すべきものだが、居場所がないのはそれ以上の苦しみをもたらす。戦争中は曲がりなりにも居場所はあったが、平和になって居場所を失くした人はたくさんいた。今も居場所が見つからなくて彷徨っている人は数知れない。居場所を探す。自分が他人の役に立つ場所を探す。居場所探しと自分探しが相即する。しかし、それは違うのではないか。今、戦争が始まれば、居場所はたちまち見つかるに違いない。半ば強制的に居場所が与えられるだろう。しかし、それは我々が本当に求めるべき居場所なのか。我々はそろそろ全く新しい居場所をつくるべきだと私は思う。

人外に堕ちる

大災害時にペットボトルの水を法外な価格で売り捌いた店と無料で配布した店があるとする。もし前者が大儲けして後者が破産するならば、人々は神も仏もない世の中だと思うに違いない。悪人が幸福になり、善人が不幸になる世の中。そんな世の中を変えたいと思う。ただそれだけの素朴な思いで始めた運動なのに、どこで道を踏み外してしまったのか。しかし、悪人は本当に悪人なのか。善人は本当に善人なのか。悪人が善人になり、善人が悪人になる。災害時に水を高値で売った悪人は平時には安売りで儲けようとするかもしれない。それに対して善人はあくまでも適正価格にこだわるとすれば、消費者はどちらから水を買うか。消費者の意識が問われるところだが、一円でも安い水を買う消費者は悪人なのか。商売上手の悪人は店を大きくして、そこで労働する多くの人の生活を豊かにする。商売下手の善人は店を潰し、他人はおろか自分たちも路頭に迷う。悪人の幸福と善人の不幸。しかし、悪人は本当にそれで幸福なのか。善人は不幸に甘んじるしかないのか。善悪の彼岸に迷い込んだ私はよくわからなくなってきた。この現実の世界で理想を求めれば求めるほど、しかもその理想を決してキレイゴトにはしないと力めば力むほど、私は人外に堕ちていくような気がしてならない。

補足:微行と相即

昨日の便りを私は「垂直革命は水平革命の黄昏に相即する」と結んだ。しかし、最初は「垂直革命は水平革命の黄昏に微行(incognito)する」と書いた。やはり水平革命に対する垂直革命の優位が無意識の裡にあったからだ。私は改めてケノーシスについて根源的に思耕する必要に駆られている。併せて、瀧澤克己の「インマヌエルの哲学」、殊に神と人との「第一義の接触」と「第二義の接触」の関係、更にはその関係が「不可分・不可同・不可逆」とされることについても考えたい。おそらく、問題の焦点は「不可逆」に絞られるだろう。これはドストエフスキイの神人論と人神論の差異にも通じる大問題なので別の場所で思耕することにする。ここではもっと単純に水平革命と垂直革命との関係を理解したい。

その先にある革命(10)

水平革命と垂直革命、次元を異にする二つはどう関係するのか。かつての私はそれらを二段階的に理解していた。すなわち、先ずは水平革命の成就に全力を尽くし、その後で垂直革命に向かう、ということだ。しかし、こうした二段階論には致命的な問題があった。水平革命が単独で成就する日など永久に訪れないという問題だ。人は水平の次元に生きている。それが我々の現実世界であり、人生の喜怒哀楽は全てそこで起きる。人生に不可欠なものを肉体の糧と魂の糧とするならば、前者の充足、すなわち全世界の人が食うに困らぬ社会の実現が先決問題になる。「人はパンのみにて生くるにあらず」と言うが、パンの充足なくしてパン以上の何かを求めることはあり得ない。私はそう信じて疑わなかった。しかし私は今、肉体の糧と魂の糧という二元論に根源的な疑念を懐いている。少なくとも私が求める水平革命はもはや単なる肉体の糧の充足に尽きるものではない。確かに、パンの充足は重要であり、日本でさえ未だ餓死者がいる現実を無視すべきではない。しかし、軽々な比較は憚れるが、私は餓死よりも自殺に留意したい。餓死は生活保護などのセーフティーネットの更なる充実によってゼロにすることは可能だが、自殺は問題の質が全く違うからだ。勿論、餓死と自殺は重なる部分も多く、餓死と同様の方策で自殺を減らすことは可能だろう。事実、自殺者の数は減少傾向にある。しかし、限界はある。社会福祉の支援で食うに困らぬ生活を取り戻し、経済的に安定して豊かになっても、自殺はなくならない。むしろ、経済的に豊かになればなるほど自殺の可能性が高まることもある。大金持だって自殺する。逆に、食うに困る貧乏人の方が充実して生きている場合もある。そこで問題になるのがパン以上の何か、すなわち魂の糧だ。魂の糧があれば貧乏も苦にならず、魂の糧がなければ大金持も虚しい。では、魂の糧とは何か。魂の糧の充足が垂直革命の目的だと私は考えている。しかし、魂の糧は垂直の次元の問題ではあるが、さりとて水平の次元と無関係ではない。もし俗なる水平の次元と隔絶した場所に魂の糧を求めるならば、それは虚妄でしかない。私は決して禅の修行道場やキリスト教の修道院のような聖なる場所を否定するものではないが、そこに私の求める垂直革命はない。魂の糧は水平の次元に受肉して初めて現実的な意味を持つ。それは水平の次元における娯楽とは質的に全く異なる。或る意味、魂の糧と娯楽の質的差異の明確化が今後の課題になると言ってもいい。何れにせよ、肉体の糧が満たされれば革命の必然性は失われると一般的に思われているが決してそうではない。その先がある。垂直革命は水平革命の黄昏に相即する。

その先にある革命(9)

結論から言えば、その先にある革命とは垂直革命だ。一般的に革命と言えば「世界の水平化」を目指すものであり、その先は殆ど問題にならない。しかし、「新生・新しき村綱要」でも述べているように、私は「水平の次元における社会運動と垂直の次元における宗教運動の螺旋的統合」こそが問題中の問題だと思っている。繰り返しになるが、私の究極的関心は現代社会に失われた垂直の次元を立て直すことにある。その拠点を新しき村に築きたいと思ってきたが、私はもう村には必要のない存在になってしまった。新しき村はもはや宗教運動はおろか、社会運動の拠点でさえない。実に残念なことだが仕方がない。しかし、新しき村がどうであれ、私の究極的関心は微動だにしない。残り少ない人生、どこまで行けるかわからないが行けるところまで行きたいと思う。そこで当面問題にしたいことは水平革命(社会運動)と垂直革命(宗教運動)の関係だ。実篤の時代にも、大杉栄などは新しき村に革命の拠点を期待したことがある。毛沢東もそうかもしれない。しかし、結局、彼らは幻滅した。何故か。当時の村は革命の拠点足るには余りにも理想主義的だったからだ。おそらく、彼らにとって革命とは「世界の水平化」に徹することだったに違いない。確かに、垂直革命などという理想主義は甘い幻想なのかもしれない。しかし、少なくとも私はそこにこそ根源的な社会変革の可能性を見出す。更に言えば、水平革命の挫折は常に垂直革命の欠如によるものだと考えている。二つの革命は相即しなければならない。それが「螺旋的統合」に他ならない。

その先にある革命(8)

改めて問題の整理。人が幸福になりたいと願う気持に嘘はない。そこで「パラダイスを求める革命」というものを想定してみる。全世界の人が例外なく幸福に生きられる場の実現。それは「世界の水平化」を要請する。ただし、それは「人間の平等化」と厳密に区別しなければならない。能力のある人を抑制して、能力のない人との平均値を割り出す、ということではない。バリアフリーとは差別をなくすことであって区別をなくすことではない。障害者と健常者は違う。同じになんかならない。例えば、車椅子の人でも自由にどこへでも行けることがバリアフリーであって、全ての人に車椅子生活を強要することではない。当然のことだ。人はそれぞれ違う。生来の違いもあれば、不幸な事故や病気で障害を背負う違いもある。「世界の水平化」とは、そうした様々な違いで差別することなく、あくまでも違いを区別して共に生きることを意味する。日本人とアメリカ人は違う。その違いはしっかりと区別して、国際人(日本人もアメリカ人も同じ人間)という曖昧な平等化によってお茶を濁すべきではない。しかしながら、民族戦争や宗教戦争の現実を目の当たりにすると、「世界の水平化」は殆ど実現不可能な理想にしか思えない。どうしても優劣の意識を乗り越えることができないからだ。そこに水平革命としてのパラダイスの限界がある。個々人がそれぞれの能力に応じて幸福になることは可能だ。金持には金持の幸福があり、貧乏人には貧乏人の幸福がある。同様に、健常者には健常者の、障害者には障害者の幸福がある。そこに優劣を意識すれば、たちまち差別が生じる。では、「それぞれの違いを区別して共に生きる」とは如何なることか。その答えは「世界の水平化」の先にある。

その先にある革命(7)

人は皆、幸福になりたいと願う。幸福になるために革命を求める。しかし、革命は起きない。革命と称する運動があっても、人は幸福にならない。逆に、人を不幸にすることが多い。とすれば、その運動は革命に値しない。一体、革命はいつ起きるのか。そもそも人は本当に革命を求めているのか。「革命などなくても人は幸福に生きられる。むしろ、人の幸福にとって革命は邪魔でしかない」――それが大衆の本音なら、革命は永久に起きない。それでいいのか。それとも、大衆の方が間違っているのか。この辺りから論理が錯綜してくる。革命は大衆を裏切り、裏切られた大衆は革命に幻滅する。「幸福になるための革命」とは所詮、インテリの前衛の独りよがりの虚妄でしかない。実際、大衆を幸福にするのは金儲けの技術、すなわち資本主義ではないか。そこに大衆のパラダイスがある。革命があるとすれば、それは「大衆の幸福」の先にある。