新・ユートピア数歩手前からの便り -53ページ目

古きよきモノの運命

頭が固いせいだろうか。電子書籍というものが好きになれない。便利なモノであることは理解している。紙の書籍と電子書籍。スペースの問題からしても、勝負はすでに明白なのかもしれない。しかし、たとい紙の書籍が滅びる運命にあったとしても、私は電子書籍を読む気にはなれない。本は紙のページをめくって読むべきモノだと思っているからだ。確かに、モノは進化する。不便なモノは淘汰され、便利なモノだけが生き残る。そうやって数多くの古きよきモノが滅んできた。紙の書籍も同じ運命を辿るしかないのであろうか。しかし、私はその運命に釈然としない何かを禁じ得ない。パラダイスが古きよきモノを否定するとしても、ユートピアはそれを反復する(受け取り直す)。少なくとも私はそう考えている。

 

さて、古きよきモノの運命に悩んでいる時に、芥川賞作家の市川沙央さんが「読書バリアフリー」を訴えていることを知った。障害のある市川さんにとって、電子書籍なしの読書はあり得ない。市川さんに限らず、電子書籍が読書の可能性を大きく切り拓いたことは厳然たる事実だ。この事実を前にして、古きよきモノとしての紙の書籍について語ることは意味がない。市川さんは或る作家にその作品の電子書籍化を願い出たが却下されたそうだ。おそらく、その作家には紙の書籍に対する特別な思い入れがあるのだろう。その作家特有の美学と言ってもいい。それは理解できる。しかし同時に、個人的な美学によって障害者の読書の可能性を閉ざすべきではないとも思う。恥ずかしながら、紙の書籍を読めない人がいるという現実に私はこれまで無関心だった。その反省の意味も含めて、今まで不可能であったことを可能にするモノの進化は素晴らしいと言う他はない。電子書籍だけでなく、どんな障害があっても全ての読書を可能にするモノをつくるべきだろう。そこに疑問の余地はない。しかし、そうしたモノの進化と古きよきモノの運命は次元が違うのではないか。そこにパラダイスとユートピアの決定的な差異がある。

極楽の研究(10)

「楽」には二つの相がある。ラクとタノシイだ。通常、ラクなこととタノシイは等しいが、ラクを拒絶してより大きなタノシイを得ようとすることは珍しいことではない。この大きなタノシイが大きなラクに対応しているかどうかはよくわからない。寝そべり族のラクと必死に金を稼いだ後に手にするラクは違うのかどうか。ラクであることに違いはないと考える人もいれば、質的に全く違うと考える人もいるだろう。それは人生観の違いによる。しかし、タノシイに違いがあることは明白だ。ラクな状態で飲む一杯の水とラクを拒絶して重労働した後に飲む一杯の水の味が同じである道理はない。人はより大きなタノシイを得るために当面のラクを拒絶する。ラクの拒絶が苦であるならば、苦によって更に大きなタノシイを得ようとする。私はこれを「苦楽の弁証法」と称したい。

 

ただし、苦が必ずしもより大きなタノシイをもたらすとは限らない。むしろ、より大きな苦をもたらす結果になる場合の方が多い。「苦楽の弁証法」を構成しているのは競争原理なので、敗者の結果は避けられないからだ。それでも「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」が自然の摂理であることを信じて、人は「苦楽の弁証法」に生き続ける。と言うより、「苦楽の弁証法」から逃れられない。山野井氏のような純粋な「垂直的人間」も例外ではない。「苦楽の弁証法」は常に地獄と背中合わせであり、だからこそヒリヒリとした魔力がある。生の充実がある。おそらく、「苦楽の弁証法」の魔力に憑かれた人にとって、ラクな状態は苦痛でしかないだろう。たといこの世に極楽があるとしても、その人は地獄に生きることを選ぶに違いない。

 

何れにせよ、二種類の人がいる。ラクになりたい人とより大きなタノシイを求め続ける人だ。水平の次元に生きる「苦しみ」は「苦楽の弁証法」に疲れ切った絶望に極まる。そこで「苦楽の弁証法」から完全に解放された楽土を夢見る。その楽土こそ極楽を意味するが、それは果たしてこの世に建設することが可能であろうか。心身ともに安楽に暮らせる極楽、かつてのエデンをこの地に回復することは可能なのか。これが一つの課題であることは間違いない。しかし、もう一つの課題がある。それは、そのような極楽に究極的なタノシイを見出せない人の課題だ。その人は垂直の次元を要請し、「ラクを極める極楽」とは質的に全く異なる「究極的にタノシイ極楽」を求める。ユートピアがどちらの極楽を目指しているかは言うまでもない。

極楽の研究(9)

「人生クライマー:山野井泰史と垂直の世界」と題するドキュメンタリイを観た。山野井氏については以前から「垂直的人間」として注目していたが、その感を改めて強くした。おそらく、山野井氏は哲学や宗教とは無縁の人だろう。ご自宅の書棚は山岳関係の書物や資料ばかりで、少なくとも学問としての哲学や宗教には全く関心がないと拝察する。しかし、山野井氏は間違いなく垂直の次元に生きている。それは単に垂直に切り立った「魔の山」に挑戦し続けているからではない。それも無視できない要因ではあるが、私は山野井氏の登山に対する究極的関心をこそ問題にしたい。究極的関心とは何か。ティリッヒによれば、それは無制約的に捉えられることだ。そこには「生命尊重以上の価値」がある。端的に、「自らの生命を懸けられるもの」と言ってもいい。山野井氏は「魔の山」に魅せられている。その挑戦は常に死と背中合わせだ。「こんなスポーツは他にはない」と山野井氏は語っていたが、山に憑かれた者にとっての登山はもはやスポーツではない。スポーツとは安全第一、健康第一をモットーとするリクリエーションにすぎないからだ。余談ながら、かつて野球少年だった私にとっても、野球は単なるスポーツではなかった。それは多分に当時のスポ根(スポーツ・根性)ドラマの影響によるものであったが、幼い私は本気で野球に命を懸けるつもりであった。しかし、やがて自分にその才能がないことが明白になるに及んで、野球に対する私の情熱は急速に冷めていった。所詮、私にとって野球はそれだけのスポーツであり、そこに「生命尊重以上の価値」などはない。実際、投手の球数制限など、野球は今やそのスポーツ性をますます高めている。プロ・アマの別を問わず、スポーツとしての野球が選手の健康を第一に考えることは当然であろう。しかし、そこに究極的関心はあり得ない。従って、垂直性もない。かくして今の私は野球に殆ど関心がなくなったが、登山に対する山野井氏の関心はブレることがない。手足の指を凍傷で失おうと、熊に襲われようと、全くブレない。見事なものだ。もとよりスポーツ(安全第一・健康第一のリクリエーション)としての登山を否定するつもりはないが、私は山野井氏の登山に命を懸ける垂直性に心から敬意を表したい。

 

しかしながら、山野井氏の垂直的な生き方に憧れるものの、それは私の求める「人生の理想」の往相だと思っている。これは決して山野井氏の人生にケチをつけるものではない。山野井氏に限らず、禅の雲水やキリスト教の修道者についても問題になることだ。垂直の次元に生きる者は、その生が純粋であればあるほど、「この世の地獄」と「あの世の極楽」との軋轢に苦悩することを余儀なくされる。その軋轢について、最後の思耕を試みたい。

極楽の研究(8)

予め想定される誤解を指摘しておきたい。垂直の次元が高次元で水平の次元は低次元、ということはない。同様に、垂直の次元を要請する「苦悩」が高尚で水平の次元に生きる「苦しみ」が低俗、ということもない。たとい低俗であったとしても、いじめ、失恋、受験の失敗、失業、人間関係の破綻といった「苦しみ」は切実なものだ。「絶望は死に至る病」とはキルケゴールの言葉だが、「苦しみ」の絶望が自殺をもたらすのに対して、「苦悩」の絶望は自殺を不可能にする。前者にとっては「あの世の極楽」が有効であるものの、後者にとっては無意味だからだ。もし自殺(するかどうか)が絶望のメルクマールなら、「苦悩」は絶望ではないのかもしれない。しかし、カミュも述べているように、重要なことは病から癒えることではなく病みつつ生きること、すなわち「絶望して死ぬ(「あの世の極楽」に往く)こと」ではなく「絶望において生きる(「この世の地獄」に踏みとどまる)こと」にある。それが垂直の次元と水平の次元に引き裂かれて生きるということに他ならない。

極楽の研究(7)

基本的問題構成。人は二つの次元に引き裂かれる。水平の次元と垂直の次元。前者は人に限らず、あらゆるイキモノが現実に生きている次元だ。後者は人のみが生きる。ただし、全ての人が垂直の次元を意識して生きているわけではない。むしろ、殆どの人にとって、垂直の次元は日常的に意識されない。そもそも実定化されないので、それを具体的に示すことはできない。私に数学的もしくはタルホ的センスがあれば、四次元とか五次元とか言うこともできるが、残念ながら私にそのセンスはない。私としては宗教的次元と言いたいが、これも誤解を招きやすい表現だ。例えば、安倍元首相銃撃事件以降、何かと旧統一教会のことが報じられるが、そこに垂直の次元は微塵もない。どんなに立派な教会を建てて神様に帰依しても、それは水平の次元を超越するものではない。では、垂直の次元はどこにあるのか。これには明確に答えようがない。実定宗教の信者にもあれば無神論者にもある。あるいは高学歴のインテリだけにあって、無学なデクノボーもしくはユロージヴイにはない、というものでもない。重要なことはあくまでも、「垂直の次元はどこにあるか」ではなく、「誰が垂直の次元を要請するか」にある。そこで問題になるのが、水平の次元に生きる「苦しみ」と垂直の次元を要請する「苦悩」の差異に他ならない。

極楽の研究(6)

時代遅れの私に今の若者の苦悩など理解できる筈がない。色々と知ったような理解を書き散らしているが、全て的外れであろう。そもそも苦悩という言葉自体がすでに死語なのかもしれない。苦しんでいる若者たちはいる。その苦しみ故に自殺を選ぶ若者たちもいる。悲惨なことだと思う。しかし、そこに苦悩はない。この世に生きる苦しみは「あの世の極楽」に救いを求める。苦悩は違う。苦悩にとって「あの世の極楽」は救いにならない。苦悩が求めているのはあくまでも「この世の極楽」なのだ。それは「あの世の極楽」とは質的に全く異なっている。では、両者の差異は何か。

極楽の研究(5)

野球になど興味がなくても、多くの高校生は甲子園を目指す高校球児を羨ましく思う。自分にも甲子園のような、青春の全てをぶつけられる何かがあればと願う。そのせいか、いつの頃からか「マンガ甲子園」とか「ダンス甲子園」とか、野球以外の分野でも「甲子園」が青春を賭ける一つの象徴となった。スポーツや芸術だけではなく、東大が「甲子園」である場合もあるだろう。何にせよ、自分の「甲子園」が見つけられた人は幸いだ。勝っても負けても、青春の栄冠は君に輝く。問題は、そのような「甲子園」を見つけられない人の青春に生じる。

 

「甲子園」なき青春はダラダラと過ぎていく。大半の人の青春はそうだ。人並に学校で勉強して、人並に卒業して、人並に職に就き、人並に結婚して家族を持ち、人並に死を迎える。人並以下の私の言葉に説得力はないが、人並は決して悪いことではない。派手さはないが、それなりに幸福だと言える。ただし、人並の幸福を支えているのは娯楽であって、極楽ではない。刹那的な極楽を享受することはあるが、厳密に言えば、それは娯楽の一種にすぎない。本当の極楽ではない。そして、人並以上の成功者も人並の幸福者も本当の極楽を求めることはない。その必要がないからだ。ただ人並以下の絶望者のみが本当の極楽を求める。その大半は「あの世の極楽」という最後の希望に賭けるが、私はもう一つの可能性に賭けたい。それは「この世の極楽」という背理への賭けに他ならない。

極楽の研究(4)

余談ながら、最近始まったテレビドラマに「トリリオンゲーム」と題するものがある。ITベンチャーを起業して大金持になろうとする若者たちの物語だ。未だ始まって間もない段階であれこれ言うのは早計かもしれないが、この「小さな物語」を観て、今の若者たちは血沸き肉躍る思いがするだろうか。「オレたちもガンガン金を稼いで、マネーゲームのテッペンを目指してみよう!」という気になるだろうか。ドラマの中で、一万円札で満たしたバスタブに主人公の青年が浸かり、その札をそこら中に撒き散らしながら「これぞ男のロマン!」と叫ぶシーンがあったが、どこにロマンがあるのか。察するに、この若者たちのヒーローはGAFAの創業者たちであろう。世界経済を席巻する成功者たちに憧れるのは理解できる。しかし、ここで問題にしたいのはその憧れと極楽との関係だ。

 

世の中には様々なゲームがある。競争の物語がある。そして、人がゲームに夢中になるのはよくわかる。それは人の本能だと言ってもいい。マネーゲームも例外ではない。しかし、ゲームの目的は何か。競争に勝つことだ。マネーゲームの場合なら、誰よりもお金を稼ぐことだが、これは極楽とは正反対の道に他ならない。いくら大金を稼いでも楽にはならないからだ。勿論、贅沢な暮らしはできる。しかし、常に「もっと稼がねば!」というインセンティヴの魔に憑かれて気の休まる時がない。ゲームに熱中している限り、極楽は訪れない。極楽はあらゆる競争から解放されて初めて現実のものとなる。その意味では、マネーゲームの勝者(大金持)よりもマネーゲームからの離脱者(寝そべり族)の方が極楽に生きていると見做すことができる。とは言え、「トリリオンゲーム」の主人公の若者たちは決してマネーゲームをやめないだろう。たといマネーゲームに敗れて地獄を見るとしても、そこには極楽にはない生の充実があるからだ。刹那的な極楽は別として、若者の情熱は極楽では到底満たされない。さりとてマネーゲームの「小さな物語」で満たされる情熱も陳腐なものでしかないけれど…。

極楽の研究(3)

論理の整合性からすれば、「あの世の極楽」と「この世の地獄」は表裏一体を成している。この世が地獄だからあの世に極楽が求められる。しかし現実には、この世で極楽を生きている人はたくさんいる。珍しいことではない。ただし、それぞれの極楽は様々だ。重労働を終えた後の一杯のビール、あるいはたまさかの休暇にゆっくりと寛ぐ温泉――そんな瞬間に思わず口から洩れる「ゴクラク、ゴクラク」しかし、それらは全て刹那的な極楽にすぎない。すぐに地獄のような日常が戻って来る。これに対して「あの世の極楽」は永久に持続する。そこに決定的な差異がある。しかし、永久に持続する極楽はそんなに望ましいものだろうか。忙しい平日があるからノンビリとした日曜日が輝く。毎日が日曜日になったら、そこにはもはや日曜日の輝きは失われるのではないか。この世に極楽があるとしても、それは地獄との緊張関係なしにはあり得ない。勿論、地獄は嫌なものだ。できれば自分の人生から根絶したい。それが自然な人情だ。それ故、一所懸命に労働して、刹那的ではない、永久に持続する極楽を手に入れようとモーレツに生きる。しかし、その結果、熾烈な競争を勝ち抜いて一生遊んで暮らせる富を築けたとしても、人はその極楽に耐えられるだろうか。少なくとも貧乏性の私には無理だ。地獄と背中合わせの刹那的な極楽は大きな快楽だが、永久に持続するのっぺらぼうの極楽は苦痛でしかない。こうした私の感覚はもはや時代遅れで、今の新人類の末裔たちは苦もなく極楽を満喫し続けられるのだろうか。もしそうなら、私のユートピア論は根柢から崩れ去る。

極楽の研究(2)

「あの世の極楽」など現実逃避の産物にすぎない!臆面もなく、そう言い切れる人は現実逃避する必要のない幸福な人だろう。その人の生きる現実は或る程度満足できるものだ。たといその満足が極楽ではなくても、「あの世の極楽」を要請するほどではない。「あの世の極楽」の要請は現実に生きることが地獄でしかない人に限られる。この世が地獄だから「あの世の極楽」を求める――この論理は首尾一貫している。反論の余地はない。ただし、「あの世の極楽」が本当にあるかどうかは不明だ。それはあの世に往った者にしかわからない。そもそもあの世があるかどうかさえわからない。勿論、「あの世の極楽」の存在を信じる価値はある。それは賭けだ。どうせこの世は地獄でしかないのだから、「あの世の極楽」に賭けても失うものは何もない。あの世がなくても、あるいはあの世も地獄だとしても、「この世の地獄」に疲れ果てた者にとってはどうでもいいことだ。しかし、「あの世の極楽」に賭けるなら、「この世の極楽」に賭けるという選択もあるのではないか。確かに、そこには論理の飛躍がある。「この世の地獄」がどうして「この世の極楽」になるのか。それは背理と言ってもいい。この世は極楽になり得ないからこそ地獄なのだ。従って、「この世の極楽」に賭けるという可能性はそれを求める背理についての思耕から始まることになる。