新・ユートピア数歩手前からの便り -54ページ目

極楽の研究

「我は現在、仏教を修行中の身であり、いずれか一つの宗派に属するということはない。汝の宗派の本山に寄宿する身であるから、ただいまは往生浄土門を研究している」と彼は書いた。

「しからば貴僧は極楽についても研究していなさるな」

「しかり、我は極楽を研究している」

「しからばおたずねするが極楽なるものはこの世にあるか、あの世にあるか」

「あの世にある」

「この世にはないか」と私は書いた。

「この世にないからこそ、あの世にあるのである。それはすでに汝の宗派に於ては決定していることではないか」と書き終ってから、彼はいぶかしげに苦笑して私を見つめた。

「イヤ、これはあくまで自分個人の信仰の問題であって、宗派が何を決定しようとかまわぬことである」と私は興奮して走り書きした。「自分としては、極楽がたとえあの世にあるとしても、それはつまらぬことであると思う。この世に於て極楽を建設することこそ僧侶の任務ではないか」

「だが残念ながらこの世に極楽を建設することは不可能である。かるが故にあの世の極楽浄土へと往くのである」

「自分はあの世などはどうなってもかまわない。この世だけに興味がある」

「……では、おそらく汝は社会主義者であるな」と彼は鉛筆を少しひねくりまわしてから、ゆっくり書いた。「汝が社会主義者であり、それほどまでにこの世が好きならば、何のために僧侶になる必要があるか」

(武田泰淳「異形の者」)

 

僭越ながら、私も僧侶になりたいと思ったことがある。いや、私個人としては、私はすでに常に僧侶であるつもりだ。如何なる実定的な宗派にも属していないので、一般的には僧侶とは見做されないだろう。当然、僧侶としての資格などはない。しかし、聖なるものへの究極的関心がある。ただそれだけが私を僧侶にする。そして、私もまたこの世に極楽を建設したいと思っている。では、私は僧侶ではなくて社会主義者なのか。鄙見によれば、社会主義者だけではこの世に極楽を建設することはできない。社会主義者は僧侶でもある必要がある。同時に僧侶もまた社会主義者であらねばならない。私はあの世の極楽を説く僧侶を決して否定するつもりはない。しかし、私はあくまでもこの世に極楽を建設する僧侶でありたい。それに徹したい。そのためにも極楽の研究は不可欠だ。「あの世の極楽」と「この世の極楽」は質的に全く異なっている。ここにもまた区別と差別の問題がある。

区別と差別

最近、気になったニュースがある。「誰でもトイレ」、すなわちジェンダーレス・トイレが不評を買っているというものだ。周知のように、「誰でもトイレ」はトランスジェンダーの人たちに配慮して新たに作られたものだ。私は利用したことがないが、男性用トイレにも女性用トイレにも入りづらかった人たちにとっては正に画期的なトイレであっただろう。少なくとも「誰でもトイレ」に込められた理想はよく理解できる。しかし、その理想は結果的に「男性も女性も共に利用できる空間」をつくってしまった。そして、その「理想の空間」は現実に男性にとっても女性にとっても居づらい空間と化している。通常、男性が女性用トイレに入ることは痴漢目的以外にあり得ないが、劇場の休憩時間や混雑したサービスエリアの男性用トイレにオバタリアン(すでに死語か)が堂々と入って来ることは珍しいことではない。背に腹は代えられない窮状を皆よく理解しているからだ。とは言え、気まずい雰囲気は否めない。やはり「男らしさ」と「女らしさ」の区別は必要だと思われる。それは「男ならこうあるべし」とか「女ならこうあるべし」といったステレオタイプの差別ではない。しかし、男と女は現実に違うのだから、両者を区別することは不可避だ。では、トランスジェンダーはどうなるのか。これは実に複雑な問題で、私などには容易に解決策が思い浮かばないが、区別を無くすのではなく、区別が差別に堕さない道をつくりだすべきだと思う。それは水平の次元と垂直の次元、更には「小さな物語」と「大きな物語」との区別についても言えることだ。理想は常に区別と差別の間を揺れ動く。

内村鑑三の墓碑銘について

I for Japan,
Japan for the World,
The World for Christ,
And All for God.

 

前半の二行が「小さな物語」で、後半の二行が「大きな物語」となる。ただし、世界と神を媒介するものはChristだけとは限らず、第三行目はそれぞれの信ずる宗教に応じて様々に言い換えられる。そして、その段階で「大きな物語」に錯誤が生じてくる。例えば、八紘一宇(八紘為宇)とか第三帝国(ナチズムに限定されない)の神話という「大きな物語」は致命的な錯誤と見做される。ならば、いっそ無媒介で第三行目を削除したらどうか。すなわち、All for Godのみが「大きな物語」となる、ということだ。一見すると良さそうだが、無媒介の同一性は「全ての牛を黒くする暗闇」にすぎない。実定性の問題も克服されないし、何よりもheteronomyとtheonomyの差異が曖昧になる。「大きな物語」は一筋縄ではいかない。

補足:大説と「大きな物語」

人が多く集まっても人間にはならないように、個人の「小さな物語」をいくら集めても「大きな物語」にはならない。人と人間、「小さな物語」と「大きな物語」、両者の間には質的な差異がある。次元の違い、と言ってもいい。ちなみに小説は本来「小さな物語」だが、時に偉大な個人の壮大な夢を語るものとなる。しかし、どんなに素晴らしい立志伝であっても、それは大説であって「大きな物語」ではない。例えば、司馬遼太郎は私の好きな作家の一人だが、彼の作品の多く、殊にNHKの大河ドラマに採用されるような作品は間違いなく大説(大河小説)だ。勿論、「だから駄目だ」と言いたいのではない。言える道理もない。小説と大説との類縁性、そして大説と「大きな物語」との異質性、今はただそれだけを補足しておく。

「下山」のその先としての祝祭共働(10)

大雑把に言えば(いつも大雑把な話ばかりだが)、「大きな物語」は公的領域に、「小さな物語」は私的領域に、それぞれ展開すると私は理解している。そして、近代主義が極めた頂上からの「下山」とは、「大きな物語」を解体して「小さな物語」を重視することを意味する。実際、これまでの「大きな物語」は戦争や環境破壊など悲惨なことばかり引き起こしてきた。「大きな物語」など百害あって一利なし。そんなハリボテの大言壮語よりも地に足の着いた「家庭の幸福」に纏わるそれぞれの「小さな物語」の方がどれほど大切か。多くの人はそう思うに違いない。確かに、「ホームドラマ」(これはどうも和製英語のようだが)は魅力的だ。その魅力は「サザエさん」がかくも長きに亘って大衆の人気を博していることからも明らかだろう。かく言う私も幼い頃から「サザエさん」の世界に癒され、その一家団欒の幸福に憧れてきた。しかし、いくら憧れても、その幸福は「人間の理想」にはなり得ない。何故か。「サザエさん」一家の幸福は家族の誰一人として成長しないという無時間性によるものでしかないからだ。波平もフネもボケることはないし、カツオもワカメも受験戦争でヒネクレルこともない。「サザエさん」一家は「永遠の今」に生きている。ただし、「サザエさん」は虚構にすぎないが、「永遠の今」に生きることは強ち不可能ではない。宇宙(コスモス)と一体化して歴史を超越している所謂「未開人」は「永遠の今」に生きていると思われる。その意味では、「下山」の行き着く先は「未開人」の生活だと言えるかもしれない。しかし、たといそうだとしても、現代人にそれが可能だろうか。言い換えれば、現代人は歴史を超越できるだろうか。私は不可能だと思っている。人が人である限り、何かしらの物語が生まれ、それはやがて歴史へと発展する。人が人間になる歴史への参加を拒絶して、私的領域に展開する「小さな物語」に閉じ籠ろうとしても無駄だ。繰り返しになるが、私は「小さな物語」を否定するつもりはない。むしろ、あくまでも個人の「小さな物語」が基本だと考えている。問題は「小さな物語」が肥大化する場合に生じる。肥大化した「小さな物語」は恰も「大きな物語」であるかのように機能する。これが問題なのだ。鄙見によれば、戦争などを引き起こすこれまでの「大きな物語」は真の「大きな物語」ではない。それは滅私奉公を強要する公的領域が真の公的領域ではないことと相即する。どうも上手く表現できなくて、もどかしい限りだが、能力のある野心家が「大きな物語」を生き、能力のない凡人は「小さな物語」を生きるしかない、ということでは断じてない!極端な話、どんな障碍があっても「大きな物語」を生きることはできるし、どんな優れた能力があっても「小さな物語」に閉塞してしまう場合もある。いや、そもそも「大きな物語」が善で、「小さな物語」は悪、と言いたいのではない。私は真摯に生きている人の「小さな物語」を無限に尊いと思う。しかし、それは「大きな物語」と相即しなければならない。さもなければ無限に尊い「小さな物語」の輝きが失せてしまうだろう。そこで問題になるのは垂直性だが、残念ながら、今の私にはそれについて説得的に語る力が未だないようだ。祝祭共働になかなか辿り着けないが、項を改めて一から勉強し直すことにする。

間奏曲:拠点の名称について

祝祭共働を実現するための拠点として私はこれまで「新しき村」を考えてきた。そのことに特別な意味はない。私は実篤の心酔者ではないし、実篤を教祖と崇める者でもない。むしろ、そうしたことは実篤の本意に反するものだろう。殺仏殺祖の精神こそ「新しき村の精神」だと私は信ずる。その「新しき村の精神」も含めて、実篤が百年前に掲げた理想は決して古びてはいない。そこには、白樺の精神はもとより、生命主義とか無政府主義といった大正時代に花開いた理想主義が流れ込んでいる。少なくとも私はそう考え、連綿と続いている「精神のリレー」を受け継ぎ、今や風前の灯火と化している理想主義の火を何とかして現代に甦らせたいと願った。そして、その拠点に相応しい名称としては「新しき村」に優るものはない。私は単純にそう思ったにすぎない。「新しき村」という名称にそれ以上の特別な意味はない。

 

しかしながら、私が求める祝祭共働の拠点としての「新しき村」はついに主流になりそうにない。主流はやはり実篤ファンの「新しき村」、すなわち農業を中心とした平穏無事な牧歌的生活を理想とする村だ。私は農業を蔑ろにするつもりはないし、そこに人間らしい生活を見出す理想も否定しない。ただ、それだけを特化して、実篤を農本主義的理想の教祖のように祭り上げることは根本的に間違っていると思う。実篤はそのような「お目出たき人」ではない。しかし、こうした批判を繰り返すのも今や虚しい限りだ。かつての農本主義的理想は毛呂山イデオロギーと化し、「新しき村」は創立百年を経た貴重な「歴史的遺物」として定着しようとしている。それが「新しき村」の主流であると同時に運命であるのなら、私はもはや何も言うことがない。おそらく「新しき村」は商標登録されていないと思うので、このまま私が求める拠点の名称として使用し続けても法的に訴えられることはないだろう。では、私は「新しき村」という名称をこれからも使用し続けるべきか。難しい問題だ。

 

或る人は「新しき村」という語感にアレルギーを感じると言った。創立から百年も経てば、様々な垢がこびりついてくるのは当然だ。毛呂山イデオロギーもそうした垢の一つだろう。「新しき村」という名称を使用し続けることは、百年に及ぶ垢の堆積の歴史をまるごと背負うことを意味する。私にそれだけの覚悟があるか。あるいは、そんな垢まみれの名称などサッサと棄てて、全く新しい名称にした方が得策ではないか。確かに、「新しき村」という名称に固執する理由はそれほどない。むしろ、新しい運動には新しい名称が相応しいのかもしれない。しかし、「新しい運動」などというものがあり得るだろうか。私が「ユートピア=人間の究極的な理想の実現」として思耕してきたことには古今東西の理想主義が流れ込んでいる。先述したように、それはあくまでも「精神のリレー」なのであって、何ら新しいものではない。そして、その拠点にどんな新しい名称をつけても垢は必ず付着する。ならば名称など百害あって一利なし、いっそ名称なしの方が良いとも考えられるが、それは現実逃避でしかない。純粋な理念は名称と共に堕落する。「見えざる教会」は純粋な理念だが、それに具体的な名称をつけて目に見えるようにすると同時にその理念は堕落し始める。「不可視のコミューン」然り。私はこれをヘーゲルから「実定性の運命」として学んだが、理念の現実化は実定性を避けることができない。言い換えれば、理念の純粋性のために実定化を拒めば、理念は永久に現実化しない。純潔を守るために自死する乙女よりも汚辱にまみれても現実に生き続けるソオニャの聖性にこそ刮目すべきだ。私もソオニャに倣って、これからも「新しき村」という垢まみれの名称を使用していきたいと思う。主流派によって、その使用差し止めを言い渡される日まで。

「下山」のその先としての祝祭共働(9)

亡き母は少女の頃にどんな物語を思い描いていただろうか。今となっては知る由もないが、田舎の貧しい百姓の小娘に洒落た物語など無縁であったに違いない。しかし、認知症とは不思議なもので、直近のことはすぐ忘れてしまうのに、昔のことはよく覚えている。母も九十を過ぎて軽い認知症になってからは、少女時代の楽しかった思い出を繰り返し何度も話していた。それはいつも同じ話なので私は内心ウンザリしていたが、母は本当に楽しそうだった。やや美化して言えば、私は高峰秀子主演の映画「二十四の瞳」の無邪気な生徒たちの世界を連想していた。そこには「大きな物語」など微塵もない。取るに足りない「小さな物語」ばかりだ。しかし、無限に尊い。母がその後、どんな物語を求めてきたのか私にはわからない。結局、自分の物語に満足できたのか否か。先日見つけた母の「遺言状」からすれば、決して満足できる物語ではなかっただろう。母は兄の家族や私の家族、特に孫たちに囲まれた大家族の物語を求めていたに違いない。その母の「小さな物語」が実現しなかったことの責任を私は痛感する。そして、私が自らの人生を賭けて求めている「大きな物語」との落差に苦悩する。私の問題意識は根源的に間違っているのではないか。そんな思いを禁じ得ない。

 

実際、人生はそれぞれの「小さな物語」の集積以上のものではない、と考えることもできる。男と女(とは限らない)が出会って「対幻想の物語」が生まれ、更に「家族の物語」に発展する。そこに「職場関係の物語」とか「友人知人関係の物語」とか「不倫関係の物語」とかが複雑に絡み合っていくわけだが、それは如何なる「共同幻想の物語」を生み出すのか。鄙見によれば、たといそこで国の政治経済が問題にされても、現今の「共同幻想の物語」は「大きな物語」ではない。誤解を恐れずに言えば、そこに大義がないからだ。大義とは大袈裟な…身捨つるほどの大義はありや。そう思われて当然だ。今の世の中、大義などはない。あったとしても、人々を戦争に駆り立てるような「古き大義」でしかない。私は「大きな物語」の可能性を問い続けているが、それは断じて「古き大義」の復活を求めるものではない。むしろ、「古き大義」の復活に熱狂するバカどもの横行を許すくらいなら、「小さな物語」に徹するべきだと思っている。おそらく、「古き大義」もまた近代主義によって極められた頂上の一角なのであり、そこからの「下山」が要請されているだろう。その意味において、「古き大義」が死滅して、世界が水平化されることは望ましい。しかし、それは我々が求める運動の往相にすぎない。少なくとも、「古き大義」の死滅が「大きな物語」そのものの死滅になってはならない。それは「新しき大義」を生み出すべきだ。とは言え、「大きな物語」を求め続けることは常に「古き大義」を復活させる危険性を孕んでいる。「古き大義」とは明確に区別されるべき「新しき大義」とは何か。その差異化に不可欠なのは、やはり垂直性に他ならない。

「下山」のその先としての祝祭共働(8)

人間の本質はその複数性にある。しかし、単に多くの人が集まっても人間にはならない。むしろ、群れる人は人間から最も遠い存在だ。複数性の根源には単独性がなければならぬ。単独者の連帯のみが人間を生み出す。相変わらず、こんな生硬な表現を繰り返してばかりいるのも情けないが、人間のドラマはユートピアと同様に数歩手前からしか語り得ない。そして、「数歩手前から語る」とは実質的には「語り得ないものを語る」に等しく、およそ論理を超えた戯言と思われても仕方がない。実際、宗教は言うに及ばず、哲学の大半も非科学的な戯言にすぎないという見解も成立する。しかし、月面のクレーターを詳細に解明する科学もさることながら、月で餅搗きをする兎の物語を生み出す構想力を私は愛する。たとい戯言だと嗤われても、そこに秘められた生きる力の可能性を無視することはできない。確かに、科学は人の生活を便利で快適なものにしてくれる。殊に現代人の生活はもはや科学なしでは成立しないだろう。しかし、人生に最も必要とされるべきは「物語の力」ではないか。どんなにささやかな物語でもいい。人は物語なくして生きられない。勿論、物語は成長と共に変化する。「プロ野球選手になる物語」とか「立派な医者になる物語」とか、幼い頃に受けた影響によって様々な物語が展開するが、そのまま順風満帆の物語を生きる人もいれば、数限りない挫折を余儀なくされる物語を生きる人もいる。しかし、順風満帆にせよ数限りない挫折にせよ、それは「私的領域の物語」にとどまる。私はそれぞれの「私的領域の物語」を決して無視するつもりはないが、ここで問題にしたいのはあくまでも「公的領域の物語」、すなわち「人が人間になるドラマ」なのだ。すでに「大きな物語」は死滅したと言われて久しいが、本当にそうか。巷には身辺雑記風の「小さな物語」ばかりが目立つが、「大きな物語」は本当に死滅したのか。今、ユートピアの可能性を問うことは「大きな物語」の可能性を再び問い始めることに他ならない。

「下山」のその先としての祝祭共働(7)

「人間は動物だ」ゾルバは杖で小石をたたきながら言った。「大変な畜生だ。わが親方先生はこのことをご存知ねえとみえる。お前さんには何でも簡単だったんでしょうな。わしにお聞きになるんなら、いいましょう!人間は畜生でさあ!お前さんがひどくあたりゃ、尊敬して恐れまさあ。優しくしてごらんなせえ。お前さんの目を引き抜きかねませんぜ。

距離をおいとくんですなあ、親方!あんまりあいつらをのぼせ上がらせちゃいけねえ。あいつらのとこへ行って、わしらみな平等だ。わしらにゃ同じ権利があるんだ。なんていわねえこってさあ。そうでなきゃ、あいつらやってきて、お前さんの権利を無茶苦茶にしてしまいまさあ。お前さんのパンを盗んで、お前さんが飢死にしようと放ったらかしでさあ。距離をおいとくんですなあ、親方。それだきゃ、お願いしまさあ!」

(ニコス・カザンザキス「その男ゾルバ」)

 

ここで「人間」と訳されている言葉は私の文脈では「人」となる。私は両者を区別したい。ゾルバは「人間は動物だ、大変な畜生だ」と言うが、それは人の偽らざる現実ではあっても、人間はそれを超えた理想を求める。確かに、そんなキレイゴトを主張しても、ゾルバに嗤われるだけだろう。人を効率よく働かせるには家畜のように扱うしかない。なまじ人間として扱えば、奴等は平等な権利を口実に怠け始めるに違いない。ゾルバは正しい。ゾルバとて「人間の理想」を知らないわけではない。むしろ、人はみな平等で、同じ権利を有することなど百も承知だ。しかし、現実は違う。「人間の理想」など何の役にも立たない。人の社会には否応なく格差が生じ、主人となる人と奴隷(家畜)となる人に分かれる。この現実は主人ばかりでなく、奴隷にとっても好ましいものだろう。主人が人デナシの暴君でない限り、奴隷は主人の命令に従ってさえいれば、それなりに幸福に生活できるからだ。最近は愛すべき優しい御主人様も増えてきているので、家畜の幸福も主人に愛されるペットとしての幸福に「進化」していると言えるかもしれない。更には、主人であることの「責任ある幸福」よりも奴隷であることの「気楽な幸福」の方が優っている場合もある。こんな状況では、どうも「主人と奴隷の弁証法」は当分起動しそうにない。実際、競争(格差)社会をラディカルに変革しようと考えている人は皆無に等しい。せいぜい競争社会から逃避して、日々寝そべって過ごすくらいのことだ。それも一つの生き方であり、同時に競争社会に対する一つの抵抗ではあるが、私は何だか寂しい思いがする。勿論、社会変革を求めている人がいないわけではない。現実的な運動もある。しかし、その多くは結局「正当な競争」、すなわち親ガチャなどに左右されない競争を促すものでしかない。ゾルバは「人」の真実を誰よりもよく知っている。主人にせよ奴隷にせよ、「人」は競争の相の下でしか生きられない。ゾルバはいつ「人間」に出会うのか。

「下山」のその先としての祝祭共働(6)

世の中には、才能に恵まれて熾烈な競争に生き甲斐を見出している人もいれば、競争など意識することなく日々楽しく生きている平凡な人もいる。ただし、後者の場合でも、現代社会が競争原理によって成り立っている以上、競争とは無縁ではいられない。つまり、様々な格差の発生は避けられず、否応なくそれぞれの生活レヴェルが決められてしまう。そこで人は少しでも上の生活レヴェルを目指すわけだが、やがて親ガチャだの地域ガチャだのを口実に、自分の身の丈に合ったレヴェルに落ち着くことになる。殊に最近は「多様性」という言葉も口実として使用されるようになり、競争からドロップアウトした人の生活もそれなりに評価されるようになっている。極端な例を挙げれば、寝そべり族の生活だ。そこでは「下山」はおろか、「登山」さえ問題にならない。尤も、寝そべり族にまで「転落」しなくても、テキトーに労働して、テキトーに人生を楽しむことは可能だろう。頂上を目指す必要はない。テキトーに競争して、テキトーに幸福になる。頂上に富が集中して、経済格差がどんなに広がろうと、一般大衆のテキトーな幸福さえ安泰ならばそれでいい。競争社会の根源が揺らぐことはない。そもそも人新世の先端社会は能力のある人たちが絶え間ない競争に鎬を削ってできたものだ。従って、そのようにしてできた社会が地球規模の破滅の危機に瀕し、「下山」が喫緊の課題であるならば、頂上にいる人たちを力づくで引き摺り下ろすしかない。すなわち、暴力(窮民)革命だ。勿論、自発的な「下山」が望ましいが、競争に目の眩んだ人たちにそれは無理ではないか。しかし、暴力革命も決して望ましいものではない。一時的には良くても、根源的な解決にはならない。では、どうするか。可能性は「人間」にしかない。競争に生き甲斐を見出す有能な人も競争からドロップアウトした凡庸な人も、共に「人間」にならなければならない。それは祝祭共働の可能性でもある。