その先にある革命(6)
日本は敗戦して、鬼畜米英の生活が実は物質的に遥かに豊かで幸福に満ちたものであることを思い知らされた。鬼畜はむしろ自分たちの方であった。余談ながら、かつて進駐軍の将校の家でアルバイトをしていた私の英語の先生(男性)は、自分が部屋にいるのに将校の奥さんが平気で着替えを始めた時のことを話してくれたことがある。「何だ、自分がその奥さんにモテたというノロケ話か」と思って聞いていたが、そうではなかった。「君たちは犬や猫の前で裸になって羞恥心を抱きますか」と先生は生徒の私たちに尋ねた。「そうです。私は奥さんにとって犬や猫と同じだったのです」――先生は目に少し悔し涙を滲ませて言われた。マッカーサーは「日本人は十二歳の少年だ」と言ったが、実質的には「ジャップなどイエローモンキーにすぎぬ」という認識だろう。悔しいが、勝てば官軍負ければ賊軍、敗者は悔し涙を流すしかない。ただ、戦後の日本はその悔し涙をバネにして、何とかしてアメリカ並みの豊かな生活を実現しようと頑張ってきた。「ルーシー・ショー」で垣間見る「家庭の幸福」を目標に懸命に働いてきた。その結果、高度経済成長を経て日本は総じて豊かになり、目標は或る程度達成されたと言える。しかし、このままでいいのだろうか。経済格差や環境破壊もさることながら、「物質的に豊かな生活」が我々の本当に望んできたものだろうか。振り返ってみれば、明治維新以降、日本はずっと欧米に追い付こうと走り続けてきた。近代化の遅れを取り戻そうと必死に頑張ってきた。昭和の戦(いくさ)では「近代の超克」が問題にされたが、敗戦と共に雲散霧消してしまった。そして、再び近代主義に邁進して現在の豊かな生活に辿り着いたわけだが、それは本当に豊かな生活なのか。むしろ、明治以前の江戸時代の爛熟した生活の方が豊かだったのではないか。勿論、江戸時代の豊かさと現代の豊かさは質的に異なっている。また、江戸時代の豊かさがどんなに素晴らしいものであっても、現代の豊かさを棄てて後向きに戻るわけにはいかないだろう。何れにせよ、我々にとって「真に豊かな生活」とは何か――この問いが現代の曲がりなりにも豊かな生活の「その先にある革命」を要請する。
その先にある革命(5)
毎年、八月十五日が近づくと、テレビで戦争関連の番組を目にする機会が多くなる。先日も澤地久枝さんによるミッドウェー海戦の詳細な検証やアッツ島における玉砕の隠された真実のドキュメンタリイを観た。例年のことながら、全くやりきれない気分になる。虫けら同然の死を余儀なくされた兵士たちの無念さと、そのような地獄を招いた大本営の醜悪さを思うと、胸が張り裂けそうになる。現場と会議室。上意下達というが、上意の何という杜撰さ!しかも、その杜撰な上意によって多くの兵士が死んでいったのに、それを下達した高官たちは戦後ものうのうと生き延びている。その高官たちもすでに鬼籍の人であるとは言え、英霊の声は怨念となって世界を彷徨っているに違いない。
さて、幸いなことに私は戦争を知らずに育ったが、物心つき始めた頃に祖国日本がアメリカに敗戦したという歴史を知って大きな衝撃を受けた。それは子供心に耐え難い現実であったが、「日本はアメリカの物量(物資の豊かさ)に敗れたのであって、精神において敗れたわけではない」と敗戦を何とか正当化しようとした。しかし、それも所詮、物質主義(合理主義)に対する精神主義(理想主義)の優位を望むものでしかなかった。アメリカの作戦が総じて合理的で無駄がないのに対し、大本営のそれは無茶苦茶だ。そこにどんな精神主義があるのか。無責任の体系しかない。かつて司馬遼太郎は大略「明治の日本人は立派だったが、それがどうして愚かな戦争を昭和に始めるほどに堕落したのか」と問うていたが、悔やんでも悔やみきれない。とは言え、勝利したアメリカが全面的に正しかったわけではない。当然のことだ。大東亜(解放)戦争と称するにせよ、太平洋(侵略)戦争と称するにせよ、民主主義と帝国主義の単純な二項対立で割り切ることはできない。折口信夫は敗戦を「神々の敗北」と理解して、「我々は神々が何故敗けなければならなかつたか、と言ふ理論を考えなければ、これからの日本国民生活はめちゃめちゃになる」と述べている。戦争が革命の試金石であるならば、「神々の敗北」についての思耕こそ「その先にある革命」の試金石に他ならない。
その先にある革命(4)
現場と会議室。いくら織田裕二が「事件は現場で起きている!」と叫んでも、指令を発するのは会議室だ。勿論、現場を無視した会議は適切な指令を出せない。しかし、会議室にいては現場のことがよくわからないのも事実だ。現場をよく知る者が会議に出れば良いと思われるかもしれないが、それは原理的に不可能だ。会議に出るということは現場を離れることであり、その時点でもはや現場の人ではない。現場と会議室とでは次元が異なる。現場はあくまでも会議室からの指示で動く。そうでなければ現場に集中することはできない。結局、現場と会議室は相即することが理想とされるものの、現実にはどちらかに重点を置かざるを得ない。大雑把に言えば、現場を重視するのが山川イズム、会議室を重視するのが福本イズム、と考えることができる。両者は対立するが、本来は一致すべきものだ。しかし、そのような「対立の一致」(coincidentia oppositorum)がここで問題にしている「その先にある革命」ではない。会議室で考え、現場で実践(活動)する。事件は収束し、穏やかな日常が戻る。この「穏やかな日常」こそ「その先 」に他ならない。
その先にある革命(3)
もうこの便りを続ける意味も殆どなくなったけれども、一応自分自身の問題整理のために書いている。従って、もはや便りとは言えないが、Je est un autre.だとすれば、独白もまた私がvoyantになるための便りだと言えなくもない。本意ではないが、仕方がない。
さて、「その先にある革命」だが、それは福本イズムの亜流ではない。失業、低賃金、理不尽な非正規雇用など、民衆(労働者)が直面している現実問題との格闘は如何なる運動を生み出すか。善きサマリア人であれば、失業者に職をもたらし、賃上げと正規雇用を実現するために必死で活動するに違いない。目の前で苦しんでいる人を助ける。人として当然の行為だと思う。しかし、その当然の行為が自然にできない。多くの人は見て見ぬふりをして通り過ぎる。それ故、一人でも多くの人が善きサマリア人のように行為できれば、ただそれだけで世界は理想社会に近づくだろう。人に優しい社会。それは賢治のデクノボーが東西南北オロオロ歩き回る世界でもある。この世界において、善きサマリア人も デクノボーも決して前衛ではない。共に苦しむ民衆の一人にすぎない。では、「その先」はないのか。善きサマリア人やデクノボーは革命を成就できるのか。甚だ遺憾ながら、私は疑念を抱かざるを得ない。
その先にある革命(2)
「その先にある革命」などと言えば、目の前で苦しんでいる民衆の問題をおざなりにして、究極的な問題へと飛躍しようとしていると思われるかもしれない。確かに。私は善きサマリア人でない。それは認める。善きサマリア人なら、目の前の民衆の苦しみだけに集中して、民衆と共にその苦しみと戦うだろう。例えば、先日、「知的障害と子育ての問題」を考えるテレビ番組を観た。それは或る北海道の施設が知的障害者の男女に対して「不妊手術を受けなければ、今後の支援はできない」と通達したことに発する問題だ。言うまでもなく、知的障害者を取り巻く現実は甘いものではない。現実に子育てできるかどうか不安になるのは当然だ。当該の施設の人も別に悪意で不妊手術を求めたわけではないと思う。むしろ、親切心で言ったのではないか。勿論、たとい親切心であったとしても、その要求自体は明らかに 間違っている。番組の中でも主張されていたが、障害があろうとなかろうと、人は誰でも好きな人と結ばれて家族をつくる権利がある。そうした「家庭の幸福」への基本的人権は誰が何と言おうと皆で死守しなければならない。言い換えれば、もしその人権を蹂躙する者がいれば、我々はその暴力と徹底的に戦わなければならない。その意味では、第一の革命は未だ成就していない。しかし、その成就のためにも「その先にある革命」が不可欠ではないか。何れにせよ、私は目の前の民衆の現実問題と人間の究極的問題の二つに引き裂かれている。
その先にある革命
二つの革命がある。一つは目の前にいる敵を倒す革命。その敵が一般大衆を抑圧する者であるのなら、それを倒す。実に分かりやすい構図だ。悪しき抑圧者をやっつけるヒーローの誕生。私はそうした革命のドラマが好きだ。幼い頃に熱中した怪獣ドラマも、広い意味での革命のドラマだと思っている。長く虐げられてきた貧しき人々がヒーローの導きで抑圧者から解放される。実に爽快な気分になる。しかし、本当の問題は悪しき抑圧者が倒されたその先にあるのではないか。その先にこそ もう一つの革命、本当の革命が要請されるのではないか。
ヒーローの御蔭で抑圧者から解放された民衆は自由になる。めでたしめでたし。しかし、それで大団円とはならない。民衆はやがて自由に溺れて大衆に堕落する。全てがそうだと言うつもりはない。自由において本当に生き始める民衆もいるだろう。それなら問題はないが、自由に溺れ、自由から逃走し、新たな抑圧者を求める大衆も少なからずいる。大審問官の思う壺だ。その新たな抑圧者は古き抑圧者と違って悪人面をしていない。むしろ、ヒーローのような顔をして大衆の幸福を公約する。もはや十九世紀のようにはいかない。とは言え、古き抑圧者が根絶されたわけではない。革命のドラマは複雑な様相を呈している。
嫌な女と可愛い女
言うまでもなく、私は女性にモテない。そのことを怨みに思って言うわけではないが、最近、どうも嫌な女ばかり目につく。と言っても、それはドラマの中で出会う女のことだ。殊に主人公になるような女性はおよそ女らしくない女ばかりだ。男勝りの女と言ってもいい。自己主張が強く、常に主体的に行動していく。それが悪いと言いたいのではない。女らしい女は自己主張とは無縁の、常に控え目な日陰の花――などとは思っていない。当然、女性とて自己主張して、主体的に生きるべきだ。しかし、その当然の生き方がどうして男勝りになるのか。それがよくわからない。全く可愛くない。では、可愛い女性が女らしい女なのか。もしそうなら、「可愛さ」とは何か。ちなみに、カワイイ小娘のアイドルたちは論外だ。全く可愛くない。従って、女らしい女でもない。こんなセクハラ紛いの発言を続けても埒が明かないが、今の私の念頭にあるのはルージンだ。彼はラスコオリニコフの妹・ドゥーニャの婚約者だが、女性を完全に自分の支配下におきたいと思っている。すなわち、ドゥーニャに恩を売って、身も心も自分に依存して生きていくしかない情況に追い込んでいく。古来、「幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う」というのが女性道徳とされてきたが、この三従こそルージンの女性観の核を成すものだろう。勿論、ルージンとてドゥーニャを愛している。しかし、その愛は男性中心の愛、すなわち「女は弱い。だから強い男が守ってやらなければならぬ」というマッチョな愛にすぎない。こうした古き女性観と闘う女こそ本当に女らしい女ではないか。そこには男に微塵も媚びることのない「可愛さ」がある。女性にモテない男が何を言っても説得力はないが…。
石を笑わせるための参考資料
来るべき究極的な理想社会(祝祭共働態)においては石も笑い始める。そのための参考資料として、カザンザキスの次の言葉を引用しておく。
「人間には三種類ある。第一は、自分の人生を生きる人たち、すなわち、食べたり、飲んだり、恋愛したり、金持になったり、有名になったりすることを目的としている人たちだ。第二は、自分たちだけの人生ではなく、他の全ての人たちの人生についても関心を持つことを目的としている人たちだ――こういう人たちは、全ての人間は一つだという信念を持って、人々を啓発し、できるだけ他人を愛し、他人のために善いことをしようとするのだ。ところで、第三の人たちは、全宇宙――全てのもの、人間、動物、木、星――の生活を体験しようとする人たちだ。私たちは全て一つだ。私たちは、皆同じ、恐るべき戦いに巻き込まれている実体なのだと、考える人たちだ。では、どんな戦いだというのだ……物質を生命にかえようとすることだろう」
第二の人たちまでは水平の次元に生きる。 それに対して、第三の人たちは垂直の次元に生きる。正気の沙汰ではない。
愚者の楽園 賢者のパラダイス
これは独り言だ。
賢い人は世界を複雑にする。二二が四でできているような単純な世界は面白くない。問題は難しいから解き甲斐がある。誰にでも解ける簡単な問題をいくら解いても充実感は得られない。善悪を常に見極め、人を無闇に信じない。賢者は迷路を求める。とびきり複雑な迷路を求める。
愚かな人は単純な世界に生きている。正しいことを愛し、悪いことを憎む。何が本当に正しくて、何が本当に悪いのか。そんなことは微塵も気にしない。自然に正しいことをする。自然に悪いことはしない。人を信じて疑わない。時に人に騙されても、騙されたことすらわからない。愚者は何も求めない。ただ川の流れに身を任せる。
「私はその男(ゾルバ)が羨ましかった。彼は血の通った生身で生きてきたのだ――戦い、殺し合い、女にふれる――これらをみな私はペンとインキだけで知ろうとしたではないか。このような問題をすべて私は孤独の中に椅子にへばりついて、一つ一つ解決しようとしたのだ。ところがこの男は山の新鮮な空気の中で刀で見事に解決したではないか。」(カザンザキス)
私は賢くもなければ、愚かでもない。だから、この世界に居場所がない。ユートピアを求めるのはそのためだ。
これは独り言だ。人非人(ひとでなし)の独り言だ。
世界の単純化
「読書バリアフリー」は知的障害のある人たちの問題でもあると言う。おそらく、これは技術の問題ではないだろう。弱視などの身体的障害なら技術の革新で何とかバリアフリーを実現できそうな気がするが、知的障害については問題の性質が異なるからだ。では、何が問題であるかと言えば、それは表現の問題だ。研究者によれば、知的障害のある人は「通常の表現」では正確に理解できないそうだ。そもそも「通常の表現」とは何か。本来はそこから問題にすべきだが、ここでは単に「暗示的表現」としておきたい。例えば、「結構です」という言葉は文脈によって承諾にもなれば拒絶にもなる。これが知的障害のある人には「曖昧な表現」であり、正確な理解を妨げることになる。従って、承諾なら承諾、拒絶なら拒絶とはっきり区別できる直接的な表現にすることが望ましいとされるわけだ。果たして、それが本当にバリアフリーを実現するのだろうか。
余談ながら、「アストリッドとラファエル」というフランスの刑事ドラマがあるが、先日の回に興味深いシーンがあった。アストリッドは自閉症で、日本人のテツオという恋人らしき青年がいる。そのテツオが或る日、アストリッドに来週の予定を尋ねる。言うまでもなく、テツオにとってそれはデートの誘いであるが、その意図が自閉症のアストリッドには全く通じない。自閉症ではないテツオにはその原因がさっぱりわからず途方に暮れるが、自閉症サークルでのアストリッドの友人から「自閉症の人には暗示が通用しない」事実を指摘される。つまり、デートに誘いたいなら、その旨を相手にストレートに伝えるしかない、ということだ。
さて、こうした私の説明が正しいかどうか甚だ不安だが、誰にでも正確に理解できる表現が理想であることは間違いない。厳密に言えば、知的障害のある人にとっての「読書バリアフリー」も結局は表現「技術」の問題なのかもしれない。しかし、誤解を恐れずに言えば、知的障害のある人にも正確に理解できる表現は世界の単純化にならないか。もとより徒に世界を複雑にする必要はないが、理性では割り切れない世界もある。ドストエフスキイの地下生活者も言うように、「二二が四はもはや生活ではなく、死の始まりにすぎない」のだ。読書に限らず、あらゆるバリアフリーは「世界の水平化」だと言えるが、それは決して「世界の単純化」ではないと私は思う。