世界の単純化 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

世界の単純化

「読書バリアフリー」は知的障害のある人たちの問題でもあると言う。おそらく、これは技術の問題ではないだろう。弱視などの身体的障害なら技術の革新で何とかバリアフリーを実現できそうな気がするが、知的障害については問題の性質が異なるからだ。では、何が問題であるかと言えば、それは表現の問題だ。研究者によれば、知的障害のある人は「通常の表現」では正確に理解できないそうだ。そもそも「通常の表現」とは何か。本来はそこから問題にすべきだが、ここでは単に「暗示的表現」としておきたい。例えば、「結構です」という言葉は文脈によって承諾にもなれば拒絶にもなる。これが知的障害のある人には「曖昧な表現」であり、正確な理解を妨げることになる。従って、承諾なら承諾、拒絶なら拒絶とはっきり区別できる直接的な表現にすることが望ましいとされるわけだ。果たして、それが本当にバリアフリーを実現するのだろうか。

 

余談ながら、「アストリッドとラファエル」というフランスの刑事ドラマがあるが、先日の回に興味深いシーンがあった。アストリッドは自閉症で、日本人のテツオという恋人らしき青年がいる。そのテツオが或る日、アストリッドに来週の予定を尋ねる。言うまでもなく、テツオにとってそれはデートの誘いであるが、その意図が自閉症のアストリッドには全く通じない。自閉症ではないテツオにはその原因がさっぱりわからず途方に暮れるが、自閉症サークルでのアストリッドの友人から「自閉症の人には暗示が通用しない」事実を指摘される。つまり、デートに誘いたいなら、その旨を相手にストレートに伝えるしかない、ということだ。

 

さて、こうした私の説明が正しいかどうか甚だ不安だが、誰にでも正確に理解できる表現が理想であることは間違いない。厳密に言えば、知的障害のある人にとっての「読書バリアフリー」も結局は表現「技術」の問題なのかもしれない。しかし、誤解を恐れずに言えば、知的障害のある人にも正確に理解できる表現は世界の単純化にならないか。もとより徒に世界を複雑にする必要はないが、理性では割り切れない世界もある。ドストエフスキイの地下生活者も言うように、「二二が四はもはや生活ではなく、死の始まりにすぎない」のだ。読書に限らず、あらゆるバリアフリーは「世界の水平化」だと言えるが、それは決して「世界の単純化」ではないと私は思う。