その先にある革命(5) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

その先にある革命(5)

毎年、八月十五日が近づくと、テレビで戦争関連の番組を目にする機会が多くなる。先日も澤地久枝さんによるミッドウェー海戦の詳細な検証やアッツ島における玉砕の隠された真実のドキュメンタリイを観た。例年のことながら、全くやりきれない気分になる。虫けら同然の死を余儀なくされた兵士たちの無念さと、そのような地獄を招いた大本営の醜悪さを思うと、胸が張り裂けそうになる。現場と会議室。上意下達というが、上意の何という杜撰さ!しかも、その杜撰な上意によって多くの兵士が死んでいったのに、それを下達した高官たちは戦後ものうのうと生き延びている。その高官たちもすでに鬼籍の人であるとは言え、英霊の声は怨念となって世界を彷徨っているに違いない。

 

さて、幸いなことに私は戦争を知らずに育ったが、物心つき始めた頃に祖国日本がアメリカに敗戦したという歴史を知って大きな衝撃を受けた。それは子供心に耐え難い現実であったが、「日本はアメリカの物量(物資の豊かさ)に敗れたのであって、精神において敗れたわけではない」と敗戦を何とか正当化しようとした。しかし、それも所詮、物質主義(合理主義)に対する精神主義(理想主義)の優位を望むものでしかなかった。アメリカの作戦が総じて合理的で無駄がないのに対し、大本営のそれは無茶苦茶だ。そこにどんな精神主義があるのか。無責任の体系しかない。かつて司馬遼太郎は大略「明治の日本人は立派だったが、それがどうして愚かな戦争を昭和に始めるほどに堕落したのか」と問うていたが、悔やんでも悔やみきれない。とは言え、勝利したアメリカが全面的に正しかったわけではない。当然のことだ。大東亜(解放)戦争と称するにせよ、太平洋(侵略)戦争と称するにせよ、民主主義と帝国主義の単純な二項対立で割り切ることはできない。折口信夫は敗戦を「神々の敗北」と理解して、「我々は神々が何故敗けなければならなかつたか、と言ふ理論を考えなければ、これからの日本国民生活はめちゃめちゃになる」と述べている。戦争が革命の試金石であるならば、「神々の敗北」についての思耕こそ「その先にある革命」の試金石に他ならない。