極楽の研究(2) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

極楽の研究(2)

「あの世の極楽」など現実逃避の産物にすぎない!臆面もなく、そう言い切れる人は現実逃避する必要のない幸福な人だろう。その人の生きる現実は或る程度満足できるものだ。たといその満足が極楽ではなくても、「あの世の極楽」を要請するほどではない。「あの世の極楽」の要請は現実に生きることが地獄でしかない人に限られる。この世が地獄だから「あの世の極楽」を求める――この論理は首尾一貫している。反論の余地はない。ただし、「あの世の極楽」が本当にあるかどうかは不明だ。それはあの世に往った者にしかわからない。そもそもあの世があるかどうかさえわからない。勿論、「あの世の極楽」の存在を信じる価値はある。それは賭けだ。どうせこの世は地獄でしかないのだから、「あの世の極楽」に賭けても失うものは何もない。あの世がなくても、あるいはあの世も地獄だとしても、「この世の地獄」に疲れ果てた者にとってはどうでもいいことだ。しかし、「あの世の極楽」に賭けるなら、「この世の極楽」に賭けるという選択もあるのではないか。確かに、そこには論理の飛躍がある。「この世の地獄」がどうして「この世の極楽」になるのか。それは背理と言ってもいい。この世は極楽になり得ないからこそ地獄なのだ。従って、「この世の極楽」に賭けるという可能性はそれを求める背理についての思耕から始まることになる。