極楽の研究(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

極楽の研究(10)

「楽」には二つの相がある。ラクとタノシイだ。通常、ラクなこととタノシイは等しいが、ラクを拒絶してより大きなタノシイを得ようとすることは珍しいことではない。この大きなタノシイが大きなラクに対応しているかどうかはよくわからない。寝そべり族のラクと必死に金を稼いだ後に手にするラクは違うのかどうか。ラクであることに違いはないと考える人もいれば、質的に全く違うと考える人もいるだろう。それは人生観の違いによる。しかし、タノシイに違いがあることは明白だ。ラクな状態で飲む一杯の水とラクを拒絶して重労働した後に飲む一杯の水の味が同じである道理はない。人はより大きなタノシイを得るために当面のラクを拒絶する。ラクの拒絶が苦であるならば、苦によって更に大きなタノシイを得ようとする。私はこれを「苦楽の弁証法」と称したい。

 

ただし、苦が必ずしもより大きなタノシイをもたらすとは限らない。むしろ、より大きな苦をもたらす結果になる場合の方が多い。「苦楽の弁証法」を構成しているのは競争原理なので、敗者の結果は避けられないからだ。それでも「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」が自然の摂理であることを信じて、人は「苦楽の弁証法」に生き続ける。と言うより、「苦楽の弁証法」から逃れられない。山野井氏のような純粋な「垂直的人間」も例外ではない。「苦楽の弁証法」は常に地獄と背中合わせであり、だからこそヒリヒリとした魔力がある。生の充実がある。おそらく、「苦楽の弁証法」の魔力に憑かれた人にとって、ラクな状態は苦痛でしかないだろう。たといこの世に極楽があるとしても、その人は地獄に生きることを選ぶに違いない。

 

何れにせよ、二種類の人がいる。ラクになりたい人とより大きなタノシイを求め続ける人だ。水平の次元に生きる「苦しみ」は「苦楽の弁証法」に疲れ切った絶望に極まる。そこで「苦楽の弁証法」から完全に解放された楽土を夢見る。その楽土こそ極楽を意味するが、それは果たしてこの世に建設することが可能であろうか。心身ともに安楽に暮らせる極楽、かつてのエデンをこの地に回復することは可能なのか。これが一つの課題であることは間違いない。しかし、もう一つの課題がある。それは、そのような極楽に究極的なタノシイを見出せない人の課題だ。その人は垂直の次元を要請し、「ラクを極める極楽」とは質的に全く異なる「究極的にタノシイ極楽」を求める。ユートピアがどちらの極楽を目指しているかは言うまでもない。