水平革命の個人的断念 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

水平革命の個人的断念

劇作家のつかこうへい氏がその筆名に込めた思いのように、私もこの世界が「いつか公平」になることを願っている。「公平な世界」とは、全世界の人が自由にそれぞれの物語を書くことのできる場所だ。尤も、「自由に書く」と言っても「無からの創造」をするわけではない。通常は既存の物語の中から「自分のなりたい物語」を自分の能力と相談しながら選択することになる。いくら「赤ひげのような立派な医者になるという物語」を選びたくても、自分にその能力がなければ断念するしかない。しかし、それ相応の能力があるのに、貧困とか差別といった理不尽な理由で物語の自由な選択が妨げられるなら、その醜悪なる現実とは徹底的に戦うべきだ。その戦いこそ「世界の水平化」を目指す革命であり、私はそれを自らの生きる物語にしたいと思った。しかし今、私はその物語を断念しようとしている。何故か。繰り返し述べているように、水平革命の物語はそれだけでは完結しない。それは垂直革命と相即して初めて成就する。とは言え、そのような相即を具体的な運動として展開することは至難の業だ。また、私一人で実現できるような物語でもない。そこで私は実篤が百年ほど前につくった新しき村という場所を、水平革命と垂直革命が相即する祝祭共働の拠点にしたいと願った。しかしこの願いは余りにも抽象的過ぎて、いつまで経っても現実的な運動に辿り着けないでいる。致命的な欠点だ。現実的な運動とはあくまでも、今まさに理不尽な窮地に立たされている人たちと共に戦うことだろう。善きサマリア人なら間違いなくそうするに違いない。善きサマリア人は目の前の水平革命だけに集中する。しかし結局、私は善きサマリア人に成り切れなかった。どうしても水平革命と垂直革命を二段階論的に切り離すことができなかったからだ。それは私が求める本来の物語に反する。もし私が能力に恵まれていたら、二つの革命の相即を一身に担う離れ業ができただろう。あるいは、もし新しき村が私の求めるような祝祭共働の拠点になっていたら、善きサマリア人の活動を包摂することもできたと思われる。しかし、今やどちらも画餅にすぎない。この厳しい現実に直面して、私は一つの決断を迫られている。善きサマリア人と共に水平革命だけに没頭するか。それとも自分が究極的だと信じる垂直革命の物語(ヴィジョン)の深化に没頭するか。私は後者を決断しようと思う。それは決して「公平な世界」の実現を目指す水平革命そのものの断念ではないが、実際の運動としてはそう見做されても仕方がない。その非難は甘んじて受ける覚悟はある。