「弱さの正しさ」についての歯切れの悪い補足
「弱さの正しさ」という言葉は誤解を招きやすく、適切ではない。私が強調したいのはあくまでも強さが支配する世界への反抗であり、それは強さの対極にある弱さに活路を見出すしかない。そう私は単純に考えた。しかし、弱さが強さに勝てる道理がない。学園ドラマでも、虐められてばかりいる弱い子を救うのは正義感に満ちた強い子か先生と相場が決まっている。黒澤明の名作「七人の侍」でも、最終的には弱い百姓たちが勝利するが、それも強い「七人の侍」がいなければあり得ない。結局、大抵のドラマは善き強さと悪しき強さの対決を描くものであり、弱さが強さに勝つドラマなど皆無だ。それは原理的にあり得ない。では、ガンディーのドラマはどうか。ガンディーが強さに勝てたかどうかは別にして、彼は強さに反抗した。しかも、決して弱くない。非暴力・無抵抗の不服従は一つの力とさえ言える。とすれば、それも強さではないか。ガンディーも善き強さの人でしかないのか。そう考えることもできるが、私は何か腑に落ちない。確かに、水平的には強さの対極にあるのは弱さでしかない。そして、弱き人を虐げる悪しき強さと弱き人を支援する善き強さがあり、二つの強さが鬩ぎ合う弁証法的ドラマが展開する。しかし、垂直的には強さの対極には何もない。それにもかかわらず、何もない場で強さは無化される。悪しき強さばかりでなく、善き強さも無化される。垂直の次元では、水平的にはあり得ないことが起こる。それは、適切ではないが、やはり「弱さの正しさ」と表現するしかない。
「弱さの正しさ」を理解するために参考となる引用
「レーニンの武装する革命とガンディーの非武装・無抵抗の革命。おそらくはその二つの革命の結合にこそ、来るべき世界革命の本質がある。北一輝の武装国家論は、レーニンの革命理論の大きな影響を受けていた。しかし、それだけでアジアは変革されないのだ。「復興アジア」の革命のためには、ガンディーの方法も必要である。アジアの大地に直接つながる方法、それはおそらく徹底的に「精神的」なのものになるであろう。政治と同時に精神さえも深く変化させること。おそらくそのようなアジアの革命が起こるところは、イスラームの地をおいて他にはないのだ。」(安藤礼二『神々の闘争 折口信夫論』「第三章 大東亜共栄圏におけるイスラーム型天皇制」)
結局、覇道と王道のディレンマに直面する。覇道の現実主義と王道の理想主義。取り敢えず、喫緊の課題は「如何にして王道を貫けるか」ということになる。大衆は正しき王、すなわち善き支配者の出現を待ち望む。プー何某とか、習何某、金何某といった悪しき独裁者が滅んで、善良なる王者の下での恒久平和を求める。しかし、王者と覇者は一体何が違うのか。王者による平和と覇者による平和に差異はあるのか。理屈を言えば、王者は仁徳にとって平和をもたらし、覇者は武力によって平和を維持する。従って、覇者の力がなくなれば、平和も破綻する。王者も力を失えば覇者と同じ運命を辿ると思われるが、そもそも王者には最初から力がない。その仁徳は「無力の力」と言ってもいい。ところが、大衆は「無力の力」に力を見てしまう。王者のもたらす平和に王者の善き「支配」しか見ない。王者を覇者へと堕落させるのは、いつも大衆だ。大衆は「弱さの正しさ」に耐えきれない。だから、独裁者の抑圧から解放されても自由から逃走する。覇者と大衆は切り離せない。
補足:泣く子と地頭には勝てぬ
「泣く子と地頭には勝てぬ」という諺があるが、それぞれの「勝てぬ理由」は質的に異なっている。すなわち、地頭に勝てないのはその権力が絶大であるからだが、泣く子に勝てないのは如何なる権力も通用しないからだ。従って、地頭以上の権力を獲得すれば地頭に勝てるが、泣く子には最高権力者としての天皇陛下でさえ勝つことができない。泣く子は言わば一種の治外法権の状態にある。法で守られてはいるが裁かれることはない。治外法権は特権であり、通常は大きな権力によるものだ。しかし、赤ん坊の治外法権は全く無力であるが故の特権に他ならない。こうした赤ん坊の「無力の力」が「弱さの正しさ」に通じる。ただし、赤ん坊はいつまでも無力ではいられない。やがて力をつけ、成長し、強くなる。そして治外法権は消滅し、少年法の対象となる。それは当然の流れであり、いつまでも赤ん坊のままでいたいと願うのは不自然だ。人が成長するとは、無力の特権状態から「強さの正しさ」が支配する世界への移行だと理解することができる。私は善き強さと悪しき強さが鬩ぎ合う成人した世界を必ずし も悪いとは思わない。むしろ、水平的には理想社会とさえ言えるだろう。しかし、究極的な理想社会ではない。成人が「無力の力」によって「弱さの正しさ」を貫こうとするのは不可能であろうか。
私は正しい(10)
私は正しい。無理にでもそう思わなければ生きていけない。しかし、私は自分の正しさを深く信じているものの、時に裏切ることがある。自分の正しさを貫けない。この現実にはイロニーがある。私の正しさは人にストイックであることを要請するが、それに尽きるものではない。「弱さの正しさ」でもあるからだ。ただし、それは人の弱さを単に肯定することではない。「我々はそんなに強く生きられない。人間だもの」ということではない。確かに、「ダメな人でも生きていていいんだよ。生きてるだけで丸儲け」という人生観は救いになる。実際、ダメな自分を見棄てないことは重要だ。しかし、妥協すべきではない。これは矛盾にしか聞こえないだろう。ダメな自分に妥協しないということは「ダメではない立派な自分になれ!」と要求するに等しいからだ。理屈ではそうなる。しかし、それは断じて私の正しさの本意ではない。「弱さの正しさ」は弱さの単なる肯定でもなければ、「強さの正しさ」への屈服でもない。逆説的に言えば、弱くてダメな人は強さを求めるのではなく、あくまでも「弱さの正しさ」を貫かねばならない。勿論、「弱さの正しさ」を貫くには力を要する。しかし、それは強さではない。とは言え、私は強さを一概に否定するものではない。強くなれる人はどんどん強くなればいい。私が否定するのは強き人の強さそのものではなく、強き人の強さによる他の支配にすぎない。そして、本当に強き人は「弱さの正しさ」を貫く力を決して無視しないだろう。どう考えても強き人ではない私は自分の正しさを貫くことに日々苦慮しているが、何とかして「弱さの正しさ」による革命のドラマを書きたいと思っている。大衆は相変わらず「強さの正しさ」による世界変革を望み続け、私のドラマなど歯牙にもかけないと思われるが、私は自分の正しさを貫きたいと思う。よろめきながらでも。
私は正しい(9)
人間を信じることなくして私の正しさはあり得ない。ちなみに、相変わらず私は多くの刑事ドラマ観て、様々な殺人に日々立ち会っているが、どれ一つとして「納得のいく殺人」はない。当然だろう。「納得のいく殺人」などある筈がない。あったら大変だ。余談ながら、或るテレビ番組で殺人と武器の発達の関係を問題にしていた。目の前にいる人を刃物で殺すには、それなりの覚悟と度胸を要する。簡単にできることではない。そこには明確な殺人のリアリティがある。それが槍や弓矢の発達によって遠くにいる人を殺すことが可能になると、相手の顔もよく見えなくなり殺人のリアリティは稀薄になる。更に飛び道具を経て爆弾にまで至ると、もはや相手の顔など目にすることなくボタン一つで何万人もの殺人が可能になる。そこには殺人のリアリティは殆どなくなり、恰もゲーム感覚で殺人ができるようになる。厳密に言えば、それはもはや殺人ではない。単にモノを消去しているだけだ。それに対して、ラスコオリニコフは老婆一人殺すにもあれほどの苦悩を余儀なくされた。その途方もない苦悩こそ殺人のリアリティに他ならない。今 のドラマに殺人のリアリティは皆無だ。現実の殺人事件にもない。鄙見によれば、人が人を殺すことはあり得ない。人は無意識の裡に殺す相手をモノと化している。モノへの転化なくして殺人は起こらない。それにもかかわらず、人は人を殺す。その殺人のリアリティに人間への道が開いている。
私は正しい(8)
私は正しい。私の正しさは人として生きる単独者の自由を核としている。これは昨日の便りに反するのではないか。然り。人の単独性と人間の複数性は相対立する。しかし、そうした両者のcoincidentia oppositorumにこそ私の正しさはある。ただし、こんな理屈ばかり捏ねていても、私の正しさの花は咲かない。「我の正しさ」は醜悪なエゴイズムに堕していく。さりとて、「我々の正しさ」も滅私奉公を強いる危険性を免れない。「我の正しさ」の個人主義と「我々の正しさ」の全体主義。私の正しさはその稜線上を行く。連帯を求めて孤立を恐れず。むしろ、単独者のみが真の連帯を実現する。人の寂しさは人間の絆を求めるが、凡百のコミューンはディストピアでしかない。引きこもるのもやむを得ない。少なくとも、同調圧力で群れるよりは マシだ。しかし、やはり正しくはない。そこからの一歩が私の正しさを決定する。
私は正しい(7)
私は正しい。私の正しさは「人が人間になる」という複数性に基づいている。それは個人主義的な「我の正しさ」を超える「我々の正しさ」だ。とは言え、私の正しさは「我の正しさ」を蔑ろにするものではない。少なくとも、「我々の正しさ」によって「我の正しさ」を抑圧するようなものではない。従って、厳密には「我である我々・我々である我」の正しさと言うべきであろう。しかし、それでは煩雑になるので、単に「我々の正しさ」と称することにする。では、それはどのように機能するのか。戦わない傍観者に戦う人の歌に共鳴することを促すのだ。そもそも傍観者は何故戦わないのか。個人の幸福が大切だからだ。そこには家庭の幸福も含まれる。たとい強者の言論弾圧が理不尽なものであっても、その支配下にいる限り個人の幸福は保障される。逆に強者の支配に楯突けば、会社を解雇されたり学校を退学させられたりして個人の幸福が害されることになる。自分だけならまだしも、その害が家族や友人知人にまで及ぶとなれば、事は単純に割り切れない。現実には、更に複雑な事情が絡んでくるだろうが、傍観者に「我々の正しさ」の視点がないことだけは確かだ。その視点さえ根付けば、世界は変わる。戦う他者の歌を聞き流すことなどできなくなる。しかし、「我の正しさ」から「我々の正しさ」への実存的飛躍は至難の業だ。「世界がぜんたい幸福にならなければ、個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉も依然として虚空に響くにすぎない。君たちはどう生きるか。吉野源三郎ならずとも、そう問わずにはいられない。
私は正しい(6)
「正義とは強者の利益だ」とはトラシュマコスの言葉だが、私はそこに「強さの正しさ」の典型を見る。国安法の正しさも畢竟そこに強者の利益が込められているからにすぎない。実際、国安法に反対しても力で捩じ伏せられるだけだ。従って、国安法をつくった強者以上の力を持たない限り、その正しさを覆すことはできない。原理的にはそうなる。そこで善人が強者になることが望まれる。そもそもこの世界が腐敗しているのは悪人が強者になっているからだ。悪人を一掃して、善人が強者としてこの世界を支配すれば、たちまちパラダイスが実現するだろう。多くの人はそう夢見るに違いない。確かに、パラダイスの夢には容易に否定し難い魔力がある。しかし、私の正しさは敢えてその魔力と戦おうとする。パラダイスの夢に対してユートピアの理想を突き付ける。そうした私の正しさを一体誰が支持してくれるのか。
私は正しい(5)
私は正しい。その正しさは善きサマリア人の正しさとは質的に異なっている。善きサマリア人は如何なる意味においても傍観者ではない。むしろ、人のどんなに小さな苦しみに対しても決して傍観者にならないという生き方に善きサマリア人の正しさはある。当然、私は善きサマリア人の正しさを否定するつもりはない。何人たりとも否定できる道理はない。しかし、それにもかかわらず、現実には苦しむ他者を見て見ぬ振りをする人がいる。傍観者は何故生まれるのか。他人事ではない。善きサマリア人になり切れないという現実において、私もまた傍観者だと非難されるかもしれない。しかし、私は傍観者ではない。善きサマリア人ではないが、傍観者ではない。善きサマリア人とは異なる意味で、人の苦しみと向き合おうとしている。これは詭弁だろうか。それならそれでいい。傍観者との誹りを甘受する覚悟はできている。私の正しさは善きサマリア人になれない苦しみ、あるいは傍観者にならざるを得ない苦しみに向いている。例えば、連日言及している国安法下の香港において、ゴリゴリの共産党独裁の支持者でない限り、言論の自由を求める人たちの弾圧を苦しみなくして傍観することなどできないだろう。傍観者の悲哀。それを勇気の欠如だと非難すべきだろうか。確かに、勇気ある強き人は堂々と自由を主張し、たとい投獄されても、自分の正義を貫くに違いない。皮肉ではなく、立派だと思う。できれば私もそうした立派な人になりたいと思う。しかし、人生は「強さの正しさ」だけで成っているのではない。「弱さの正しさ」というものもあるのではないか。ただし、それは弱さを肯定するルサンチマンではない。これもまた詭弁であろうか。私の正しさは傍観者の悲哀と向き合い、そのラディカルな超克を目指すものだ。強き人は独裁者と戦う。力の勝負だ。私の正しさはそれとは全く異なる勝負を挑む。
私は正しい(4)
私は正しい。私の正しさは独裁者よりもその支配を甘受する大衆に焦点を絞る。勿論、独裁者とその支持者に対する批判を蔑ろにするわけではない。しかし、それは自明のことであり、殊更その批判の正しさを主張する必要はない。国安法下の香港においても、言論弾圧する警察やその片棒を担ぐ体制派市民もさることながら、私が見逃せないのは弾圧される民衆を見て見ぬ振りをする無言の大衆だ。共産党の一党支配を躊躇なく支持している「模範的市民」はそれでいい。曲がりなりにも自分たちの正しさを信じているからだ。問題は、現体制の正しさを全く信じていないのに、むしろ本心では間違っていると思っているのに、言論弾圧に対する抵抗の声を上げない人たちにある。触らぬ神に祟りなし。平穏無事な生活を維持しようとする傍観者たちの願いはよくわかる。果たして、私の正しさはそうした傍観者の願いに対して何が言えるのか。そもそも私自身は「傍観者ではない」と言い切れるのか。