新・ユートピア数歩手前からの便り -46ページ目

垂直の一歩(8)

垂直の一歩は決して一部の高等遊民のみが踏み出す気取ったものではない。しかし、水平的な関心しか持たぬ俗物には縁のない一歩であることも事実だ。これは矛盾ではないか。そうではないことを明らかにするために少し考えてみたい。私は以前に漱石の「馬鈴薯と金剛石」という対比について思耕したことがある。人生には馬鈴薯の必要と金剛石の必要がある。馬鈴薯は生きていくために誰もが必要不可欠とするものの象徴だが、それだけでは人生は満たされない。食うためだけの人生は虚しく、そこには剥き出しの生を華やかに彩る金剛石のようなものも必要になる。人はパンのみにて生くるにあらず。確かに馬鈴薯は生に必要不可欠だが、不要不急の金剛石を求める次元にこそ人生の本質(生きるに値する意味)がある。こうした高等遊民の人生が食うことだけに齷齪している人生から一歩踏み出していることは間違いない。しかし、それは垂直の一歩ではない。馬鈴薯が肉体の糧になるのは自明だが、金剛石は魂の糧にはならないからだ。尤も、高価な金剛石の収集を生き甲斐にしている人はいるだろうが、そうした生き甲斐と魂の糧は質的に異なっている。この意味において、高等遊民もまた水平的な関心しか持たぬ俗物の一人だと言う他はない。高等遊民には未だ垂直の一歩を踏み出す究極的関心はない。

垂直の一歩(7)

私はこの拙い便りを人間が本当に人間らしく生きられる「理想社会」を求めて書き始めた。そして、性懲りもなく今も書き続けている。しかし、現実はその実現から遠ざかるばかりだ。どうしてだろうか。思うに、「理想社会」の実現には二つの問題がある。肉体の糧の充足を目指す水平的問題と魂の糧の充足を目指す垂直的問題だ。端的に、前者をパンの問題、後者をパン以上の問題、と言ってもいい。「理想社会」の実現は、パンを求める社会運動とパン以上の何かを求める宗教運動の二重運動によって成就する。本来こうした二つの運動は相互に密接に関連しているが、一般的には切り離され、殆どの人の関心はパンの充足を求める水平的問題に集中する。そして、それはやがて「水平的(物質的=経済的)に如何に豊かな生活を築くか」という世俗的問題に収斂していく。しかし、そうした水平的豊かさだけが問題であるならば、わざわざ「理想社会」を求める必要はなく、一般社会の改善で事足りるだろう。実際、我が国に限って言えば、高度経済成長期を経て、総じて豊かで安心安全な社会を築くことに成功した。勿論、この現代社会は「理想社会」に程遠く、経済格差、環境破壊、故郷喪失、戦争の危機など、様々な問題が渦巻いている。しかし、世界の閉塞状況がどんなに深刻になっても、現代社会と「理想社会」との間には質的断絶があるように思えてならない。つまり、人々の社会変革の関心は相変わらず世俗的問題にとどまるものであり、「理想社会」の実現を求める究極的関心にまで高まらない、ということだ。結局、それは人々が「理想社会」への垂直の一歩を必要としていないことの証拠に他ならない。おそらく、多くの人々にとって、垂直の一歩は「アビゲイル騎士団」への一歩に等しきものにすぎないだろう。この致命的誤解を如何にして粉砕するか。

垂直の一歩(6)

既に旧聞に属するが、「ハヤブサ消防団」と題するテレビドラマがある。原作は池井戸潤氏で、岐阜県の山奥のハヤブサという地区に「アビゲイル騎士団」というカルト教団が押し寄せ、地域住民との軋轢が生じるという筋立てだ。人気作家としての期待に違わず、連続放火や殺人などミステリー仕立てのストーリー展開はそれなりに楽しむことができた。ただ、ドラマ自体を批判するつもりは全くないが、その核となるカルト教団の描き方には不満を禁じ得ない。総じてステレオタイプな存在で、そこには深みの次元が欠けているからだ。端的に言えば、「アビゲイル騎士団」という宗教には垂直性がない。「理想の世界」と題する最終回において、教団のリーダーが「我々はここハヤブサにユートピアをつくるんです」と主張するのに対し、主人公の作家は「ユートピアなど存在しない」と反論する。ここに見出されるのは「ユートピアを求める狂気」と「ユートピアを認めない理性」とのありふれた対立に他ならない。確かに、オウムに代表されるようなカルト教団には狂気が認められる。そこで求められるユートピアの殆どがディストピアに堕しているのも事実だ。ユートピアという理想が往々にして胡散臭い妄想でしかないのも今や常識となっている。しかし、理性によってそうしたユートピアを否定することで問題は解決するのだろうか。「アビゲイル騎士団」がユートピア実現のためには放火や殺人も辞さない狂気の洗脳集団だとしても、そこに救いを求めて集まってきた人々の苦悩は真実だ。むしろ、理性では割り切れない苦悩が「アビゲイル騎士団」を生み出したと言ってもいい。実際、「アビゲイル騎士団」の幹部が全員逮捕されて教団は実質的に解体されても、実はアビゲイルの火は消えていなかったことを暗示する場面でドラマは終わっている。鄙見によれば、もはや「狂気と理性」といった常識的な対立によってユートピアを否定することには意味がない。少なくとも、ユートピアへの垂直の一歩はそうした対立を超越している。

垂直の一歩(5)

垂直の一歩は様々な形で踏み出される。昨日の便りで私はそう述べた。実際、それは世界を一変させる派手な一歩に限らない。何気ない日常生活に埋もれた真実を甦らせる形をとることもある。例えば、私は先日「殉難者の祈り:『オホーツク民衆史講座』の人々」と題するドキュメンタリイを観たが、知られざる名もなき民衆の無念の歴史を掘り起こす地味な作業もまた、立派な垂直の一歩であることを再認識した。すなわち、殉難者の声なき声に耳を傾け、その思いに少しでも近づこうとする一歩だ。殉難者とは北海道開拓におけるトンネルやダムの工事現場、通称タコ部屋とか監獄部屋と言われる過酷な労働現場で事実上無惨に殺されていった人たちのことだ。私は映画などでタコ部屋の存在とそこでの強制労働は知っていたが、恥ずかしながらそれは単なる情報だけで立ち止まってしまった。つまり、それは知識にまで至らなかった。「タコ部屋の存在とそこでの強制労働を本当に知る」ということは、小池喜孝さんたちのように、理不尽な死を余儀なくされて歴史の闇に葬り去られた人たちの無念を掘り起こすことに他ならない。具体的には、残された当時の資料を可能な限り調べ上げ、無造作に埋葬された人たちの遺骨を収集して篤く供養するなどして、名もなき殉難者に個として名を取り戻すことだ。殉難者の多くは朝鮮からの人たちだったので、小池さんたちはその遺骨を故国に帰すこともしている。ここまでして初めて我々は「タコ部屋の真実を知った」と言うことができるだろう。こうした「民衆史を掘り起こす」一歩のあることを決して忘れてならない。それは作業としては失われた過去への一歩であるが、本質的には違う。現在に続く「タコ部屋」に等しき過酷な労働環境を糾弾していく未来への一歩でもある。その意味では、世界を一変させる派手さはないものの、この粘り強い地味な一歩もまた、世界を変革していく垂直の一歩と言えよう。

垂直の一歩(4)

ノーベル生理学・医学賞の受賞で改めて注目されているカタリン・カリコ氏は、そのmRNAの研究がコロナ禍に苦しむ世界を救った業績から「あなたはヒーローだ」と称賛された時、「私はただ研究室にいただけだ。真のヒーローは危険な現場で医療活動や清掃作業に黙々と従事してきた人たちだ」と語った。私も現場の人たちこそ善きサマリア人だと思う。しかし、現場から遠く離れた研究室にいたカリコ氏もまた、善きサマリア人とは見做されないかもしれないが、垂直の一歩を踏み出した人に違いない。確かに、カリコ氏の研究者としての一歩は目の前で線路に転落した酔っ払いを助けるための一歩とは質的に異なる。命懸けで強大な侵略者と戦うための一歩とも違う。しかし間違いなく、水平的な暴力に支配される世界を一変させる垂直的な一歩であった。垂直の一歩は様々な形で踏み出される。少なくとも、現場の善きサマリア人の実践だけに限定されるものではない。あるいは、垂直の一歩に研究と実践の区別は意味を成さないと言うべきか。

垂直の一歩(3)

垂直の次元は不可視のどこにもない場所だが、垂直の一歩は至る所にある。日常生活の様々な場面で、その一歩を踏み出すか否かが問われている。例えば、誰かが虐められているのを目にした時、学校や職場で何か不正なことが行われていると気づいた時、一部の有力者に世界の富が集中している現状に違和感を覚えた時、水平の次元を支配している力とは質的に異なる力が生じてくる。その力を恩寵もしくは良心の呼び声と言うべきかどうかは別として、それが垂直の一歩を促す力となる。しかし、いくら促されても、実際にその一歩を踏み出すのは容易なことではない。おそらく、考えて踏み出せるようなものではないだろう。別の例を挙げれば、かつて或る駅のプラットフォームで、線路に転落した酔っ払いを助けようとした韓国からの留学生が、酔っ払いを助けたものの自分は電車にはねられて亡くなるということがあった。その時、留学生は何も考えていなかったに違いない。咄嗟に身体が動き、線路に跳び下りていた。もし少しでも自分の身の危険とか、この下らない酔っ払いに助ける価値があるのか、と考えていたら、青年の足は動かなかったと思われる。尤も、その場から逃げ出すなどの水平的な動きはあったかもしれないが、線路に跳び下りるという垂直の一歩はあり得ない。しかし、韓国人の青年はその一歩を踏み出した。無難な人生とか損得勘定を度外視して、垂直の一歩を踏み出した。これは誰にでもできることではないが、誰にでも常に問われている一歩に他ならない。

垂直の一歩(2)

エイゼンシュテインの名作「戦艦ポチョムキン」の名場面と言えば「オデッサの階段」だが、私にとっては戦艦の大砲がその方向を民衆から宮殿へとゆっくりと移していくシーンだ。そこに垂直の一歩がある。垂直の一歩は決して気取った特別なものではない。俗なる次元を切り裂く聖なる力によるものではあるが、断じて俗なる次元の外へと遊離していかない。むしろ、俗なる次元に踏みとどまり、そこで重力に抗う一歩を踏み出す。天安門でも香港の路上でも、かつて警察の銃口は民衆に向けられた。警察もロボットでないならば、それなりの信念があってのことだろう。「暴徒と化した民衆は秩序を乱す敵でしかない」という信念だ。しかし、その際に警察が守ろうとしている秩序とは何か。それは中国共産党の水平的暴力(上から押さえつける重力)によって維持される秩序にすぎない。確かに、この秩序の下でも無難な人生は可能だろう。しかし、無難に暮らせればそれでいいのか。もしそこに少しでも違和感があれば、それは垂直の次元からやって来る。垂直の一歩は特権的なものではない。かつてプラハの街をソ連の戦車が侵攻してきた時、その戦車を操縦するソ連の若者をプラハの民衆が必死に説得していたシーンが思い出される。そこに垂直の一歩がある。たとい水平的暴力の強さに踏み躙られるとしても、垂直の一歩を断念するわけにはいかない。

垂直の一歩

「無難な人生からの一歩」という言葉も誤解を誘発する。無難な人生など誰にでも簡単に手に入る――そんな誤解だ。現実には「無難な人生からの一歩」どころか、無難にさえ生きられなくて絶望している人はいくらでもいる。先日観たドラマの中では、就活で百社に及ぶ企業の試験を受けたのに一社からも内定がもらえなくて自殺した学生が登場した。別に大企業でなくてもいい。社会的に注目されるカッコイイ職場でなくてもいい。ただ日々を平穏無事に暮らせていければそれでいい。能力のある人は次々と冒険をして、たとい挫折しても何度でも這い上がる波瀾万丈の人生を送るだろう。これといった特性のない自分にはそんな派手な人生は無理だが、平凡な人生で構わない。それで十分だ。平凡に就職して、平凡に家庭を築き、平凡に老いて死んでいく。ホメラレモセズ、クニモサセレズ、名もなく貧しく美しい人生に自分の幸福がある。そうした無難な人生の一体何がいけないのか。むしろ、全世界の人が無難に人生を全うできるように皆で骨を折るべきではないか。私に異論はない。ただし、全世界の人が無難な人生を全うするためには、個々の人は無難な人生に閉じこもるべきではない。そう思うだけだ。「無難な人生からの一歩」は無難な人生の拒絶を意味しない。重要なことはあくまでも垂直の一歩だ。それは決して「水平的幸福」を否定するものではなく、エゴイズムに閉塞する人を祝祭共働する人間へと高めるものに他ならない。

無難な人生からの一歩

偉そうなことを言う資格はない。キレイゴトを言うつもりもない。人は地道に働いて無難に暮らそうとする。別に派手で立派な生活でなくてもいい。金持にならなくても、愛する家族と共に日々を慎ましく過ごせればいい。こうした無難な人生に私は「水平的幸福」を見出すが、それ自体が悪い道理はない。むしろ、世の中には未だ無難に生きようとしても生きられぬ不幸がある。病気や災害といった自然的要因もさることながら、戦争とか貧困といった人為的要因は何としてでも皆で協力して克服しなければならぬ。その克服こそ水平革命によってもたらされるパラダイスに他ならない。従って、私もまたそうしたパラダイスの実現に真摯に取り組みたいと思っている。

 

しかし、繰り返し述べているように、パラダイスは究極的な理想社会ではない。では、無難な人生の「水平的幸福」の何が問題なのか。それは太宰治が「家庭の幸福は諸悪の本」と言わざるを得なかった問題と通底している。すなわち、「無難な人生の幸福は諸悪の本」なのだ。例えば、見知らぬ誰かが虐められている時、自分の無難な人生に執著し続ける限り、「やめろ!」の一言は永久に発せられない。その一言を発したが最後、今度は自分が虐めのターゲットになって無難な人生は永久に消滅してしまうからだ。触らぬ神に祟りなし。虐めにせよ何にせよ、無難な人生の幸福を維持したいなら、見て見ぬ振りをするのが一番。鄙見によれば、人が個々の無難な人生にしがみついてそこに閉じこもる限り、虐めはなくならない。戦争も、貧富の差もなくならない。それらが自分の無難な人生の外にある限り、「水平的幸福」は曲がりなりにも維持される。それでいいのか。無難な人生からの一歩のみが世界に巣食う諸悪に対する「やめろ!」の一言を可能にする。それは垂直の次元への一歩でもある。

GewaltとMacht

プロレスラーのように屈強な大男とケンカをしても私は勝てない。惨めに殴り倒されるだけだ。従って、もしその大男が不正なことをしても私に腕力でそれを止める術はない。ただし、「お前は間違っている!」と叫ぶことはできる。大男の暴力(Gewalt)に私は言葉の力(Macht)で対抗するしかない。しかし、腕力で勝てないのに言葉で勝てるだろうか。私の言葉が法的に正しいことを示したところで、それを支持する力が暴力を抑え込まなければ勝てない。結局、暴力以上の公的権力の行使なくして言葉の勝利はあり得ない。しかし、厳密に言えば、それは言葉の力の勝利ではない。少なくとも私は警察とか軍隊といった公的権力の介在しない「言葉の純粋な力」を信じたい。屈強な大男の不正を言葉だけの力で正したい。暴力と言葉の力は質的に異なっている。力の次元が違うと言ってもいい。暴力を抑え込む公的権力もまた本質的には暴力と同じ次元に属する。私は暴力に言葉の力だけで対抗したいのだ。果たして、そんなことが可能だろうか。

 

かつて加藤周一氏は「戦車と言葉」という対比について語ったが、そのことから私はいつも天安門事件の際に戦車の前に立ちはだかった通称タンクマンと称される人物を連想する。尤も、この人物は謎に満ちていて、特に何らかの言葉を発したわけではないが、私は勝手に言葉の力を象徴する存在だと思ってきた。しかし最近、すでに周知のことかもしれないが、それが中国共産党の自作自演であるという説があることを知った。すなわち、わざと世界中の目が注目している場で中国共産党の軍はあくまでも人道主義的に行動しているとアピールするためのプロパガンダだった、ということだ。もしそれが事実なら、やはり戦車には勝てないのだろうか。戦車は平気で人を踏み潰していく――これが現実なのか。この暴力に満ちた現実に言葉の力は如何にして対抗し得るか。