垂直の森(7)
キルケゴールのシナリオによれば、人生の美的段階は不安によって倫理的段階へと移行し、絶望によって宗教的段階へと飛躍する。果たして現実はその通りに展開するだろうか。ここでは一気に宗教的段階への飛躍に集中したいところだが、美的段階から倫理的段階への移行も無視できない。一筋縄ではいかないからだ。勿論、美的段階は基本的に子供の時代であり、やがて大人になって倫理的段階へと移行していくのが自然の流れだ。しかし、現代社会は大人になれないピーターパン・シンドロームに陥っている。主に肉体の糧をめぐる不安(食うための不安)が親の庇護から自立して大人になることを余儀なくさせるものの、総じて経済的に豊かになった社会は大人になっても美的段階に引きこもることを或る程度可能にした。「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と三島は予言したが、正にその通りになった。尤も、もはや日本は経済大国でさえなくなったが、美的段階でチャラチャラしている人は未だ少なくない。それも緊迫する世界情勢に比べれば、日本はまだまだ平和であることの証拠だが、流石にその平和も次第に怪しくなりつつある。早晩、平和ボケの連中も倫理的段階への移行は避けられなくなると思われるが、それでも美的段階への回帰願望は完全にはなくならないだろう。苦悩に満ちた倫理的段階の至る所で燻り続ける美的段階へのノスタルジア。それは宗教的段階への飛躍、すなわち垂直の森の形成にも大きく影響する。
垂直の森(6)
私は如何なる意味においても、また誰に対しても生き方を強要するつもりはない。そんな大それたことをする資格も権利もない。ただ、人間として本当に生きること、すなわち究極的な生を求めているだけだ。誤解を恐れずに敢えて絶対的な生と言ってもいいが、それは或る一つの生き方を絶対化することとは全く違う。人それぞれ、憧れる生き方があるだろう。最大関心事としての生き方だ。それは幼い頃からの様々な影響の渦から生み出されるが、当然、自分に与えられた能力に応じて調整され、自分の身の丈に合った生き方に落ち着いていく。ナンバーワンの生き方でなくてもいい。それぞれのオンリーワンの生き方に幸福が宿る。そこにパラダイスがある。先述したように、パラダイスにも格差(上流、中流。下流)があるが、ナンバーワンもオンリーワンもその生は絶対的ではない。全て相対的な生にすぎない。もとよりどんな生き方でも自身にとっては掛け替えのないものだが、その絶対化は馬鹿げたことだ。誰もが羨む著名人の華麗な生き方も絶対的ではない。そもそも相対的な水平の次元に絶対的な生などあり得ない。ナンバーワンの最高の生はある。しかし、それは絶対的=究極的な生ではない。次元が全く違うのだ。実存的飛躍とキルケゴールは言ったが、水平の次元と垂直の次元との間には質的断絶がある。言うまでもなく、私自身は絶対的=究極的な生への実存的飛躍を求めているが、そこに必然性があるかどうかはわからない。あるとしても、それを論理的に証明することはできない。だから冒頭に述べたように、その飛躍を強要するつもりはない。しかし、それにもかかわらず、私は垂直の「森」を求める。一人でも多くの人が人間となり、垂直の森で共に生きることを望む。これは何かを悟りきったと勘違いした痴れ者の戯言にすぎないのか。
垂直の森(5)
人は最初から垂直の次元を意識して生きるのではない。実際、夢見る無垢の幼き子供は垂直性とは無縁に生きている。だからこそ夢見る無垢でいられるとも言えるが、無垢は必ず経験に移行する。それが「大人になる」ということではないか。ピーター・パンに憧れても仕方がない。キルケゴールの実存弁証法(美的・倫理的・宗教的という人生行路の諸段階)に即して言えば、美的段階から倫理的段階への移行と共に水平の次元を意識して、そこで如何に生きるべきかと考え始める。それは自らの人生における最大関心事を見出す経験、俗に言う「自分探しの旅」でもある。その結果、美的段階で見た夢が実現し、正に順風満帆な人生を送る幸福な人もいるだろう。しかし、殆どの人は夢破れ、もしくは夢見る人生そのものに疑念を懐き、苦悩に満ちた倫理的段階を生きることになる。こうした美的段階から倫理的段階への移行について、正直言うと私にその不可避性を主張するだけの本当の自信はない。勿論、私自身は倫理的段階の不可避性を信じているし、その移行が人生の本道(この道)であることに疑いはない。しかし、一生美的段階に生きられる幸福があるのなら、その享受を批判する権利が私にあるのか。あるとしても、その批判は有効なのか。悩まずにはいられない。金持の家に生まれ、才能にも恵まれて何不自由なく育ち、やりたいことを全て成し遂げていく幸福な人生。私には無縁な幸福だが、そこに夢の実現としての理想を見出すことは個人の自由だ。一概に否定できない。そして、その理想をパラダイスと称するならば、上流のパラダイスは少数の既得権益者に限られるものの、大多数の人は中流や下流からパラダイスを求め続ける。すなわち、幼い頃の夢が破れた人たちも少しでも上の幸福に辿り着きたいと頑張っている。その誠実な「頑張り」について私などがとやかく言う資格はないが、一つだけ確かなことがある。人々がパラダイスの追求に執著する限り、倫理的段階を極めること、更には宗教的段階への飛躍はあり得ない、ということだ。つまり、パラダイスへの疑念なくして垂直の次元を意識することはない。従って、垂直の森は必然的にパラダイス批判を要請することになる。
垂直の森(4)
最大は最小との対比においてある。究極に対となるようなものはない。つまり、究極は絶—対だ、我々が現実に生きている水平の次元に絶対的なものはない。大小、長短、高低など、全て対比される関係から構成されている水平の次元は相対的な世界だ。絶対的なものは垂直の次元にのみある。ただし、垂直の次元の「ある」は、有(ある)と無(ない)の対立関係を成立させる存在の根柢としての絶対無に他ならない。従って、絶対無としての垂直の次元は「どこにもない場」であり、水平の次元とは対の関係にはならない。もし垂直の次元が実定化されて、水平の次元と対の関係になれば、両次元共に歪んでしまう。水平の次元にある筈のない絶対的なものが求められ、あるいは自分こそは「最終解脱した絶対者だ」と名乗る不逞の輩が跳梁跋扈したりする。ちなみに、最近解散命令が請求されたカルト教団などはその一例であろう。特定の人物を神として崇拝したり、多額の献金を救いの条件にしたりすることなど、一般人の常識では到底理解できないが、それも垂直の次元の歪曲によるものだと考えられる。私は決してそうした教団の信者を擁護するつもりはないが、現実(水平の次元)に生きる苦しさが宗教に救いを求める気持に嘘はないと思う。それはこの世界に何か絶対的なものを渇望する思いでもある。問題はカルト教団の、いや既成宗教も例外ではないが、宗教性(垂直性)が歪んでいることにある。とは言え、歪んだ宗教性にもそれなりに(曲がりなりにも)救いがあることは事実だ。これは江川紹子氏が指摘していたことだが、カルトの信者たちは、たとい一度はカルトから脱しても、世間一般からの激しいバッシングで行き場をなくし、結局は元のカルトの繋がりの場に戻るしかないことが多いそうだ。つまり、たといカルトが邪教だと頭では理解できても、そこには依然として現実社会に行き場を失った人たちの救いの場となる力が残されている、ということだ。同様のことは、不良仲間の溜まり場についても言えるだろう。勿論、それは現実逃避であって、そこに真の救いはない。しかし、水平の次元に行き場を失った人たちが「現実とは別の場所」を求める思いを私は無視したくない。垂直の森は、歪んだ垂直の次元にしか行き場のない人たちのためにも要請される。
垂直の森(3)
「垂直の森」は共同体ではない。共働態だ。その違いは実体と関係態の差異に準ずる。とは言え、私は共同体を否定するつもりはない。むしろ、逆だ。農業を始めとする生産共同体であれ生活共同体であれ、共同体は人生に必要不可欠なものだと思っている。勿論、「共同体なんて煩わしいものは嫌だ。自分は個人としての生活を楽しみたい」と思う人たちもいるだろう。その方が大半かもしれない。極端な場合には、人里離れた山奥で共同体とは無縁の純粋に一人だけの自給自足生活に理想を見出す人もいる。だが一般的には、共同体の社会保障(健康保険や年金その他)の下で暮らした方が個人としての生活もより安心して楽しめるに違いない。すなわち、完全に孤立した生活ではなく、共同体としての生活を必要最小限に、個人としての生活を最大限に楽しむことが理想となる。要するに、人生の最大関心事は個人の私的領域にあるのであって、共同体の公的領域はあくまでも個人の私的領域を保障するためだけに求められるにすぎない、ということだ。私はここに水平的生活の典型を見出す。もとより個人の私的領域を重視する水平的生活が悪 いわけではない。人生の最大関心事が個人の私的領域にあることも認める。しかし、それは人生の究極的関心事にはなり得ない。何故か。最大と究極の違いは何か。
垂直の森(2)
新しき村の現状が「実篤の村」にすぎなくとも、「垂直の森」の主要な土壌が新しき村の精神であることに変わりはない。と言うより、新しき村の精神もまた、古今東西のユートピア思想同様、水平に流れる歴史を切り裂く垂直の力によるものだ。ファランステールも羅須地人協会も垂直の力に貫かれている。しかし、そこに垂直の力の働きがなくなれば、それは単なる歴史的遺物と化す。新しき村が実篤記念館に等しき「実篤の村」と化したように。私は何とかして新しき村に垂直の力を取り戻せないものかと願ってきたが、私の力不足で叶わなかった。新しき村は終に運動態としての本来の姿に戻らなかったが、問題は「新しき村の再建」などという小事ではない。世界全体が垂直性の涸渇に苦しんでいる。ただし、繰り返し述べているように、垂直性は極めて危険な魔力を胚胎している。例えば、個々バラバラの無縁社会をもたらす水平の力に対抗する垂直の力は絆(結束 )強きファシズムを生み出すかもしれない。垂直性は取り扱い厳重注意。だからこそ「垂直の森」が必要となる。そこは垂直的人間が祝祭的に共働することで、歪んだ水平化に苦しむ世界に理想を取り戻す拠点でもある。そうした「垂直の森」が世界中に広がっていくことを私は切に望む。
垂直の森
「垂直の森」はその主要な土壌を新しき村の精神に見出すが、それに尽きるものではない。つまり、「垂直の森=新しき村」ではない。新しき村は「垂直の森」から生まれる理想の実定化の一つであり、両者は厳密に区別されるべきだ。尤も、私はこれまで両者を同一のものと見做してきた。あるいは、新しき村の本質は「垂直の森」にあると考えてきた。すなわち、垂直の精神に生きる人を単独の木とすれば、それらの木々が祝祭的に共働することで森が形成される、それが新しき村になることを望んだのだ。しかし、こうした「垂直の森」(祝祭共働態)の理想を、武者小路実篤がおよそ百年前に創立した新しき村に読み込むことには無理があった。実際、私は実篤の良き忠実な読者ではなく、そのテクストを厳密に解釈することを度外視してきた。率直に言って、新しき村の精神から生み出された「垂直の森」の理想は何ら厳密な文献学的作業によるものではなく、偏に私の勝手気儘な(良く言えば、自由で創造的な)読解によるものにすぎない。私としては、「発展的解釈は新しき村の精神に反しない」と思っていたが、やはり認識が甘かったようだ。新しき村は、それを愛する殆どの人(特に会員)にとって「実篤の村」に他ならず、それ以上でも以下でもない。結局、私は百年の歴史を有する「実篤の村」の壁を打破できなかった、ということになる。私の求める「新しき村の理想」は殆ど誰にも理解されず、むしろ村の関係者(実篤シンパ)からは異端的歪曲として黙殺されてきた。もとより私には私なりの反論(例えば、殺仏殺祖)があるが、「真の新しき村とは何か」という解釈の戦いをしても意味がないだろう。徒に虚しさを深めるだけだ。それ故、私は新しき村の歴史から離脱することを決意した。今後、私は自らのライフワークを新しき村の運命と重ね合わせて語ることはしない。
補足:水平の一歩
「よく『進歩』『進歩』と言うがな。『進歩』っていうものは、着実な改良なんだ。一ぺんになにもかにも、ぶっこわして、それですっかり改革されるという、そういう短気な景気のいい話は、学者か評論家にまかせておきゃいいだ。おれら民衆に必要なのは、もっと身近な改良だ。」(武田泰淳「森と湖のまつり」)
その通りだと私も思う。人生のドラマの唯一の舞台が水平の次元であるのなら、垂直の一歩を踏み出す前に水平の一歩を踏み出すべきだ。そう考える人も少なくないだろう。実際、戦争、貧困、環境破壊など、世の中には解決すべき水平的問題が山積しており、そうした身近な諸問題の「改良」に立ち向かう水平の一歩が求められている。私は決して水平の一歩を否定するものではない。しかし、戦争などの悲惨な現実をもたらすものも水平の一歩なのだ。水平の一歩を世俗化、垂直の一歩を聖化、と単純に考えてもいいが、二つの運動は相即している。垂直の一歩を意識しない水平の一歩は世界を堕落させる。垂直の一歩が水平の一歩を正しい道に導く、そう言ってもいいだろう。人生の唯一の舞台はあくまでも水平の次元だが、そこには常に垂直の力が恰も恩寵のように働く。アラブとユダヤの和解に向かう水平の一歩も垂直の一歩なくして成就しない。
垂直の一歩(10)
垂直の一歩は水平の次元(現実)から垂直の次元(理想)への移行ではない。そもそも垂直の次元は不可視のどこにもない場所なので、そのような移行は原理的にあり得ない。繰り返しになるが、我々が現実に生きるのは水平の次元以外にはない。人生というドラマの唯一の舞台は水平の次元なのだ。肉体がやがて死を迎え、その後に霊魂の世界があるかどうかは、未だ死んだことがないのでわからない。あるとしても、所謂「来世」(あの世、浄土)は私が問題にしている垂直の次元ではない。「来世」は垂直の次元の実定化にすぎないと私は考えている。尤も、フォイエルバッハ流に、水平の次元から生み出される願望を垂直の次元に投影することは避けられないだろう。確かに、そのように投影された願望はしばしば理想に転化する。しかし、その転化が「来世」のように垂直の次元の実定化によるものであるならば、それは理想の歪曲でしかない。垂直の一歩は、むしろそうした歪曲から理想を救い出すものだ。
どうも言葉が足りず、語れば語るほど抽象の沼に落ち込んでいく。しかし、私の思耕の原点は極めて単純だ。この世俗化(水平化)した世界に聖なるもの(垂直性)を取り戻す――これに尽きる。端的に「堕落した現代社会の聖化」と言ってもいいが、これだけでは誤解は必至だろう。実際、それは現象的には「世の立て直し」を訴える凡百のカルト教団と何ら変わるところはない。垂直の次元は宗教の次元だと言っても強ち間違いではなく、垂直の一歩がカルト教団への一歩と紙一重であることを私は認める。しかし、この「紙一重の差異」こそが限りなく重要なのだ。垂直の一歩と「垂直の次元への一歩」は厳密に区別されなければならない。言うまでもなく、その区別を本当に知ることは至難の業であり、私とてその知解への途上にあるにすぎない。それが「ユートピア数歩手前」の真意でもある。
何れにせよ、垂直の一歩は極めて危険なものだ。カルト教団への危険性もさることながら、世俗化した天皇制(すめらぎの人間宣言)に絶望して日本における垂直の次元を立て直そうという志が天皇の神格化を再び望む危険性にも繋がっている。こうした垂直性の誤解並びに歪曲の危険性に直面すると、いっそ垂直の次元など求めない方がいい、世俗化=水平化した社会で幸福に生活することを求めた方がいい、などと思いがちになる。事実、そう思っている人は少なくないだろう。宗教は百害あって一利なし。たとい宗教に利を見出したとしても、それは民衆を現実の苦しみから逃避させる阿片の利に等しきものにすぎない。しかし、本当にそうか。民衆の幸福は世俗化した社会にしかないのか。垂直の一歩は正にこうした民衆の思いに挑戦する。どんなに危険な道であっても、垂直の一歩は不可避だ。それが人間の究極的理想への道であるならば。
垂直の一歩(9)
高いとか低いとか、長いとか短いとか、速いとか遅いとか、そうした違いが重要視されるのが水平の次元だ。そこでは高学歴・高収入、長寿、速い生活(速い乗物、ファーストフードなど)が一般的に価値あるものとして求められる。そして、そうした比較に基づく価値が全く無に帰してしまうのが垂直の次元だと一応言うことができよう。しかし、このような二つの次元の対比は往々にして誤解される。かく言う私も例外ではない。私は長く「競争原理に支配された水平の次元」と「共生原理が働く垂直の次元」という対比で考えてきた。すなわち、我々が現実に生活しているのは水平の次元だが、理想は常に垂直の次元に求められる、というように。その対比そのものに問題はないが、これを二元論的に捉えると誤解が生じる。例えば、偏差値の高さを競う教育の現実に絶望してゆとり教育に理想を見出す場合、「競う教育」から「ゆとり教育」への移行が一般的には垂直の一歩だと見做されるだろう。典型的な誤解だ。確かに垂直の次元では、「先の者が後になり、後の者が先になる」と聖書に言われているように、偏差値が高いとか低いとかいうことは意味を失う。一位の者が後になり、最下位の者が先になる。水平の次元(現実)ではあり得ないことが垂直の次元(理想)ではあり得ることになる。しかし、それが二元論的に理解されると、理想は単なる空想に堕す。実際、二元論を前提とする「ゆとり教育」は子供たちの学力低下を招いたにすぎない。私はここで「ゆとり教育」の本質を論じる余裕はないが、それが単に授業(勉強)時間を減らすものでしかないのなら、そこに垂直の一歩はない。時間に追われる(スピードを競う)生活からスローライフへの移行も然り。それも垂直の一歩と思われるかもしれないが、全く違う。「ゆとり教育」もスローライフも、一般的には高等遊民の一歩でしかない。垂直の一歩は理想への一歩ではあるけれども、決して水平の次元(現実)から遊離するものではない。