垂直の一歩(10)
垂直の一歩は水平の次元(現実)から垂直の次元(理想)への移行ではない。そもそも垂直の次元は不可視のどこにもない場所なので、そのような移行は原理的にあり得ない。繰り返しになるが、我々が現実に生きるのは水平の次元以外にはない。人生というドラマの唯一の舞台は水平の次元なのだ。肉体がやがて死を迎え、その後に霊魂の世界があるかどうかは、未だ死んだことがないのでわからない。あるとしても、所謂「来世」(あの世、浄土)は私が問題にしている垂直の次元ではない。「来世」は垂直の次元の実定化にすぎないと私は考えている。尤も、フォイエルバッハ流に、水平の次元から生み出される願望を垂直の次元に投影することは避けられないだろう。確かに、そのように投影された願望はしばしば理想に転化する。しかし、その転化が「来世」のように垂直の次元の実定化によるものであるならば、それは理想の歪曲でしかない。垂直の一歩は、むしろそうした歪曲から理想を救い出すものだ。
どうも言葉が足りず、語れば語るほど抽象の沼に落ち込んでいく。しかし、私の思耕の原点は極めて単純だ。この世俗化(水平化)した世界に聖なるもの(垂直性)を取り戻す――これに尽きる。端的に「堕落した現代社会の聖化」と言ってもいいが、これだけでは誤解は必至だろう。実際、それは現象的には「世の立て直し」を訴える凡百のカルト教団と何ら変わるところはない。垂直の次元は宗教の次元だと言っても強ち間違いではなく、垂直の一歩がカルト教団への一歩と紙一重であることを私は認める。しかし、この「紙一重の差異」こそが限りなく重要なのだ。垂直の一歩と「垂直の次元への一歩」は厳密に区別されなければならない。言うまでもなく、その区別を本当に知ることは至難の業であり、私とてその知解への途上にあるにすぎない。それが「ユートピア数歩手前」の真意でもある。
何れにせよ、垂直の一歩は極めて危険なものだ。カルト教団への危険性もさることながら、世俗化した天皇制(すめらぎの人間宣言)に絶望して日本における垂直の次元を立て直そうという志が天皇の神格化を再び望む危険性にも繋がっている。こうした垂直性の誤解並びに歪曲の危険性に直面すると、いっそ垂直の次元など求めない方がいい、世俗化=水平化した社会で幸福に生活することを求めた方がいい、などと思いがちになる。事実、そう思っている人は少なくないだろう。宗教は百害あって一利なし。たとい宗教に利を見出したとしても、それは民衆を現実の苦しみから逃避させる阿片の利に等しきものにすぎない。しかし、本当にそうか。民衆の幸福は世俗化した社会にしかないのか。垂直の一歩は正にこうした民衆の思いに挑戦する。どんなに危険な道であっても、垂直の一歩は不可避だ。それが人間の究極的理想への道であるならば。