アウトサイダーの求める正義(3)
異物の排除。それは自然の理だ。免疫システムはもとより、私は私でないものを私の内部に容れることを許さない。されど私でないものとは何か。そもそも私とは何か。「自同律の不快」を感じぬ者、すなわち単純に「私は私である」と言い切って胸を張っている者は次のように言うだろう。「私は男だ。男以外は私の世界から出て行け!」もしくは「私は日本人だ。日本人以外は私の世界から出て行け!」かくして一人のchauvinistが誕生する。これもまた自然の理であろうか。もしそうなら、「私の世界」とは何と薄っぺらで貧困なものか。醜いアヒルの子は「私は美しい白鳥である」という自覚で救われるが、この救いは所詮chauvinismの閾を出ない。人の自然の情であっても、そこに人間の理想はない。アヒルの世界ではアウトサイダーであることを余儀なくされた白鳥は白鳥の世界ではインサイダーとして生きる。当然のことだ。そこに白鳥の救いがある。しかし、人間の救いではない。人間の救い はアウトサイダーとしての「自同律の不快」を噛み締めることから始まる。
アウトサイダーの求める正義(2)
難民は強いられたアウトサイダーだ。尤も、原理的に言えば、全てのアウトサイダーは強いられた存在であって、自ら望んでアウトサイダーになることなどあり得ない。例えば、クラスが一つであれば、内も外もなくアウトサイダーが生じる余地はない。しかし、クラスを支配する者が現れると、その支配に従わぬ者は必然的にアウトサイダーとなる。支配者が現れない場合でも、クラスにいくつかの仲良しグループが自然発生すれば、そのどれにも属さない者はアウトサイダーになる。このようにアウトサイダーは常に強いられた結果にすぎない。難民も基本的に同じだが、少し違う。引き続き学校の例に即して言えば、難民というアウトサイダーはクラスの中からではなく外から生まれる。つまり、難民は転校生なのだ。
転校生はアウトサイダーとしてクラスにやって来る。しかし、やがてクラスに馴染めばインサイダーになる。難民もまた、祖国を離れることを余儀なくされたアウトサイダーとして別の国にやって来るが、その新しい国に馴染めば、そこでインサイダーとして生きていく。論理的にはそうだが、現実は違う。殆どの難民は新しい国のインサイダーにはならない。ずっとアウトサイダーのままだ。それが難民を受け容れる国の市民との軋轢に繋がっていく。その軋轢のせいで、アウトサイダーがアウトローに転化していくことを私は危惧する。一体、何が問題なのか。難民の受け容れに反対する市民は非人道的なヒトデナシなのか。おそらく、そうではないだろう。問題の根はインサイダーの正義にある。
「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」:クマと難民
『梅切らぬバカ』という映画を観た。知的障害のある中年の男とその母の物語だ。息子は住宅地にあるグループホームで生活を始めるが、その施設は近隣住民との軋轢が絶えない。知的障害者に悪気はなくても、その奇矯な行動は子供たちを怖がらせるなど、何かと近所迷惑になるからだ。それ故、住民たちは施設の移転運動を起こす。「こんな住宅地ではなく、もっと郊外の、余り人のいない自然豊かな場所で伸び伸びと暮らした方が障害者にとっても幸福ではないか」というのが住民たちの総意のようだ。確かに、一般常識に囚われない知的障害者の存在は住民たちの平穏無事な生活を乱すものだろう。ここで注意しておきたいことは、住民たちに障害者への差別意識がないとされていることだ。少なくとも本人たちにその自覚はない。住民たちはあくまでも障害者にとっても良かれと思って「施設の郊外移転」を要求している。しかし、その論理は実質的に「ごみ処理施設の移転要求」と同じではないか。ごみ処理施設は必要だ。誰もその必要性を否定などしない。しかし、それが自分たちの家の近くに建設されることは許せない。いくら「危険性はない」と言われても拒絶の思いは変わらない。同様に、誰も障害者の人権を否定しない。しかし、その施設が近隣に建てられることは許容できない。障害者施設をごみ処理施設と同等に扱うことにおいて、それはやはり差別の論理であろう。しかし、我々はこの差別の論理を本当に超克できるのか。
いくら障害者の人権は尊重すると言っても、障害者との接触を切ることで成立する尊重とは何か。他人に迷惑のかからぬ遠い場所で障害者に平穏無事に暮らしてもらうこと、それが障害者の人権を本当に尊重することになるのか。甚だ疑問に思わざるを得ないが、さりとて障害者との接触を切らなければ、その常識外れの行動に自分たちの生活が乱され続けることになる。そうした生活の乱れを我慢することが障害者の人権を尊重することなのか。障害者との関係を切る馬鹿と切らぬ馬鹿。どちらも馬鹿だとすれば、一体どうすればいいのか。色々と考えているうちに、私は不意に最近アーバンベアと称されるクマのことを思った。周知のように、今年は山奥に餌が不足しているせいか、人の生活圏にまで下りて来るクマが多くなっている。それに比例してクマの駆除も増えているが、そのことを非難する声も多くなっているらしい。おそらく、その非難は動物愛護の精神に基づくものだと思われるが、日々クマの危険性と背中合わせで暮らしている人たちには唐人の寝言にすぎないだろう。また、クマの駆除を非難する人でもクマとの密接な関係を望んでいるわけではない。むしろ、密接な関係(接触)を切ることがクマとの共存の条件となる。クマは人里離れた山奥に棲む限り無闇に駆除されることはあり得ない。つまり、クマのイノチの尊重はあくまでもクマと人との棲み分けが大前提とされているのだ。障害者の人権の尊重も然り。少なくとも障害者施設を自分たちの生活圏とは別の所に望む人たちとって、障害者はクマと同じ存在ではないか。不謹慎な言い方になるが、障害者との共存はクマとの共存と同様に関係の切断を前提にしていることが多い。言うまでもなく、そのような共存は根源的に間違っている。障害者はクマではない。関係の切断を前提とした共存ではなく、あくまでも共生の関係を実現しなければならない。
しかしながら、差別意識がなくても、いや差別意識がないからこそ、障害者との真の共生は困難を極める。差別意識のない差別の論理。それは難民との共生の困難さに通じるものだ。先日のNHKスペシャルでも問題にされていたが、今、先進国のあちらこちらで難民受け入れに反対する市民運動が起きているとのことだ。政府による難民拒否も問題だが、市民レヴェルにおける難民拒否はより深刻な問題を孕んでいる。勿論、難民を積極的に支援しようとする人道主義的な市民もいるわけで、そこに激しい対立が展開する。難民切る馬鹿と切らぬ馬鹿。ここでも究極的な問題は正義のイロニーにあると思われる。
アウトサイダーの求める正義
インサイダーかアウトローか、正義はどちらにあるのか。そう問うのは間違っている。一般的に言えば、正義がインサイダーにあるのは自明のことだ。アウトローはあくまでも法に外れた悪人にすぎない。実際、我々の日常生活はインサイダーの正義によって守られている。警察権力の横暴が非難されることがあるにせよ、大衆は「警察権力なしのアナーキーな社会」を望まない。むしろ、「反社会的な犯罪が決して起きない社会の安全な秩序維持のために、警察権力の積極的な行使が必要だ」という公安部長を支持するだろう。しかし、インサイダーの正義は歪む。それもまた事実だ。「悪法も法なり」と言われるが、悪法に反抗すれば否応なくアウトローにならざるを得ない。例えば、香港の国安法が悪法だとすれば、それに反抗する市民はアウトロー、すなわち犯罪者となる。勿論、国安法を支持する市民もいるわけで、そうした市民はインサイダーとしてアウトローの徹底排除を警察権力に要求するに違いない。そうなればアウトローは無法なテロリズムに活路を見出すしかなくなっていく。しかし、冒頭に述べたように、インサイダーかアウトローかという「あれかこれか」の問いの形式は間違っている。たといアウトローのテロリズムが功を奏してインサイダーを打倒したとしても、それはアウトローが新たなインサイダーになるだけのことだ。革命は成就しない。アウトローはインサイダーの正義の腐敗を糾弾できても超克はできない。それを可能にするのはアウトサイダーだけだ。インサイダーとアウトローの対立は水平の次元のドラマにとどまるが、アウトサイダーはその対立を垂直に超えていく。アウトサイダーは決してインサイダーにならない。さりとてデラシネでもない。故郷が異郷になり、異郷が故郷になる。アウトサイダーは世界を一新する。
刑事ドラマにおける正義
ドラマの基本は善悪の戦いであり、人は勧善懲悪にカタルシスを得る。悪は巨大であればあるほど、それを成敗した際のカタルシスは大きくなる。時に悪が勝利したように見えるドラマもあるが、それも「悪くない悪」であり、結局はイロニーを胚胎した善の勝利に通じている。現実には悪が勝利しているとしても、だからこそドラマでは善のスカッとした勝利が求められる。殊にいつも虐げられている大衆は切に善の勝利を願う。それはもはや信仰に近い。虐げられている善人は極楽に往生し、虐げる悪人は地獄に堕ちる。悪人正機という破格のドラマは一筋縄ではいかないが、死後のドラマは総じて「善人救済=悪人断罪」の宗教として実定化される。生前のドラマも然り。時代劇では「水戸黄門」や「大岡越前」などがその典型だ。毎度同じパターンで悪の断罪という結末を迎える。現代劇では刑事ドラマにそのパターンが受け継がれている。すなわち、熱血刑事に代表される警察は正義の味方であり、常に善良なる市民を悪から守っているというパターンだ。私はそこにインサイダーの正義の絶対性を見出す。この絶対性は長く揺らぐことがなく、多くの個性的な刑事ドラマを生み出してきた。しかし、最近はどうも状況が変化しているように思われる。端的に言えば、「警察=正義の味方」という通念が崩れつつある。
例えば、人気ドラマ『相棒season22』の初回作「無敵の人」にもその兆候が見られた。そこでは「微笑みの楽園」というカルト教団が悪として登場する。それはかつて「神の国」という教団であったが、オウム真理教のような過激な反社会的テロ事件を起こして解散させられた後に再結成されたという設定だ。新たに生まれ変わったとは言え、公安はその危険性を疑い続けており、一人の捜査員を潜入させて内部調査する。しかし、いくら調査しても、危険性は見つからない。むしろ、以前の過激な宗教性は一掃され、今はただ「純粋に神の御心のままに日々を生きる」という温厚な宗教に一新されている。勿論、「微笑みの楽園」の宗教性に全く問題がないわけではないが、少なくとも反社会的な危険性はない。そこで公安は潜入捜査員によって爆弾テロや密造拳銃購入という事件を引き起こし、教団の危険性を捏造していく。ドラマはこうした公安の「陰謀」を軸に展開するが、ここに見出されるのは「インサイダーの正義の絶対性」に対する根深い不信感だ。カルト教団の危険性の捏造を支持した公安部長は「二度と反社会的なテロを起こさせないように、警察権力の積極的な行使が必要だ。社会の安全な秩序の維持、それが我々公安の責務だ。多少の犠牲は致し方ない」と嘯く。それに対して主人公の右京は「権力の暴走だ!」と声を荒げる。然り!権力は暴走し、インサイダーの正義を守ろうとすればするほど歪んでいく。この現実を糾弾するのは『相棒』というドラマに限らない。腐敗した政府の要人を守る警察権力(インサイダー)とそれを抹殺せんとするテロリスト(アウトロー)の対決。今、そのドラマを描く関心が揺らいでいる。
正義のイロニー・イロニーの正義
飢えた子供が空腹の余り思わず饅頭を盗む。盗みは悪だ。しかし、盗まなければ子供は生きていけない。子供は悪くない。生きるための悪は悪くない。そもそも生きるとは食べること、すなわち他のイキモノのイノチを奪うことであり、殺生が悪ならば、生は悪なくして維持できない。従って、生きるための悪は悪くない。しかし、「悪くない悪」とは何というイロニーか。私は昨日、アウトローの歪んだ正義を問題にして「アウトローは悪くない」と述べた。言うまでもなく、そこにもイロニーがある。私は決してアウトローという実存の在り方を容認するものではない。むしろ、ヤクザもハングレもゴキブリのように嫌悪している。それにもかかわらず、アウトローがしばしばドラマの主人公に祭り上げられるのは何故か。その「悪くない悪」に魅力があるからだ。例えば、雲霧仁左衛門という盗賊に大衆は魅了される。ただし、雲霧の「悪くない悪」は「生きるための悪」ではない。それは「生きるための悪」の次元を超えて、インサイダーの正義に挑戦する。周知のように、その雲霧の対極に位置するのが火付盗賊改方の安部式部であり、彼はインサイダーの正義の象徴と言える。こうした雲霧と安倍の対立に私はアウトローの「悪くない悪」とインサイダーの正義の対決を見る。更に言えば、この対決それ自体がイロニーを孕んでいる点にドラマの真骨頂がある。すなわち、安部式部はインサイダーの正義を死守すべき立場にありながら、その腐敗を自覚しており、ライヴァル雲霧の「悪くない悪」に半ば共感しているのだ。果たして、正義とは何か。
補足:アウトローの正義
アウトローは反社会的であっても反体制ではない。これは如何なる意味か。アウトローがインサイダーでないことは確かだ。彼は世界から疎外されている。貧困、生来の障害、出身による差別などによって、幼い頃から理不尽な不公平を余儀なくされてきた人はグレて反社会的な境遇に身を落としていく。勿論、全てがそうなるわけではない。殆どの人は不公平な現実にもかかわらず、已む無くそれを甘受して社会の底辺で地道に生きている。しかし、その現実にどうしても我慢できない人はアウトローになり、自分をそのような境遇に転落させた社会に復讐を試みる。ただし、それは体制の根源的変革には向かわない。むしろ、既存の体制を温存して、その内側で暴力によって成り上がろうとする。金持の家に生まれるなど、恵まれた境遇で育った人は幼い頃からお稽古事やら家庭教師やらで自分の才能を存分に伸ばし、才能がない場合でも親の七光りで社会の高みで幸福な生活を築いていくだろう。そうしたインサイダーと同等の幸福をアウトローは反社会的な方法で手に入れていく。体制をぶっ壊す必要はない。あくまでも不公平な体制の内側で、その不公平を逆手に取って裏社会の頂点に登り詰めることが重要なのだ。それがインサイダーへの復讐になる。尤も、金持連中から大金をふんだくるのは何でもないが、オレオレ詐欺で弱い爺さん婆さんたちからなけなしの金を奪うのは少々心が痛む。しかし、それも不公平な現実であって仕方のないことだ。不公平な社会で不公平に育ったアウトローは不公平を利用して生きていくしかない。そこにアウトローの正義がある。かなり歪んだ正義ではあるが、アウトローは悪くない。このアウトローの正義に対して、アウトサイダーは何を言えるのか。
デクノボウの一歩(10)
書けば書くほど言葉が足りず、補足の必要を強く感じるようになる。私は水平の流れに従って日和見主義的に世界の体制内に留まっているインサイダーを批判した。逆に言えば、反体制のアウトサイダーを支持している。それが私の基本的な立場だ。しかし、問題はそんなに単純ではない。私はドラマでもよく描かれる暴走族とかセンコーに反抗して校内暴力を繰り返すツッパリ連中を嫌悪する。ヤクザなどの反社会的勢力については言うに及ばず。そうした輩を好きな人は余りいないだろうが、アンチヒーローとして一定の人気を博しているのも事実だ。何故か。大衆はそこに反体制の生き方、言わば日陰者の悲哀を感じ取るからだ。確かに、お天道様の下をまともに歩けない彼らは体制側の人(インサイダー)ではない。体制の輪から落ちこぼれ、弾き出され、憤怒の念に駆られている。しかし、その憤怒は反社会的ではあっても、真の意味での反体制ではない。少なくとも私には反体制の薄っぺらなファッションにしか見えない。事なかれ主義で体制の輪の内側で安穏に息を潜めている奴等よりはマシかもしれないが、反社会的な暴力に体制を覆すだけの力はない。その意味において、反社会的なアウトローと反体制のアウトサイダーは厳密に区別されるべきだ。インサイダーから見れば両者に顕著な違いはなく、せいぜいロクデナシとデクノボウの違いにすぎないだろう。しかし、真実においては質的に全く違う。ロクデナシは単に水平の次元で不平不満を撒き散らしながら暴れているにすぎないが、デクノボウは常に垂直の次元を意識して世界の根源的変革を求めている。私は決して若者たちの「理由なき反抗」を無視つもりはないが、それがロクデナシへと水平に流されていくのを心から危惧している。野暮を承知で言えば、反抗は正当な理由を要請する。それは垂直の力に促されたデクノボウの一歩に結実するものに他ならない。
デクノボウの一歩(9)
外が内になり、内が外になる。異郷が故郷になり、故郷が異郷になる。「一」(hen kai pan)である垂直の次元が多彩な花々の共演を可能にする。もし我々が現実に生活している水平の次元しか意識しないなら、そこでは個々の花がそれぞれの美醜に一喜一憂して咲くだけだ。尤も、水平の次元にドラマが生まれないわけではない。名もなき花々の共存のドラマもあれば、美を競い合うドラマもある。ただ、共存は共生の一つだが、その幸福な初期段階に留まることは稀であり、大抵は美の競演の葛藤に移行していく。勿論、それ自体は悪ではない。しかし、或る一定の色が美を支配すると世界は歪む。そして、支配の内と外が生まれる。どうしてそのような歪みが生じるのか。本来、色に美醜はない筈だが、現実には区別が生じ、やがてそれは差別に転じる。その過程の解明は私の手に余るので、ここでは支配の現実のみに注目したい。と言うのも、人の生きづらさの殆どはその現実に起因するものと思われるからだ。
余談ながら、十月に始まって現在も進行中のドラマに「いちばんすきな花」と題する作品がある。それぞれに生きづらさを抱えた四人(男女各二名)の物語だ。テーマと台詞回しから坂元裕二氏の作品かと思ったが(どうも『カルテット』からの連想のようだ)、脚本は比較的若手の生方美久氏であった。生方氏は三十歳とのことだが、その作品に描かれている生きづらさは正に現代の若者の多くが抱えているものであろう。すなわち、自然に形成された目に見えぬ支配関係の内にいることの生きづらさだ。それは「独裁」というほどのものではない。「独裁」であれば、それは虐めとなる。四人は別に誰かに虐められているわけではない。能力は高い方だし、日常的にもそれなりに無難に働いている。少なくとも食うに困るようなギリギリの生活ではない。しかし、常に何か無理をしている感じがつきまとう。その感じは学校でも会社などの職場でも、多くの人が抱いているものではないか。始終その場の空気を読んで、自分が仲間外れにならないように細心の注意を払う。それほど好きでもないものに興味を示し、いやたとい嫌いなものであっても好きな振りをして、多くの人たちと薄っぺらな友人関係を築いていく。全ては仲間外れにならないため。それがインサイダーの心理だ。当然、その輪の中に入らぬ者はアウトサイダーと見做され、いくら能力が高くてもデクノボウの烙印を押される。おそらく、この烙印は多くの人にとって恐怖でしかないだろう。しかし、そこに垂直の力が働けば世界は一変する。自分の本当に好きなものを明言し、相手の好きなものを尊重することができる。好きなものの内と外を隔てる壁が崩壊する。皆、本当はそれを望んでいるのではないか。最新の流行に後れまいと必死に追い回すのも結構だが、それは見知らぬ誰か(AIかもしれない)がつくった輪にすぎない。その輪の中にいては何も変わらない。垂直の力はインサイダーの輪を粉砕する。その粉砕の後にこそ、本当の友人関係が生まれてくる。生きづらさを抱えた四人の男女もそうやって出会ったものと私は思いたい。
デクノボウの一歩(8)
水平的な憎悪に駆られたテロリズムは邪道だが、インサイダーの支配する世界はディコンストラクトしなければならない。その場合、ディコンストラクションの主体はあくまでもアウトサイダーであるけれども、それはアウトサイダーが今のインサイダーを否定して、新たなインサイダーになることではない。それではインサイダーのディコンストラクションにまで辿り着けない。その理路はヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」と同様だ。すなわち、主人の支配を超克するのは奴隷だが、奴隷が新たな主人になっても仕方がない。本末転倒。単に主人と奴隷の位置関係が入れ替わったにすぎず、世界は根源的には何も変わらない。我々の究極的関心は「主人と奴隷の関係性」それ自体の止揚にある。インサイダーとアウトサイダーの関係性についても然り。外が内になり、内が外になる。そして、世界は「一」になる。ただし、この「一」には如何なる支配関係もない。振り返ってみれば、これまでの革命は洋の東西を問わず全て失敗であった。プロレタリア「独裁」は過渡的なものである筈なのに、いつも「独裁」だけが繰り返される。信長、秀吉、家康の天下統「一」も所詮「独裁」の継承にすぎない。勿論、かつてのような「独裁」の現場は今や数箇所に限られている。しかし、支配関係は至る所にある。「独裁」の根絶もさることながら、より根源的には目の前の支配関係の超克こそを問題とすべきであろう。全ての支配関係がディコンストラクトされる「一」の場の実現!ガザがそのような場になれば、アラブがユダヤになり、ユダヤがアラブになる。しかし、アラブとユダヤの差異はなくならない。そんな祝祭共働態を求めるのはデクノボウだけだ。デクノボウはインサイダーの支配する世界から外へと追いやられる。否応なくアウトサイダーと化したデクノボウはインサイダーに「ツマラナイカラヤメロ」と言う。しかし、それはテロリズムのような水平的反抗になってはならない。デクノボウは常に垂直的に活動する。では、垂直的活動とは何か。