刑事ドラマにおける正義
ドラマの基本は善悪の戦いであり、人は勧善懲悪にカタルシスを得る。悪は巨大であればあるほど、それを成敗した際のカタルシスは大きくなる。時に悪が勝利したように見えるドラマもあるが、それも「悪くない悪」であり、結局はイロニーを胚胎した善の勝利に通じている。現実には悪が勝利しているとしても、だからこそドラマでは善のスカッとした勝利が求められる。殊にいつも虐げられている大衆は切に善の勝利を願う。それはもはや信仰に近い。虐げられている善人は極楽に往生し、虐げる悪人は地獄に堕ちる。悪人正機という破格のドラマは一筋縄ではいかないが、死後のドラマは総じて「善人救済=悪人断罪」の宗教として実定化される。生前のドラマも然り。時代劇では「水戸黄門」や「大岡越前」などがその典型だ。毎度同じパターンで悪の断罪という結末を迎える。現代劇では刑事ドラマにそのパターンが受け継がれている。すなわち、熱血刑事に代表される警察は正義の味方であり、常に善良なる市民を悪から守っているというパターンだ。私はそこにインサイダーの正義の絶対性を見出す。この絶対性は長く揺らぐことがなく、多くの個性的な刑事ドラマを生み出してきた。しかし、最近はどうも状況が変化しているように思われる。端的に言えば、「警察=正義の味方」という通念が崩れつつある。
例えば、人気ドラマ『相棒season22』の初回作「無敵の人」にもその兆候が見られた。そこでは「微笑みの楽園」というカルト教団が悪として登場する。それはかつて「神の国」という教団であったが、オウム真理教のような過激な反社会的テロ事件を起こして解散させられた後に再結成されたという設定だ。新たに生まれ変わったとは言え、公安はその危険性を疑い続けており、一人の捜査員を潜入させて内部調査する。しかし、いくら調査しても、危険性は見つからない。むしろ、以前の過激な宗教性は一掃され、今はただ「純粋に神の御心のままに日々を生きる」という温厚な宗教に一新されている。勿論、「微笑みの楽園」の宗教性に全く問題がないわけではないが、少なくとも反社会的な危険性はない。そこで公安は潜入捜査員によって爆弾テロや密造拳銃購入という事件を引き起こし、教団の危険性を捏造していく。ドラマはこうした公安の「陰謀」を軸に展開するが、ここに見出されるのは「インサイダーの正義の絶対性」に対する根深い不信感だ。カルト教団の危険性の捏造を支持した公安部長は「二度と反社会的なテロを起こさせないように、警察権力の積極的な行使が必要だ。社会の安全な秩序の維持、それが我々公安の責務だ。多少の犠牲は致し方ない」と嘯く。それに対して主人公の右京は「権力の暴走だ!」と声を荒げる。然り!権力は暴走し、インサイダーの正義を守ろうとすればするほど歪んでいく。この現実を糾弾するのは『相棒』というドラマに限らない。腐敗した政府の要人を守る警察権力(インサイダー)とそれを抹殺せんとするテロリスト(アウトロー)の対決。今、そのドラマを描く関心が揺らいでいる。