「問題なし」という問題(2)
所詮アウトサイダーの問題はインサイダーに相手にされない。そもそも理解しようという関心がない。「生活の必要」に勝る問題などないというのがインサイダーの常識だからだ。全ての人が食うに困らぬパラダイスの実現――インサイダーの問題はそれに極まる。ちなみに先日のNHKスペシャルでも日本の食糧危機が問題にされていたが、農業の立て直し、特にコメ農家の復興が喫緊の課題であろう。これに若者の失業や引きこもりの問題が連動すれば、水平的に「問題なし」の社会も夢ではない。ただし、農本主義的な理想社会はパラダイスと言うよりもアルカディアの再興と言うべきだが、アルカディアとパラダイスの往還が所謂「社会の六次産業化」を実現すると考えることもできる。実際、農の営みを中心とする自然に即した生活に憧れる人は決して少なくないが、問題はそれでは経済的に成り立たないことにある。端的に言えば、農業では食っていけないのだ。そこで環境的にも経済的にも持続可能な「食っていける農業」が摸索されるわけで、そこにパラダイスとの接点が生まれる。確かに論理的にはそうなるが、その接点は大きな矛盾を孕んでいる。と言うのも、アルカディアとパラダイスは正に水と油、すなわち前者はお金では買えない幸福を、後者はお金で買える幸福をそれぞれ核としているからだ。率直に言って、気儘な田舎暮らしを満喫しているのは投資で大儲けしたFIREか潤沢な年金生活者だけだ。これは単にアルカディアをお金で買ったパラダイスにすぎない。そんなものがアルカディアとパラダイスの接点である道理がない。しかし、パラダイスの無節操で貪欲な追求が荒廃した現状を招いたとすれば、農本的なアルカディアに窮状打開の可能性を見出すのは当然だろう。私とて水平的に「問題なし」の社会実現を無視するわけではない。貧富の格差は多少あるにせよ、全ての人が曲がりなりにも食うに困ることなく、それぞれの身の丈に合った娯楽を享受できる幸福。そうした「問題なし」の平穏無事な日々をインサイダーは皆望んでいるに違いない。しかし、「問題なし」を求めるのは問題ではないか。鄙見によれば、水平的に「問題なし」を求めれば求めるほど「生活の必要」以上の何かが涸渇していく。果たしてこれは現実を知らぬ、あるいは意図的に現実逃避する高等遊民の戯言であろうか。
「問題なし」という問題
「問題なし」とは通常「合格」を意味する。自動車を点検に出して整備士に「問題なし」と言われたら、それは故障がなくて「車検合格」ということだ。人も同じだろうか。確かに、健康診断に行って医者から「問題なし」と言われたら、それは健康であることの証明になる。しかし、その証明は「人間合格」を意味するだろうか。もし健康な人が「人間失格」であるなら、それは何かの故障(病)が見逃されたにすぎないのか。そうかもしれないが、或る作家は「不治の病の名は健康」と述べている。おそらく、健康な人はこの言葉に狂気しか見ないだろう。健康に幸あれ!健全な精神と健全な肉体が調和して人は健康になる。それ以上の幸福があろうか。「健康の論理」は苦悩や思想的煩悶や悲哀が人間を殺すことを認めない。人間を殺すことができるのは、ただ健康の欠如だけだ。ならば、健康が失われるまで人生を思う存分楽しめばいい。世界は健康な人のためにある。健康な人が世界のインサイダーだ。ところが、ここにそうした世界の秩序に反抗する人間が現れる。アウトサイダーだ。この人間は世界の癌細胞であろうか 。「問題なし」の健康を問題にする病。私の究極的関心はそこに収斂していく。
補足:Sator Resartus
日本人が自然に身に着けてきたものが和服となり、それが日本の伝統を形成する。勿論、一口に和服と言ってもピンからキリまである。百姓の身に着ける野良着も和服だし、公家の衣冠束帯も和服だ。それが明治維新の文明開化を機に、次第に日本人も洋服を着るようになる。軍隊はもとより、天皇まで洋装するようになる。それでも小津安二郎などの古い映画に垣間見られる庶民の日常生活においては、職場では洋服でも、仕事を終えて帰宅すれば和服に着替えるのが普通であった。母親の和服姿は言うに及ばす。つまり、家の外では洋服が主流になっても、家の内では未だ和服の伝統が生きていた。しかし、サザエさん一家に即して言えば、波平と舟の世代には未だ和服の伝統は息づいていたが、サザエさんの世代からは冠婚葬祭以外ではほぼ消滅したと言えるのではないか。率直に言って、私はこの現状を苦々しく思っている。私はナショナリストなのだろうか。しかし、和服の伝統を尊重したいと思いながら、私は最近和服を着たことがない。せいぜい旅館に宿泊した際に浴衣にどてら(丹前)を羽織る程度だ。どうしてなのか。つらつら考えてみるに、やはり洋服の方が機能性(動きやすさ)に優れているからであろう。加えて、和服は総じて高価なものとなり、機能性よりも芸術性が重視されるようになったと考えられる。つまり、和服の伝統は機能性が重視される日常生活からはほぼ駆逐されたけれども、冠婚葬祭などの非日常的な次元に活路を見出している、ということだ。果たして、これは和服の伝統にとって幸いなことなのかどうか。余談ながら、安吾は大略「桂離宮がなくなっても生活に困らないが、電車がなくなったら大いに困る」と言い、「生活の必要」を主張した。確かに、桂離宮に「生活の必要」はないかもしれない。さりとて桂離宮など破壊しても構わないということではない。桂離宮には「生活の必要」とは質的に異なる人間の必要があるだろう。しかし、その必要性についての思耕は他日を期すことにして、ここでは「和服の伝統も桂離宮のような伝統文化(芸術)の高みにまで祭り上げてしまっていいのか」ということを問題にしたい。言い換えれば、和服の伝統から「生活の必要」が本当に失われてもいいのか、という問題だ。振り返ってみれば、文明開化以来、機能性重視の「生活の必要」において日本文化はことごとく西洋文化に敗れてきた。そこで和魂洋才という苦肉の策が編み出されたが、これは案外素晴らしい策ではないか。和服が機能性において洋服に劣るなら、洋服の才を受け容れればいい。それに和服にも作務衣のような伝統もある。すでに洋食が和食の一部になっているように、和服も洋服の美点を消化して自らの血肉としていくべきだ。将来、多くの人が機能性に優れた和服を日常的に着こなし、職場にも和服で出勤するのが珍しくなくなることを私は望む。それは和服の伝統に正統が甦ることでもある。
アウトサイダーの求める正義(10)
稚拙で杜撰な思耕の連続で忸怩たる思いだが、私には一つの確信がある。「人が人間として本当に正しく生きようとすると、否応なくアウトサイダーにならざるを得ない」という確信だ。その確信を更に深めるために、私は人間と伝統との関係を問題にしたいと思った。この場合の伝統には慣習とか掟とか仕来りも含まれるが、人間として生きる正義は往々にしてそうした広い意味での伝統に反抗することになる。何故か。伝統はいつしか経年劣化し、人間の生を抑圧するものと化すからだ。とは言え、私は伝統そのものが悪だとは考えていない。伝統はそもそも人が快く生活する過程で形成されたものだ。従って、殆どの人は伝統を尊重することで平穏無事に暮らしていくことができる。そうした体制順応の生活にインサイダーの幸福があるのも間違いない。しかし、伝統は絶対的なものではない。やがて古くなり、それにしがみつこうとするインサイダーの幸福を腐敗させる。そこで古き伝統に反抗するアウトサイダーが登場し、新しき伝統を生み出していく…というのが私の基本的なシナリオだが、どうも上手く展開しない。その理由は幾つか想定されるが、おそらく「何が伝統を古くするか」という問いが鍵になるだろう。私はそれを正統との関係で考えた。すなわち、伝統に正統が胚胎している間は古くならないが、それがなくなると腐敗し始める、という具合に。私はその過程を和服から洋服への伝統の推移で描こうとしたが失敗した。日本人が日常的に(冠婚葬祭以外で)和服を着ることが殆どなくなった現実において、和服の伝統の衰退には違いないとしても、それは和服を着る正統とは厳密に区別しなければならない。今は洋服を日常的に着ることに正統が移行しているが、将来再び和服に正統が宿るかもしれない。重要なことはあくまでも不可視の正統だ。インサイダーは伝統に流されやすいが、アウトサイダーは伝統よりも正統の見えない力に反応する。伝統は腐敗するが、正統はしない。しかし、圧倒的多数は依然として伝統を尊重しようとするインサイドにおいて、見えない正統の力だけで対抗するしかないアウトサイダーの戦いは苦しい。かつて国会議事堂前や新宿の路上で、あるいは天安門や中環の路上で戦った若者たちは今どうしているだろうか。老いてなおアウトサイダーとして戦っているだろうか。アウトサイダーの求める正義の生き延びる道を教えよ。
アウトサイダーの求める正義(9)
「数の論理」というものはある。無視できない。私が通った市内の公立中学校では、当時、男子は丸刈りが義務とされた。小学生だった私はそのことにかなり悩んだ記憶がある。市内には他に二つの中学校があったが、丸刈りは私の中学校だけであった。その理不尽さにも苦しんだ。しかし、当時の私は野球少年だったので、野球部に入るからには丸刈りは当然(最近は「野球部員=丸刈り」ではなくなりつつあるが)だという思いもあった。だから、私は丸刈りを運命として受け容れた。少なくとも、その運命に逆らうだけの理由はなかった。ところが、今では母校の丸刈り義務は廃止されている。何時どういう経緯で廃止されたのか分からぬが、おそらく丸刈りはもはや時代に即さないと判断されたのであろう。これは何を意味するか。私の母校における丸刈りの伝統が失われたということに他ならない。では、何故失われたのか。生徒も教師も父兄も、丸刈りの伝統はもはや必要ないと判断したからだ。鄙見によれば、丸刈りが母校の伝統であり得たのは、そこに正統が胚胎していると信じられていたからだ。従って、その確信がなくなれば、それが伝統でなくなるのは当然だと言える。しかし、どうして皆の確信がなくなったのか。そもそも丸刈りを伝統にしていた正統とは何か。一般的に言えば、髪は俗世の象徴であり、丸刈りにすることで世俗的な誘惑に煩わされることなく学業に集中することが求められたのであろう。すなわち、丸刈りに込められた正統は仏教の修行道に準ずるものだったと思われる。それが崩れた。崩したのは「数の論理」だ。私の時代には、私自身も含めて、丸刈りの伝統に反抗しようという思いはなかった。別に学校権力に対して卑屈であったわけではない。単に寺子屋の正統に裏づけられた学校の伝統に殆ど疑念を懐かなかっただけのことだ。それが今では疑念を懐く人が大半を占めるようになったにすぎない。かくして丸刈りの伝統は私の母校から失われたが、ここで注意すべきことは伝統の恣意性だ。丸刈りにせよ何にせよ、或ることが伝統になるかどうかはそこに正統を意識する人の「数の論理」による。しかし、正統は「数の論理」に全く左右されない。と言うより、正統それ自体は決して消滅しない。正統の胚胎がなくなって伝統が消滅することはあっても、正統それ自体の消滅はない。従って、幸か不幸か私の時代にはいなかったが、もし丸刈りの伝統に反抗して髪を伸ばすアウトサイダーがいたら、その正義は「数の論理」を超越する。勿論、「数の論理」は伝統に反する行為を許さないだろう。しかし、髪を伸ばす自由に正統が胚胎するならば、アウトサイダーは勝つ。たとい「数の論理」で敗北しても、正義において勝利する。正統は如何なる場合でも伝統を凌駕するからだ。
アウトサイダーの求める正義(8)
「或る日突然、成瀬静人は和服を着て自分の会社に出勤した。上司も同僚も部下も、皆驚いた。しかし、一番驚いたのは成瀬自身であった。彼はグレゴール・ザムザの絶望に陥った。」(表六玉快晴「変態」)
この三流小説では、自分の意志に反して和服で出社することを余儀なくされた男の悲喜劇が描かれている。しかし、その描写は余りにも拙劣で男の苦悩が微塵も伝わってこない。「私は日本人です。日本人の私が和服で出勤して、何がいけないのでしょうか」と成瀬は自分の内部に棲む何かに言わされてしまう。作者としてはコメディのつもりだろうが、全く笑えない駄作としか言いようがない。それに和服での出社を就業規則で禁じている会社はなく、事実、和服で勤務しているサラリーマンは皆無ではない。和服を着ること自体は不条理でも何でもないのだ。とは言え、クールビズで浴衣を着るというレヴェルを超えて、本格的な和装で勤務する人はやはり職場ではアウトサイダーと見做されるだろう。成瀬も例外ではない。結局、会社としても成瀬の和服での出社を認めるしかなく、成瀬は周囲から白眼視されながら和服で出勤し続けることになる。しかし、よくよく考えてみれば、成瀬(の内部の何か)が言うように和服は日本人の伝統だ。それなのに何故、和服を着て出社するとアウトサイダーと見做されるのか。時代が変わった、ということか。確かに、江戸時代にアウトサイダーになるのは洋服を着ている人の方だ。しかし、それは単に当時は洋服が珍しかっただけのことではないか。とすれば、問題はやはり数の論理なのか。現代の職場では洋装が圧倒的多数だ。その現状において敢えて和装すれば変人と見做されても仕方がない。ただし、これは現代では「洋装が正統で、和装が異端になった」ということではないだろう。あくまでも常識の問題だ。周囲とは異なる服装、例えば洋装でも燕尾服で出勤すれば明らかに変人だ。では一体、服装における正統とは何か。「日本人なら和服を着るべきです。伝統に反してはいけません」という思いに成瀬は支配されているが、そこに正統はない。和服を着ることが日本の伝統だとしても、それに縛られる必要はない。正統が和服を着る伝統を日本に生み出したのであって、伝統が正統になるのではないからだ。成瀬の身に生じた悲喜劇は不条理ではあるけれども、アウトサイダーの正義に通じるものではない。
アウトサイダーの求める正義(7)
『コッホ先生と僕らの革命』(原題:Der ganz große Traum大いなる夢)という2011年に公開されたドイツ映画を観た。ドイツに初めてサッカーを導入したコンラート・コッホという実在の人物がモデルだが、物語はかなり脚色されているようだ。ここではあくまでも映画として描かれたフィクションに込められた問題について思耕したい。時はドイツ第二帝政期。イギリス留学を終えてドイツに帰国したコッホは母校のギムナジウムに英語教師として赴任する。しかし学校では教師が絶対的存在であり、それに服従するのが生徒の義務とされるなど、かなり権威主義的な雰囲気に満ちている。階級差別もあり、生徒たちは規律と秩序に雁字搦めになっている。そうした旧態依然の重苦しい学校の雰囲気を一新するために校長はコッホという新人を招聘したという背景もある。実際、コッホはサッカーを通じて英語を教え、併せてそのフェアプレイの精神を生徒たちに浸透させていく。すなわち、ここに見出されるのは「ドイツの古臭い抑圧的な教育」対「イギリスの新しい自由な教育」という対立軸であり、それが物語の基本構図になっている。当然、コッホ以外の教師や後援会と称する有力者の父兄たちはドイツの伝統に忠実であり、コッホを何かと目の敵にする。結果、コッホは否応なくアウトサイダーであることを余儀なくされていく。尤も、実際のコッホはナショナリストで必ずしもイギリス贔屓ではなかったようだが、意図的にドイツの権威主義に対するイギリスの自由主義という対立軸を際立たせた制作者の問題意識に注目したい。果たして、このドイツ映画は自国の伝統に対する挑戦であろうか。私は少し違うと思う。厳密に言えば、「権威主義はドイツの伝統、自由主義はイギリスの伝統」とさえ明言することはできない。イギリスにだって権威主義はあるし、ドイツにだって自由主義はある。更に言えば、権威主義は必ずしも悪ではなく、自由主義も絶対的な善ではない。ただ、この時代のドイツのこの学校での権威主義は腐敗した伝統と化しており、コッホとその生徒たちはそれに反抗したにすぎない。その反抗において彼らは異端と見做されるが、それが新たな伝統となり、そこにドイツの正統が宿ると私は理解する。腐敗した伝統に束縛されるのではなく、新たな伝統を生み出していくこと、そこに「僕らの革命」があり、それがアウトサイダーの正義にも繋がっていく。
アウトサイダーの求める正義(6)
「正統にとって伝統も決定的要因ではない」とは如何なる意味か。更に思耕を深めたい。例えば、或る国は長く王様によって治められてきたとする。その場合、その国にとっては王制が伝統となる。では、その伝統を守り続けることが正統であろうか。私は違うと思う。伝統を闇雲に守り続けることは伝統を腐敗させ、延いては王制を堕落させる。もはやそこに正統はない。王様の血統(万世一系)における正統はあるが、そんなものは真の正統ではない。むしろ、逆説的に言えば、堕落した王制を倒して民主制へと変革することは異端と見做されるだろうが、その異端にこそ正統があるのではないか。ただし、民主制が伝統になれば、その伝統もやがて腐敗して、民主制も堕落する運命にある。同様のことは、キリスト教の歴史にも見出せる。キリスト教の正統はローマ教会のみにあるのではない。正教会にもある。また、ルターという男はカトリックの腐敗した伝統に反抗し、カトリック本来の正統をプロテスタントとして復活させた。しかし、そのプロテスタント正統主義もやがて腐敗した伝統と化し、正統を喪失していく運命を辿ることになる。正統は伝統となり、やがて腐敗していく。その意味において、伝統は正統の実定化だと理解することもできる。私は決して伝統を否定するつもりはないが、伝統の奥底から正統を読み取ることが肝要だと思う。その国の伝統は民俗学などの作業によって明らかにされるが、正統はそれに束縛されない。伝統は古くなり、そして新たな伝統が生まれる。伝統は言わば正統の痕跡に他ならない。
アウトサイダーの求める正義(5)
正統と異端。一般的にアウトサイダーは異端と見做される。論理的にはそうなる。しかし、数の論理で圧倒するインサイダーに正統はあるのだろうか。そもそも正統とは何か。血統における正統なら客観的に確定(DNA鑑定)できるが、私にはそんなもの(万世一系)は意味がない。例えば、たとい創業者の血を引く直系の後継者だとしても、その人が創業理念において正統かどうかは血統によっては判断できない。では、何によって判断されるのか。一つの可能性は創業者の経営理念が記された文書の解釈にある。勿論、百年も二百年も前の理念がそのまま現代に通用する道理はなく、正統の解釈は一筋縄ではいかない。ちなみに先日観たドラマに、手作りの和菓子にこだわってきた老舗が機械を導入して経営規模の拡大を図るべきか否かに悩む場面があった。手作りから機械生産への移行は明らかに伝統に反するが、旧態依然の経営を続けることが必ずしも正統とは限らない。むしろ、現代においては安価で美味しい和菓子を多くの人たちに楽しんでもらうことが正統の場合もある。正統にとって重要なのは数 の論理(多数決)でもなければ血統でもない。更に(誤解を恐れずに)言えば、伝統も決定的要因ではない。あくまでも熟議もしくは闘議が最終的に正統を決める、と私は考えている。
アウトサイダーの求める正義(4)
異物の消化。これも自然の理だ。人は異物を摂取し、消化し、自らの血肉としていく。「食べる」とは、自分でないものを自分のものにしていく活動だと言えるだろう。また、性愛がその典型だが、人は他者と関係することで「未だないもの」を生み出していく。私のものとあなたのものが結合して新しきものが生まれる。他者(私でないもの)の排除が人の個別性を形成するとすれば、他者との関係が人間の共働性(複数性)を育んでいく。前者において他者は地獄(憎悪の対象)でしかないが、後者において他者は愛となる。端的に、愛が人を人間にすると言ってもいい。当然、人と人間では求める正義も質的に異なってくる。人の正義が人間には悪(エゴイズム)にしか見えず、人間の正義が人には偽善(キレイゴト)としか映らない。そのズレは至る所で軋轢を生み出す。難民の受け容れについても然り。人の次元において難民という他者は異物として排除されるべきものでしかないが、人間の次元では愛すべき他者として共に生きていく可能性が求められる。このように図式的に述べると「我々は人間の正義に徹すべきだ」という結論しかないように思われるが、現実はそんなに単純ではない。人と人間の次元は「私」において複雑に絡まっており、どちらか一方の正義に徹することなどできないだろう。ただ、我々が現実に生活しているこの世界は、実定法もそれに基づく政治も経済も、ほぼ人の正義によって構成されている。従って、その現実世界で人間の正義を貫こうとする者は否応なくアウトサイダーにならざるを得ない。アウトサイダーは人と人間の二つの正義に引き裂かれている。「人間は無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との総合だ」とはアンチ・クリマクスの言葉だが、アウトサイダーは人間に至る数歩手前を生きている。