新・ユートピア数歩手前からの便り -41ページ目

原点とキレイゴト

台湾の総統選挙が一か月後に迫り、それに関する報道が増えてきた。その中に少し気になるリポートがあった。前回の総統選では若者たちの圧倒的多数は台湾人としての誇りを重視し、その問題意識から台湾の独立を求める民進党を支持したが、それが今回は異なる様相を呈しているとのことだ。すなわち、日々の生活が経済的に豊かになることが優先され、そのためには中国との関係修復をすべきだと考える若者が増えているという変化だ。詳しいことはわからないが、もしこの変化が理想よりも現実を争点とするものであるならば、私は更なる思耕を余儀なくされる。現実を無視せよ、と言うのではない。例えば、ドラマでよく描かれる問題に「正義を貫くための葛藤」がある。自分の勤める役所や会社の不正に直面する。それを内部告発すべきか否か。不正に協力すれば昇進が約束される。給料も上がり、家庭は幸福になる。逆に不正を告発すれば職場を失うかもしれない。収入がなくなり、家庭は不幸になる。それでも敢えて不正を内部告発すべきか。いや、不正でなくても葛藤はある。先日言及した教科書問題でも、理想的な教科書をつくっても検定に合格しなければ商売にならない。商売をするためには御上の意向に沿った現実的な教科書づくりを忖度する必要がある。こうしたことは日常茶飯事ではないか。それでいいのか。結局、問題を単純化すれば、人生において垂直性と水平性のどちらを重視するか、ということになる。勿論、この便りは正義を貫くために水平的幸福を度外視する垂直的人間に宛てられている。しかし、踏絵を拒絶したり、不正を告発できる垂直的人間は所詮キレイゴトでしかないのではないか。少なくとも、今の私は水平的幸福に走る人を止めることができない。妖怪退治も夢のまた夢。

妖怪退治

「妖怪の孫」という映画(2023年公開。監督:内山雄人)を観た。ホラー映画ではない。岸信介という妖怪の孫・安倍晋三がしてきたことを描いたドキュメンタリイだ。しかし、下手なホラー映画よりも恐ろしいドキュメンタリイだった。私は少し反省した。これまで拙い便りで述べてきたことを撤回するつもりは全くないけれども、この国に徘徊する妖怪退治にもっと真剣に取り組むべきだ。そう痛感した。それは根源的かつ究極的には「問題なし」を理想とするインサイダー批判に収斂していくだろう。実際、妖怪退治の本質は岸や安倍といった妖怪の悪行を暴くことよりも、そうした妖怪を支持し続ける「インサイダーの正義」にあると私は考えている。岸や安倍はもうこの世にはいないが、妖怪の徘徊は依然として続いているからだ。では、「インサイダーの正義」とは何か。映画の最後で、モノ言わぬ(言えぬ)日本のマスコミの為体が批判されていたが、そうした無言の忖度を生み出すものこそ「インサイダーの正義」だ。「家庭の幸福は諸悪の本」という有名な言葉も「インサイダーの正義」を批判するものとして理解することができる。しかし、妖怪の魔力は侮れない。言うまでもなく、「インサイダーの正義」を批判し得るのはアウトサイダーしかいないが、果たして妖怪退治は実現できるのか。具体的に何をすればいいのか。

「問題なし」という問題(10)

若き井上陽水は、都会で自殺する若者が増えていることよりも雨が降っている今日のデートに出掛けるに当たって「傘がない」ことの方が問題だと歌った。この強烈なイロニーは昭和元禄と称された当時の天下泰平ムードに突き刺さった。野暮を承知で言えば、人の問題には二種類ある。私的領域における問題と公的領域における問題だ。通常、人はどちらかに重きを置いて生きる。大抵は「傘がない」ことを問題にする青年のように生きる。それは当時のヒット曲「世界は二人のために」が証明している。これに対する人生観はケネディの大統領就任演説に見出されるし、日本の有力な政治家もまた「世界のために二人はある」ことを強調した。どちらでも構わないが、公的問題は私的問題の解決のためにある、すなわち人の私的領域における幸福実現が公的問題の目的だというのが今では大方の人生観となっている。極端な話、公的領域における「問題なし」が人々の幸福な人生の前提条件だと言ってもいいだろう。人は皆、それぞれに問題を抱えて生きている。「問題あり」の人生を生きている。それもこれも幸福になるためだ。そのことを疑う人は殆どいない。「公的問題は私的問題の解決のためだけにある」という人生観。しかし何の因果か、私はこの人生観に反抗したいと思った。とは言え、その反抗は私的問題重視をエゴイズムの人生観として単に斬り捨てるだけのものではない。滅私奉公は如何なる意味においても私の本意ではあり得ない。確かに私的問題だけを重視するエゴイズムは斬るが、返す刀で私的領域を公的領域に従属させる人生観も斬る。あれでもない、これでもない。さりとて「あれも、これも」は無節操だ。とすれば、やはり私的領域と公的領域の「あれか、これか」を決断する人生観しか残されていないのではないか。水平の次元ではそうだろう。しかし、垂直の次元を意識すると、世界は一変する。水平の次元では質的に異なるものとして分離された私的領域と公的領域が一つになる。同質になるのではない。異質のまま一つになる。多くの人にとっては詭弁でしかないだろうが、私はcoincidentia oppositorumのリアリティを本気で信じている。そして、自らの非力にも拘わらず、その途方もない理想を何とかして実現したいと思っている。いつも大風呂敷を広げるばかりで何一つ現実的な一歩を踏み出せないでいるが、原点からやり直したい。それは公的問題を「問題なし」にすることで私的問題の解決を図ろうとする道をディコンストラクトする原点だ。願わくはこの原点を語りて「身捨つるほどの祖国」を求める人も「祖国は家庭の幸福の前提でしかない」と思う人も戦慄せしめよ。

「問題なし」という問題(9)

レマルクの「西部戦線異状なし」(原題: Im Westen nichts Neues)の「異状なし」もまた醜悪なる「問題なし」の一つであろう。同様にかつての大本営発表も連戦連勝という意味での「問題なし」を報じ続けたわけだが、今となっては醜悪を通り越して痴呆としか思えない。そんなにも「問題なし」が大事なのか。しかし厳密に言えば、「問題なし」が醜悪なのは偏にその欺瞞性に原因があると考えられる。すなわち、本当は「問題あり」なのに無理をして「問題なし」と偽っていることが醜悪なのだ。実際、殆どの人は未だ「問題なし」に問題を見ようとしない。と言うより、「問題なし」が悪だとは全く思っていない。「問題なし」は依然として日常の理想であり続けている。猫も杓子も「問題なし」。僭越ながら、私はその理想を問題にしたい。「問題なし」には太宰治が耳にしたというニヒリズムの音がするからだ。トカトントンがその音だ。通常、それは復興を象徴する希望の音だと思われている。しかし、私には絶望の音にしか聞こえない。いや、「問題なし」は一般的にはやはり善だろう。善なのに、あるいは善だからこそ、絶望の音がする。何故か。その理由を明らかにすることを通じて、「問題なし」の楽園・パラダイスの限界を打破したい。所詮、それは殆ど誰にも理解されぬ「必敗の戦い」でしかないけれども。

「問題なし」という問題(8)

「問題なし」は醜悪な顔をしている。厚顔無恥、と言ってもいい。私は先日、「教育と愛国」と題する所謂「教科書問題」を取り上げたドキュメンタリイ(2022年公開、斉加尚代監督)を観た。唐突ながら、私は愛国者だ。日本を愛しているし、日本人であることを誇りに思いたい。先の大戦も決して日本の東南アジアに対する侵略戦争などではなく、むしろ帝国主義に狂う欧米列強からアジアを解放する聖戦としての大東亜戦争であったと信じたい。同様に、大東亜共栄圏も「アジアは一つ」という理想を実現するものだし、満州国も五族協和に基づく王道楽土の理想郷であったと信じたい。更に言えば、そのように崇高な理想を懐く日本の兵隊が南京大虐殺のような残虐非道なことをする筈がないし、慰安婦を強制的に従軍させるような破廉恥なことをする道理がないと信じたい。しかし、それとは正反対の「真実」を私は教育されてきた。悪逆無道の国・日本および日本人という「真実」。ドキュメンタリイでは、その「真実」を自虐史観もしくは左翼史観による歴史の歪曲だとして、愛国教育を推進する政府主導の圧力が描かれていた。先述したように、私は愛国者だから、中国や韓国の反日分子の圧力のままに日本を貶める風潮にはかねてより苦々しい思いをしてきた。従って、私は「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本会議」の運動には諸手を挙げて賛同してもおかしくはない。むしろ、論理的にはそうするべきだろう。ところが、現実にはそうならない。逆だ。愛国を語る安倍元首相を始めとする要人の言葉が不快で仕様がなかった。殊に自虐史観や左翼史観を非難する東大名誉教授のエライ歴史学者の「歴史に学ぶ必要はない」という言葉には怒りさえ覚えた。この人たちはどうしてかくも自信満々に語ることができるのだろう。これまで散々悪く言われてきた日本の過去を美化されて喜ぶべきなのに少しも嬉しくない。愛国を熱く語っているのに全く愛国者に思えない。何故か。愛する日本を「問題なし」にしようとしているからだ。「問題なし」ほど醜悪なものはない。そして、「問題なし」の日本への愛を強要する政府の愛国は致命的に間違っている。

「問題なし」という問題(7)

システムは「問題なし」が当然のこととされる。現実には銀行のATMや株式市場で時々システム障害が起きるが、これは本来あってはならないことだ。しかし、どんなに細心の注意を払っても、システムに不具合は生じる。「問題なし」の世界を維持することは至難の業だ。ところで、一度システムに障害が生じると、それをコントロールしているセンターに非難が集中する。これも当然のことだと思っていたが、果たしてそうか。私は先日、謎の天才「サトシ・ナカモト」のブロックチェーン並びにビットコインに関するドキュメンタリイを観た。ボンクラの私には殆ど理解できなかったが、それが従来の中央集権的なシステムに反抗する革命的発想であることだけは何とか読み取れた。すなわち、銀行とか通貨を発行する政府といった中央に君臨する管理者を持たぬ分散型のシステムだ。「これはすごい!」と瞠目したが、このシステムは「問題なし」だろうか。そんなわけがない。中央集権型であろうと分散型であろうと、それぞれのシステムには何らかの問題がある。ただし、問題の質は根源的に異なっている。もとより詳しいことは私には理解できないが、問題の核心は個の生き方にあるのではないか。すなわち、中央集権型のシステムであれば、それを利用する個人はシステムそのものに関心を持つ必要は全くない。良く言えば中央管理者を信頼して、悪く言えば中央管理者に隷属して、ただシステムに乗っかっていればいい。それに対して非中央集権型のシステムにそうした依存関係はあり得ない。尤も、果たしてそれが良いことなのかどうか、議論の余地はある。おそらく、利便性からすれば、中央集権型のシステムの方が優れているだろう。個人の生き方としても気楽でいい。これはマニュアルとかレシピについても言えることだが、一部の優秀な人が最良のマニュアルやレシピをつくりさえすれば、他の人はその手順に従って同様の結果に辿り着ける。確かに、システムとは本来そういうものだと考えることもできる。個人の生き方とは全く関係なく「問題なし」に作動するシステム。これまで私は個人が主体的に生きようとすればシステムに反抗し、システムの外に出るしかないと思ってきた。しかし、「個人の主体的な生き方と調和するシステム」などというものがあるのだろうか。非中央集権的分散型のブロックチェーンにその可能性はあるのだろうか。「問題なし」が当然のシステムと「問題と主体的に取り組む」個人の生き方の相克。今の私には荷が重すぎるが、それを問題にしたい。

「問題なし」という問題(6)

世の中には二種類の人がいる。「問題を起こす」人と「問題を無くす」人だ。前者はトラブルメーカー、更に過激化すればテロリストになる。後者はその問題処理に奔走する警察官といったところか。あるいは、放火犯と消防士の関係にも準えることができる。どうして人は街に火を放つのか。「こんな街などなくなってしまえ!」と思うからだ。「こんな街」とは何か。自分を疎外する秩序で成り立っている街だ。「全て燃え尽きてしまえ!」この腐った街の既存の秩序の下でのうのうと暮らしている善良なる市民も同罪だ。テロリストは「問題なし」の世界に耐えられない。世界が「問題なし」のまま存続していくことに耐えられない。だから、敢えて「問題を起こす」人になる。「9.11」もそうだし、ハマスだって似たようなものだ。我々はこうしたテロリストを糾弾すべきか。厳しく断罪し、「問題を起こす」人のこの世からの殲滅を望むべきか。

「問題なし」という問題(5)

問題の整理。水平の次元では「問題なし」が理想とされる。自動車整備士は車の問題(故障)を見つけて「問題なし」にする。故障の修理が自動車整備士の任務だ。医師は人の問題(病)を見つけて「問題なし」にする。病の完治が医師の任務だ。人間機械論に即して言えば、修理と完治に違いはない。ただ、車の場合は故障が甚大であれば新車に買替という選択もあるが、人には「廃車から新車へ」というようなことはあり得ない。全治か寛解を目指し、それも叶わなければ諦めるしかない。しかし、極力「問題なし」が求められることに違いはない。そうした水平的問題の解決を私は決して無意味だとは思わない。むしろ、極めて重要な社会運動だと思っている。殊に病んでいる地球の完治は全人類の任務であろう。戦争などしている場合ではないが、戦争やその原因と目される民族格差や経済格差も含めて、私は自分たちが日常的に生活する次元が「問題なし」になることを願って已まない。しかし同時に、人間にとっての「本当の問題」は正に「問題なし」から始まるとも思っている。その始まりをどう表現すべきか途方に暮れるばかりだが、もう少し粘ってみたい。

「問題なし」という問題(4)

問題児、すなわち「問題のある」子は敬遠される。通常、厄介者と見做されて、「問題のない」子に矯正される。それが教育なのか。偉そうなことは言えない。言える道理もない。私にもかつて教師であった時代があるが、問題児の抱えている問題を本当に理解してはいなかった。問題の解決は問題をなくすことではない。そのことに気づかず、私もまた「問題のある」子を「問題のない」子にしようとした。致命的な間違いだ。「重要なことは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ」とはカミュの言葉だが、私も次のように言いたい。重要なことは問題をなくすことではなく、問題と共に生きることだ。「問題なし」は人の水平的理想ではあるが、人間の究極的理想にはなり得ない。おそらく、水平的問題は数学の言葉で書かれており、環境破壊やそれに伴う食糧危機、更には経済格差も、全て数学的に正解が導き出せるだろう。しかし、その正解が現実に機能するかどうかは別問題だ。宇宙(自然世界)という書物は数学の言葉で書かれているかもしれないが、人生という書物はそれに尽きるものではない。「問題なし」は人生の理想ではなく、むしろ死の始まりではないか。

「問題なし」という問題(3)

来る日も来る日も陰湿な虐めに苦しんできた子が、或る日、校舎の屋上から飛び降りる。学校は「虐めなどありません。我が校に全く問題はありません」と繰り返す。教師も同級生も「学校に問題なし」と口裏を合わせる。陳腐なドラマでは、虐めていたグループのリーダーが有力者の子で…というのが毎度のパターンだ。「学校に問題なし」なら、どうして事件は起こったのか。やはり問題があったのだ。どうして皆「問題なし」を求めるのか。「問題なし」が理想とされるのか。「問題なし」の同調圧力。そもそも問題とは何だろう。或る人には問題であっても、別の人にはそうではない。余談ながら、理数系に弱い私には数学の問題がわからない。頭が悪いせいだが、端から関心がないのだ。フェルマーの最終定理などをお笑い芸人が解説する「笑わない数学」という番組があるが、どうして数学の天才たちがこんな問題に血道を上げるのか、さっぱり理解できない。理解できないから関心がないのか、関心がないから理解できないのか、アンセルムスは「知解を求める信仰」(fides quaerens intellectum)について述べているが、結局よくわからない。おそらく、数学の問題にはボンクラの私などには想像もつかぬ魅力があるのだろう。しかし、たといその魅力がどんなに素晴らしいものであったとしても、今の私は馬鹿の一つ覚えのように次のようなカミュの言葉を繰り返すしかない。「真に重大な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることだ。」周知のように、カミュはこの哲学の根本問題にガリレオの問題を対比させている。ガリレオは火炙りの刑の危機に瀕して自分の主張を撤回したが、カミュはこの撤回を懸命な判断だったと言う。ガリレオの問題は自らの命を懸けるに値しないものだったからだ。ガリレオはまた、「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」と述べているが、この宇宙という書物は校舎の屋上から飛び降りるしかなかった子にとって一体どんな意味があるのだろうか。私は数学の言葉で書かれた書物とは別の書物を求めざるを得ない。それは垂直の言葉で書かれた書物であり、そこでは「問題なし」が決して理想とされることはないだろう。