「問題なし」という問題(9) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

「問題なし」という問題(9)

レマルクの「西部戦線異状なし」(原題: Im Westen nichts Neues)の「異状なし」もまた醜悪なる「問題なし」の一つであろう。同様にかつての大本営発表も連戦連勝という意味での「問題なし」を報じ続けたわけだが、今となっては醜悪を通り越して痴呆としか思えない。そんなにも「問題なし」が大事なのか。しかし厳密に言えば、「問題なし」が醜悪なのは偏にその欺瞞性に原因があると考えられる。すなわち、本当は「問題あり」なのに無理をして「問題なし」と偽っていることが醜悪なのだ。実際、殆どの人は未だ「問題なし」に問題を見ようとしない。と言うより、「問題なし」が悪だとは全く思っていない。「問題なし」は依然として日常の理想であり続けている。猫も杓子も「問題なし」。僭越ながら、私はその理想を問題にしたい。「問題なし」には太宰治が耳にしたというニヒリズムの音がするからだ。トカトントンがその音だ。通常、それは復興を象徴する希望の音だと思われている。しかし、私には絶望の音にしか聞こえない。いや、「問題なし」は一般的にはやはり善だろう。善なのに、あるいは善だからこそ、絶望の音がする。何故か。その理由を明らかにすることを通じて、「問題なし」の楽園・パラダイスの限界を打破したい。所詮、それは殆ど誰にも理解されぬ「必敗の戦い」でしかないけれども。