アウトサイダーの求める正義(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

アウトサイダーの求める正義(10)

稚拙で杜撰な思耕の連続で忸怩たる思いだが、私には一つの確信がある。「人が人間として本当に正しく生きようとすると、否応なくアウトサイダーにならざるを得ない」という確信だ。その確信を更に深めるために、私は人間と伝統との関係を問題にしたいと思った。この場合の伝統には慣習とか掟とか仕来りも含まれるが、人間として生きる正義は往々にしてそうした広い意味での伝統に反抗することになる。何故か。伝統はいつしか経年劣化し、人間の生を抑圧するものと化すからだ。とは言え、私は伝統そのものが悪だとは考えていない。伝統はそもそも人が快く生活する過程で形成されたものだ。従って、殆どの人は伝統を尊重することで平穏無事に暮らしていくことができる。そうした体制順応の生活にインサイダーの幸福があるのも間違いない。しかし、伝統は絶対的なものではない。やがて古くなり、それにしがみつこうとするインサイダーの幸福を腐敗させる。そこで古き伝統に反抗するアウトサイダーが登場し、新しき伝統を生み出していく…というのが私の基本的なシナリオだが、どうも上手く展開しない。その理由は幾つか想定されるが、おそらく「何が伝統を古くするか」という問いが鍵になるだろう。私はそれを正統との関係で考えた。すなわち、伝統に正統が胚胎している間は古くならないが、それがなくなると腐敗し始める、という具合に。私はその過程を和服から洋服への伝統の推移で描こうとしたが失敗した。日本人が日常的に(冠婚葬祭以外で)和服を着ることが殆どなくなった現実において、和服の伝統の衰退には違いないとしても、それは和服を着る正統とは厳密に区別しなければならない。今は洋服を日常的に着ることに正統が移行しているが、将来再び和服に正統が宿るかもしれない。重要なことはあくまでも不可視の正統だ。インサイダーは伝統に流されやすいが、アウトサイダーは伝統よりも正統の見えない力に反応する。伝統は腐敗するが、正統はしない。しかし、圧倒的多数は依然として伝統を尊重しようとするインサイドにおいて、見えない正統の力だけで対抗するしかないアウトサイダーの戦いは苦しい。かつて国会議事堂前や新宿の路上で、あるいは天安門や中環の路上で戦った若者たちは今どうしているだろうか。老いてなおアウトサイダーとして戦っているだろうか。アウトサイダーの求める正義の生き延びる道を教えよ。