デクノボウの一歩(7)
世界がインサイダーとアウトサイダーから成っているとしても、単純に二分することはできない。問題は複雑に入り組んでいる。例えば、ユダヤだけが幸福になる世界では、アラブはアウトサイダーになるしかないが、その関係性は絶対ではない。と言うより、それを絶対的な関係性にしないために、アラブは戦っている。そのデクノボウたちの中には当然、アウトローのテロリストになる者も出てくるだろう。テロリストとしての一歩もデクノボウの一歩に違いない。しかし、それは言わば「窮鼠猫を嚙む」的な一歩にすぎず、決して究極的な理想へと通じる一歩ではない。そもそも何のためのテロリズムか。ユダヤ優勢の関係性を転覆させて、ユダヤをアウトサイダーにしたところで問題は解決しない。ディアスポラの辛酸ならユダヤは既に嫌と言うほど嘗め尽くしている。とは言え、テロリズムがアウトサイダーの已むに已まれぬ一歩であることは残念ながら認めざるを得ない。来る日も来る日も虐められている子が、その毎日に耐えきれなくて思わず虐める相手をナイフで刺す。相手を刺さなければ自分を刺すしかない現実は極めて深刻だ。どちらを刺してもテロリズムであることに変わりはない。ならば、ナイフ不要の道はないか。これもまたキレイゴトにすぎないのか。この世界の「どこにもない場」を求めるデクノボウは、この世界の支配者によってアウトサイダーであることを余儀なくされる。デクノボウはアウトサイダーからの一歩を踏み出すべきだが、それはインサイダーへのテロリズムではない。そこには垂直の力が全く働いていない。邪道だ。
デクノボウの一歩(6)
デクノボウは「木偶の坊」(木の人形)であり、そこから「役立たず」の象徴になった。通常、我々は幼い頃から「他人様(ひとさま)に迷惑をかける人にだけはなるな。そして、少しでも他人様の役に立つ人になれ」と親や教師から繰り返し言われて育ってきた。つまり、「デクノボウにだけはなるな」ということだ。しかし、この世界で「役に立つ」とはどういうことか。家庭では親の言う通りに、学校では教師の言う通りに、会社では上司の言う通りにすることか。確かに、そうすれば親や教師や会社の「役に立つ」ことはできる。しかし、それでいいのか。「いい」と躊躇なく言える人は、この世界の内側で幸福に生きられるに違いない。インサイダーの幸福だ。それに対して少しでも違和感のある人は、この世界の片隅に、場合によっては外側に追いやられ、アウトサイダーの悲哀を味わう。世界がインサイダーとアウトサイダーから成っているとすれば、アウトサイダーは当然デクノボウと見做される。しかし、デクノボウは「能無し」とは微妙に違う。能力がなくて「役立たず」になることもあるが、優れた能力を持ちながら「役立たず」と思われることもある。結局、インサイダーとして幸福に生きることに「役に立つ」能力、すなわち今ある世界(既存社会)の維持・発展に資する能力以外は意味がない。或る作家は新しき世界の表現を求める詩人たちの歴史を「蕩児の家系」と称したが、そこにはインサイダーの幸福を拒まれた(あるいは主体的に拒絶した)デクノボウの系譜も流れ込む。デクノボウはこの世界の秩序に合わせて生きられない。だから、始終生きづらさを感じる。この世界は本当じゃない。腐敗していると思う。デクノボウは如何なる一歩を踏み出すのか。
デクノボウの一歩(5)
殆ど誰にも読まれていないのをいいことに勝手なことばかり書き散らしているが、私は本気で「デクノボウの一歩」にユートピアへの可能性を懸けている。言うまでもなく、デクノボウの直接の由来は宮澤賢治の「雨ニモマケズ」だが、若きコリン・ウイルソンの「アウトサイダー」にも通底している。すなわち、通常の世界に生きながら常に「何かおかしい。このままでは駄目だ」という違和感に苛まれている人だ。そういう人は世界から疎外され、アウトサイダーは文字通り世界の片隅に追いやられる。その代表的人物はラスコオリニコフやムルソーのように犯罪者となるが、アウトサイダーは必ずしもアウトローになるとは限らない。両者は厳密に区別されるべきだ。確かに、この世界の生きづらさは往々にして犯罪を生むが、単なる法の逸脱(侵犯)ではユートピアへの究極的関心にまで至らない。実際、ラスコオリニコフの真の苦悩は「非凡人である自分の犯した罪(殺人)は罰に値しない」という確信が根柢から揺らぎ崩壊した現実にある。その犯罪(crime)は罪(sin)に至り、彼は明らかにアウトローの次元を超えてい る。そして、大地に接吻するラスコオリニコフはユートピア数歩手前にいる。私がここで問題にしたいことは、そうしたアウトローとしての犯罪者の次元を超える究極的関心なのだ。その体現者としての可能性を、アウトローやアウトサイダーよりも日常的な存在であるデクノボウに見出そうとしているにすぎない。
デクノボウの一歩(4)
誤解を恐れずに敢えて火中の栗を拾えば、障害者もまたデクノボウと見做される。水平の次元で通常に生活する基準からすれば「役立たず」でしかないからだ。満員電車などの混雑した場所に車椅子の人がいれば迷惑になるし、知的障害や視覚・聴覚障害のある人と一緒の授業はその進度が必然的に遅くなる。それでも最近はインクルーシブ教育に代表されるように、障害者と健常者の区別をなくす道が摸索されている。率直に言って、私には未だよくわからない。差別をなくすのは当然だが、区別までなくすべきなのかどうか。確かに、その方向に理想があることは間違いない。インクルーシブ教育にしても、大阪の或る小学校での実践の様子を先日テレビで観たが、障害児と共に試行錯誤しながら日々を過ごす子供たちや先生方の姿は素晴らしいと思った。しかし、それは未だ受験とは無縁の小学校に限定される素晴らしさではないか。同じ小学生でも、中学受験を目指している小学生に障害児との共生を試行錯誤している時間的・精神的余裕があるとは思えない。それとも中学受験など諦めて、障害児との共生に専念すべきだろうか。それは双方にとって好ましくないことだ。と言うのも、障害のあるなしにかかわらず、人には能力の違い、理解する速度の違いがあるからだ。障害があっても能力の高い人はいるし、障害がなくても理解の遅い人もいる。従って、それぞれの状況に応じた区別はやはり必要になってくると私は思う。全てを無条件に一緒にすることが共生ではない。全ての牛を黒くする闇がインクルーシブ教育の本意ではないように。能力の高い障害者はそれに特化したクラスで学んだ方がいい。少なくとも能力の高い健常者と同じクラスで競う必要はない。クラスは別でも競い合うことはできる。この点、上手く表現できないが、オリンピックとパラリンピックの区別に即して言えば、パラリンピックは決して「程度の低い障害者たちのオリンピック」などではない。次元が全く違うし、そもそも優劣の問題ではない。確かに、記録的には障害者は健常者に劣る(これは義手・義足などの発展によって将来逆転する可能性はある)が、記録やメダルの色に人間の究極的関心があるのではない。むしろ、パラリンピックにおいての方が究極的関心は鮮明になる。しかし、水平の次元の価値観だけで判断すれば、障害者は「機能的に劣った人」であり、パラリンピックも「低次元のオリンピック」でしかない。そして、水平的な関心は記録とかメダルの色といった世俗的なものに集中する。そうした水平的なものが支配する世界に風穴を開けることがデクノボウの一歩になる。障害者は健常者と共に人間になるべきだ。
デクノボウの一歩(3)
この世界には様々なデクノボウがいる。ちなみに、先日観ていたドラマの中に、高校生が「美術の授業って無駄だよね」と話している場面があった。美術に限らず、受験科目ではない授業は全て無駄なのだろう。従って、主要科目の成績など意に介さず、美術の授業を楽しみにして絵を描くことばかりに熱中している生徒はデクノボウと見做されるに違いない。尤も、この生徒が後に棟方志功のような画家にでもなれば話は別だ。デクノボウを嘲笑する話が天才のエピソードになる。実際、デクノボウと天才は紙一重だが、一般的には皆「デクノボウにはならない」という無難な道を選ぶ。何故か。デクノボウは人の役に立たず、結果的にフツーの生活ができないからだ。良い学校に行けないし、良い会社にも入れない。しかし、デクノボウは本当に「役立たず」なのだろうか。確かに、学校でも会社でも良い成績を上げられず、皆から「能無し」と罵られる。しかし、それは単にデクノボウの美質が数値化を拒み、学校や会社での評価の対象にならないだけではないか。余談ながら、高校野球の強いチームには必ず良い補欠がいるそうだ。その補欠は野球が上手くないので決してレギュラーにはなれない。殆ど試合に出ることはなく、選手と言えるかどうかも定かではない。しかし、いつも率先して熱心に練習するし、その準備と後片付けを完璧にする。試合になればベンチから声を枯らしてチームメイトに声援を送り続ける。この補欠の存在は試合の勝敗に直接関係するものではない。しかし、このムードメーカーの補欠がいるからこそ、チームは結束し実力以上の力を発揮することができる。野球技術に優れている有能な選手に比べれば、この補欠は明らかにデクノボウだ。しかし、「役立たず」ではない。しっかりとチームを結束させる役に立っている。ただ、現実の水平の次元には、デクノボウの「役」を正当に評価する基準がないだけのことだ。デクノボウは垂直の次元においてこそ正当に評価される。いや、垂直の次元は不可視の「どこにもない場」なので、そもそも如何なる評価も意味を成さない。先の者が後になり、後の者が先になる。誰もがデクノボウの奇妙な美質を認めていながら、それを現実に表現する術を知らない。それにもかかわらず、評価を超越した(無理に評価すれば「役立たず」でしかない)デクノボウなくして、この現実世界は成り立たない。むしろ、現実世界の歪みに対応できるのはデクノボウの垂直の力しかないのだ。デクノボウは断じて単なる御伽噺の世界の住人ではない。デクノボウの垂直性が現実世界で生き延びる道を摸索せよ。それがデクノボウの一歩に繋がる。
デクノボウの一歩(2)
美しい言葉はいくらでも紡ぎ出せる。しかし、言葉が戦車に勝つことはない。それが現実だ。古来、戦争を終結させてきたのは圧倒的な軍事力の差であった。すなわち、「もうこれ以上、奴等とは戦えない」と相手に戦意喪失させるほどの力の差だ。しかし、核兵器の登場によって、その差を示すことが事実上不可能となった。差を示すどころか、核兵器の使用自体が敵味方関係なく人類の滅亡をもたらしてしまうからだ。結果、戦争は通常兵器に限定され、否応なく団栗の背比べの茶番が繰り返されることになる。これでは終戦の落としどころが永久に見つからない。ただ双方疲れ果てての停戦に陥るだけで、暫くすると再び戦争は始まる。広島・長崎における核の最初で最後の実戦使用以後、もはや軍事力で戦争を終結させることは原理的に不可能になった。かろうじて核の抑止力がブレーキをかけているように見えるが、「核を使いたくても使えない」という状況は皮肉なことに言葉の力で保たれている。それは学校が攻撃されて多くの子供たちが犠牲になる場合も同様だが、その暴挙を糾弾する人道主義の言葉は戦車以上の力を持つ。実際、無法な殺し合いの戦争にも一定の規範が求められる。それは「人間として決してしてはならないこと」であり、そこに見出されるのはやはり言葉の力だ。その力はハーグ法とかジュネーヴ法といった国際人道法に結実するが、私がここで問題にしたいことはそうした消極的な言葉の力ではない。いや、「消極的」という言葉には語弊があり、適切ではないかもしれない。確かに、野獣の如き本能が剥き出しになる戦争においても極力理性を保とうとする言葉は必ずしも消極的とは言えない。しかし、私はもっと積極的に戦争の悪と対峙する言葉の力を問題にしたいのだ。それは戦争を引き起こす水平の力(暴力)と真向から戦う垂直の力でもある。例えば、ベトナム戦争当時にティック・クアン・ドックという一人の僧を焼身自殺に導いた仏教の教えだ。焼身自殺そのものは直接戦争に向けられたものではなかったが、間違いなく水平の次元を切り裂く垂直の力に貫かれている。この世のものではないが、あの世のものでもない。私はそうしたこの世とあの世の接点からの行動に垂直的言葉を読み取るが、水平的な世界の常識(コモンセンス)からすれば所詮デクノボウの愚挙でしかないだろう。事実、マダム・ヌーはティック・クアン・ドックの焼身自殺を「単なる人間バーベキュー」と称した。このマダム・ヌーの水平的言葉の醜悪さを白日の下に晒し、それを遥かに凌駕する垂直的言葉とは何か。それは決して単に美しいだけの言葉ではない筈だ。戦車に負けない言葉、水平に流されていく世界を垂直に屹立させる言葉を発すること、それこそがデクノボウの一歩に他ならない。
デクノボウの一歩
ガザに「ケンクヮヤソショウガアレバ」、デクノボウは「ツマラナイカラヤメロ」と言う。しかし、アラブとユダヤの喧嘩は已やまない。デクノボウは無力だ。喧嘩を已めさせる一台の戦車も所有していない。ただ「ツマラナイカラヤメロ」と繰り返すばかり。所有しているのは言葉だけだ。そして、我々が現実に生きる水平の次元では、言葉はいつもキレイゴトでしかない。しかし、垂直の次元では全てが一変する。水平の次元では無力でしかなかった言葉が戦車以上の絶大な力を発揮する。そもそも喧嘩を已めさせる力など戦車にはない。むしろ、戦車は喧嘩をますます大きくする。況や核兵器においてをや。戦争を已めさせるのは軍事力ではなく、やはり言葉の力であろう。デクノボウは沈黙すべきではない。無力感に苛まれながらでも、「ツマラナイカラヤメロ」という言葉を発し続けねばならない。デクノボウにできることはそれだけだ。垂直の力に貫かれて、その力を言葉にしていく。サウイフモノニワタシハナリタイ。
垂直の森(10)
私が勝手に自らのライフワークと思い込んでいるものは、今や「垂直の森の実現」だと明言できる。しかし、その内実はこれまで述べてきたことと余り変わらない。すなわち、近代化と共に世俗化された現代社会に失われた次元を取り戻すこと、これに尽きる。それは聖なる次元だが、その喪失は近代化の運命(不可避の必然)だと言えよう。世俗化された人は「魔術の園」(Zaubergarten)から解放されて、総じて合理的で便利で経済的に豊かな生活を手に入れた。つまり、近代人にとって聖なる次元は迷信渦巻く「魔術の園」でしかなかった、ということだ。しかし、本当にそうか。「魔術の園」は聖なる次元の一面、厳密に言えば、聖なるものが実定化された堕落態にすぎないのではないか。「魔術の園」は決して聖なるものの本来の姿(本質)ではない。少なくとも私はそう考え、その堕落態を「神聖なもの」と称して「聖なるもの」それ自体と区別している。実際、「魔術の園」もさることながら、神聖なものは王権神授説などによって人々を抑圧する機能(支配の正当化)を果たしてきた。その古き体制が近代化=世俗化によって一掃され、世界が曲がりなりにも水平化されたことは理想社会への大きな前進であったに違いない。それは水平的にどこまでも延びていく幸福な生活を人々に夢見させた。パラダイスの夢だ。既に環境破壊や経済格差が致命的に深刻化し、もはや薔薇色の右肩上がりの成長発展は望めないものの、人々はパラダイスの夢を未だ捨て切れないでいる。いや、捨てる必要などないのかもしれない。水平的に生きれば必然的に不平等が生まれてくるが、繰り返し述べているように、水平化は平均化ではない。この点、少し分かりにくいかもしれないが、水平化は平等な競争の前提であって、平等の強制による平均化された共生をもたらすものではない。共生の強制はパラダイスを歪める。経済成長の或る程度の抑制は避けられないとしても、水平的な生活の幸福を求めるパラダイスの夢それ自体を諦める必要はない。ただし、パラダイスは暴走する。人の欲望には限りがなく、パラダイスの夢はニヒリズムへと転落しつつある。それもこれも人の魂の糧に必要不可欠な聖なる次元が失われてしまったからだ。肉体の糧はパラダイスで満たされても、魂の糧は別だ。他律的な神聖なものの君臨に対する近代化=世俗化の自律を求める挑戦は基本的に正しいが、古き体制の汚れた盥の水と一緒に大切な赤子(聖なるもの)まで流してはならない。しかし、赤子は如何にして救われるのか。汚れた盥の水だけ流すことは可能なのか。聖化と世俗化のcoincidentia oppositorumが問われている。そして、その未完のプロジェクトが試される場こそが垂直の森なのだ。垂直の森と垂直の次元は違う。垂直の次元は「どこにもない場」だが、垂直の森は現実にある。そこは水平の次元で垂直的人間が祝祭的に共働(活動)する場に他ならない。
垂直の森(9)
宗教的段階とは何か。私は垂直の次元として理解している。すなわち、垂直の次元と同様、宗教的段階もまた実体としては「どこにもない場」なのだ。従って、宗教的段階への飛躍と様々な実定宗教の教団への加入とは厳密に区別されなければならない。或る宗教の熱心な信者だからと言って、その事実が必ずしも宗教的段階への飛躍を意味しない。むしろ、一つの宗教に見境もなく狂信的にのめり込んで行けば行くほど、宗教的段階から遠ざかる。とは言え、私は実定宗教を一概に否定するつもりはない。確かに、垂直の力に貫かれたイエスの教えがキリスト教として実定化されると、そこには歪みが生じる。イエスとキリストの間には質的断絶がある。それにもかかわらず「イエス=キリスト」を可能にするケノーシスを信じることが宗教的段階への飛躍に繋がるとしても、その断絶を超える受肉は決して実定化できないものだ。しかし、実定化されなければ、イエスの教えが歴史の中で人々を救う現実的な力にはならなかったであろう。これは神道や仏教などの他の実定宗教についても言えることだ。自然宗教にせよ、創唱宗教にせよ、その教えが組織化され、目に見える教会として発展すると、垂直の力は否応なく変質する。そして、宗教の堕落が始まる。その堕落を嫌悪して目に見えない教会の神秘的宗教が好まれたりするが、それは一時の気休めにすぎない。「どこにもない場」としての垂直の次元は神秘に違いないが、それを核とする宗教になるや否や実定化は免れない。そこに宗教の運命がある。その運命を承知の上でボンヘッファーは「非宗教的キリスト教」を摸索したが、そもそもルターの宗教改革自体が「キリスト教の非宗教化」の試みだったと言えよう。もはや誤解はないと思うが、非宗教化は宗教の否定ではない。ブルトマンの非神話化論が神話の否定ではなく、あくまでも神話の現代的意味を受け取り直すものであったように、非宗教化は宗教に胚胎する垂直の力を現代に甦らせるものだ。逆説的に言えば、そうした非宗教化の試みこそが宗教的段階への飛躍に他ならない。垂直の森はその飛躍に逆対応して形成される。
垂直の森(8)
「この道より我を生かす道なし この道を歩く」とは実篤の言葉だが、人生の苦悩の大半は自分の「この道」が定まらないことに起因する。自分とは何か。自分は何をするために生まれてきたのか。こうした問いの発生は既に倫理的段階に生きていることの証でもある。それ以前の美的段階では、風の吹くまま気の向くまま、自分の「この道」など全く意に介することなく自由に生きているように見える。しかし、美的段階の自由は本当の自由であろうか。「風の吹くまま気の向くまま」とは畢竟「傾向性の奴隷」にすぎない。すなわち、自然の快楽、主にマスコミによってつくられた「カッコ良さ」に無意識の裡に踊らされているだけだ。そこには明確な自分の意志がない。ただ、全て自分で決めているという錯誤的気分だけがある。ちなみに、よく青春ドラマの中で不良のツッパリ生徒が「オレはセンコーの言いなりになんかならねぇ。オレは自由だ!」と喚いているシーンがあるが、所詮その奇抜なファッションも含めて何かの猿マネでしかない。ツッパリを余儀なくされる不良生徒の苛立ちはホンモノだとしても、そこに本当の反抗はない。従って、自由もない。真の自由は倫理的段階において求められる。その理路だけを簡単に述べれば、自由の追求は「センコーの言いなりになんかならねぇ」という他律への反撥から始まり、「自分で一切を決める」という自律に辿り着く。美的段階から倫理的段階への移行は他律から自律への移行だと言ってもいい。しかし、残念ながら、倫理的段階の自律において真に自由に生きられる、というわけにはいかない。ヘーゲルが言うように、「他律と自律の違いは主人が外にいるか内にいるかの違いにすぎない」からだ。確かに、自律は他者の支配からの解放ではあるが、今度は自己を雁字搦めにしてしまう。自律にも真の自由はない。とすれば、真の自由はどこにあるのか。結論から言えば、それは神律を求める宗教的段階にある。しかし、神律とは何か。それは新たな他律ではないのか。この疑念こそが垂直の森への道を切り拓く。