垂直の森(9)
宗教的段階とは何か。私は垂直の次元として理解している。すなわち、垂直の次元と同様、宗教的段階もまた実体としては「どこにもない場」なのだ。従って、宗教的段階への飛躍と様々な実定宗教の教団への加入とは厳密に区別されなければならない。或る宗教の熱心な信者だからと言って、その事実が必ずしも宗教的段階への飛躍を意味しない。むしろ、一つの宗教に見境もなく狂信的にのめり込んで行けば行くほど、宗教的段階から遠ざかる。とは言え、私は実定宗教を一概に否定するつもりはない。確かに、垂直の力に貫かれたイエスの教えがキリスト教として実定化されると、そこには歪みが生じる。イエスとキリストの間には質的断絶がある。それにもかかわらず「イエス=キリスト」を可能にするケノーシスを信じることが宗教的段階への飛躍に繋がるとしても、その断絶を超える受肉は決して実定化できないものだ。しかし、実定化されなければ、イエスの教えが歴史の中で人々を救う現実的な力にはならなかったであろう。これは神道や仏教などの他の実定宗教についても言えることだ。自然宗教にせよ、創唱宗教にせよ、その教えが組織化され、目に見える教会として発展すると、垂直の力は否応なく変質する。そして、宗教の堕落が始まる。その堕落を嫌悪して目に見えない教会の神秘的宗教が好まれたりするが、それは一時の気休めにすぎない。「どこにもない場」としての垂直の次元は神秘に違いないが、それを核とする宗教になるや否や実定化は免れない。そこに宗教の運命がある。その運命を承知の上でボンヘッファーは「非宗教的キリスト教」を摸索したが、そもそもルターの宗教改革自体が「キリスト教の非宗教化」の試みだったと言えよう。もはや誤解はないと思うが、非宗教化は宗教の否定ではない。ブルトマンの非神話化論が神話の否定ではなく、あくまでも神話の現代的意味を受け取り直すものであったように、非宗教化は宗教に胚胎する垂直の力を現代に甦らせるものだ。逆説的に言えば、そうした非宗教化の試みこそが宗教的段階への飛躍に他ならない。垂直の森はその飛躍に逆対応して形成される。