デクノボウの一歩(2)
美しい言葉はいくらでも紡ぎ出せる。しかし、言葉が戦車に勝つことはない。それが現実だ。古来、戦争を終結させてきたのは圧倒的な軍事力の差であった。すなわち、「もうこれ以上、奴等とは戦えない」と相手に戦意喪失させるほどの力の差だ。しかし、核兵器の登場によって、その差を示すことが事実上不可能となった。差を示すどころか、核兵器の使用自体が敵味方関係なく人類の滅亡をもたらしてしまうからだ。結果、戦争は通常兵器に限定され、否応なく団栗の背比べの茶番が繰り返されることになる。これでは終戦の落としどころが永久に見つからない。ただ双方疲れ果てての停戦に陥るだけで、暫くすると再び戦争は始まる。広島・長崎における核の最初で最後の実戦使用以後、もはや軍事力で戦争を終結させることは原理的に不可能になった。かろうじて核の抑止力がブレーキをかけているように見えるが、「核を使いたくても使えない」という状況は皮肉なことに言葉の力で保たれている。それは学校が攻撃されて多くの子供たちが犠牲になる場合も同様だが、その暴挙を糾弾する人道主義の言葉は戦車以上の力を持つ。実際、無法な殺し合いの戦争にも一定の規範が求められる。それは「人間として決してしてはならないこと」であり、そこに見出されるのはやはり言葉の力だ。その力はハーグ法とかジュネーヴ法といった国際人道法に結実するが、私がここで問題にしたいことはそうした消極的な言葉の力ではない。いや、「消極的」という言葉には語弊があり、適切ではないかもしれない。確かに、野獣の如き本能が剥き出しになる戦争においても極力理性を保とうとする言葉は必ずしも消極的とは言えない。しかし、私はもっと積極的に戦争の悪と対峙する言葉の力を問題にしたいのだ。それは戦争を引き起こす水平の力(暴力)と真向から戦う垂直の力でもある。例えば、ベトナム戦争当時にティック・クアン・ドックという一人の僧を焼身自殺に導いた仏教の教えだ。焼身自殺そのものは直接戦争に向けられたものではなかったが、間違いなく水平の次元を切り裂く垂直の力に貫かれている。この世のものではないが、あの世のものでもない。私はそうしたこの世とあの世の接点からの行動に垂直的言葉を読み取るが、水平的な世界の常識(コモンセンス)からすれば所詮デクノボウの愚挙でしかないだろう。事実、マダム・ヌーはティック・クアン・ドックの焼身自殺を「単なる人間バーベキュー」と称した。このマダム・ヌーの水平的言葉の醜悪さを白日の下に晒し、それを遥かに凌駕する垂直的言葉とは何か。それは決して単に美しいだけの言葉ではない筈だ。戦車に負けない言葉、水平に流されていく世界を垂直に屹立させる言葉を発すること、それこそがデクノボウの一歩に他ならない。