デクノボウの一歩(4)
誤解を恐れずに敢えて火中の栗を拾えば、障害者もまたデクノボウと見做される。水平の次元で通常に生活する基準からすれば「役立たず」でしかないからだ。満員電車などの混雑した場所に車椅子の人がいれば迷惑になるし、知的障害や視覚・聴覚障害のある人と一緒の授業はその進度が必然的に遅くなる。それでも最近はインクルーシブ教育に代表されるように、障害者と健常者の区別をなくす道が摸索されている。率直に言って、私には未だよくわからない。差別をなくすのは当然だが、区別までなくすべきなのかどうか。確かに、その方向に理想があることは間違いない。インクルーシブ教育にしても、大阪の或る小学校での実践の様子を先日テレビで観たが、障害児と共に試行錯誤しながら日々を過ごす子供たちや先生方の姿は素晴らしいと思った。しかし、それは未だ受験とは無縁の小学校に限定される素晴らしさではないか。同じ小学生でも、中学受験を目指している小学生に障害児との共生を試行錯誤している時間的・精神的余裕があるとは思えない。それとも中学受験など諦めて、障害児との共生に専念すべきだろうか。それは双方にとって好ましくないことだ。と言うのも、障害のあるなしにかかわらず、人には能力の違い、理解する速度の違いがあるからだ。障害があっても能力の高い人はいるし、障害がなくても理解の遅い人もいる。従って、それぞれの状況に応じた区別はやはり必要になってくると私は思う。全てを無条件に一緒にすることが共生ではない。全ての牛を黒くする闇がインクルーシブ教育の本意ではないように。能力の高い障害者はそれに特化したクラスで学んだ方がいい。少なくとも能力の高い健常者と同じクラスで競う必要はない。クラスは別でも競い合うことはできる。この点、上手く表現できないが、オリンピックとパラリンピックの区別に即して言えば、パラリンピックは決して「程度の低い障害者たちのオリンピック」などではない。次元が全く違うし、そもそも優劣の問題ではない。確かに、記録的には障害者は健常者に劣る(これは義手・義足などの発展によって将来逆転する可能性はある)が、記録やメダルの色に人間の究極的関心があるのではない。むしろ、パラリンピックにおいての方が究極的関心は鮮明になる。しかし、水平の次元の価値観だけで判断すれば、障害者は「機能的に劣った人」であり、パラリンピックも「低次元のオリンピック」でしかない。そして、水平的な関心は記録とかメダルの色といった世俗的なものに集中する。そうした水平的なものが支配する世界に風穴を開けることがデクノボウの一歩になる。障害者は健常者と共に人間になるべきだ。