デクノボウの一歩(9) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

デクノボウの一歩(9)

外が内になり、内が外になる。異郷が故郷になり、故郷が異郷になる。「一」(hen kai pan)である垂直の次元が多彩な花々の共演を可能にする。もし我々が現実に生活している水平の次元しか意識しないなら、そこでは個々の花がそれぞれの美醜に一喜一憂して咲くだけだ。尤も、水平の次元にドラマが生まれないわけではない。名もなき花々の共存のドラマもあれば、美を競い合うドラマもある。ただ、共存は共生の一つだが、その幸福な初期段階に留まることは稀であり、大抵は美の競演の葛藤に移行していく。勿論、それ自体は悪ではない。しかし、或る一定の色が美を支配すると世界は歪む。そして、支配の内と外が生まれる。どうしてそのような歪みが生じるのか。本来、色に美醜はない筈だが、現実には区別が生じ、やがてそれは差別に転じる。その過程の解明は私の手に余るので、ここでは支配の現実のみに注目したい。と言うのも、人の生きづらさの殆どはその現実に起因するものと思われるからだ。

 

余談ながら、十月に始まって現在も進行中のドラマに「いちばんすきな花」と題する作品がある。それぞれに生きづらさを抱えた四人(男女各二名)の物語だ。テーマと台詞回しから坂元裕二氏の作品かと思ったが(どうも『カルテット』からの連想のようだ)、脚本は比較的若手の生方美久氏であった。生方氏は三十歳とのことだが、その作品に描かれている生きづらさは正に現代の若者の多くが抱えているものであろう。すなわち、自然に形成された目に見えぬ支配関係の内にいることの生きづらさだ。それは「独裁」というほどのものではない。「独裁」であれば、それは虐めとなる。四人は別に誰かに虐められているわけではない。能力は高い方だし、日常的にもそれなりに無難に働いている。少なくとも食うに困るようなギリギリの生活ではない。しかし、常に何か無理をしている感じがつきまとう。その感じは学校でも会社などの職場でも、多くの人が抱いているものではないか。始終その場の空気を読んで、自分が仲間外れにならないように細心の注意を払う。それほど好きでもないものに興味を示し、いやたとい嫌いなものであっても好きな振りをして、多くの人たちと薄っぺらな友人関係を築いていく。全ては仲間外れにならないため。それがインサイダーの心理だ。当然、その輪の中に入らぬ者はアウトサイダーと見做され、いくら能力が高くてもデクノボウの烙印を押される。おそらく、この烙印は多くの人にとって恐怖でしかないだろう。しかし、そこに垂直の力が働けば世界は一変する。自分の本当に好きなものを明言し、相手の好きなものを尊重することができる。好きなものの内と外を隔てる壁が崩壊する。皆、本当はそれを望んでいるのではないか。最新の流行に後れまいと必死に追い回すのも結構だが、それは見知らぬ誰か(AIかもしれない)がつくった輪にすぎない。その輪の中にいては何も変わらない。垂直の力はインサイダーの輪を粉砕する。その粉砕の後にこそ、本当の友人関係が生まれてくる。生きづらさを抱えた四人の男女もそうやって出会ったものと私は思いたい。