正義のイロニー・イロニーの正義
飢えた子供が空腹の余り思わず饅頭を盗む。盗みは悪だ。しかし、盗まなければ子供は生きていけない。子供は悪くない。生きるための悪は悪くない。そもそも生きるとは食べること、すなわち他のイキモノのイノチを奪うことであり、殺生が悪ならば、生は悪なくして維持できない。従って、生きるための悪は悪くない。しかし、「悪くない悪」とは何というイロニーか。私は昨日、アウトローの歪んだ正義を問題にして「アウトローは悪くない」と述べた。言うまでもなく、そこにもイロニーがある。私は決してアウトローという実存の在り方を容認するものではない。むしろ、ヤクザもハングレもゴキブリのように嫌悪している。それにもかかわらず、アウトローがしばしばドラマの主人公に祭り上げられるのは何故か。その「悪くない悪」に魅力があるからだ。例えば、雲霧仁左衛門という盗賊に大衆は魅了される。ただし、雲霧の「悪くない悪」は「生きるための悪」ではない。それは「生きるための悪」の次元を超えて、インサイダーの正義に挑戦する。周知のように、その雲霧の対極に位置するのが火付盗賊改方の安部式部であり、彼はインサイダーの正義の象徴と言える。こうした雲霧と安倍の対立に私はアウトローの「悪くない悪」とインサイダーの正義の対決を見る。更に言えば、この対決それ自体がイロニーを孕んでいる点にドラマの真骨頂がある。すなわち、安部式部はインサイダーの正義を死守すべき立場にありながら、その腐敗を自覚しており、ライヴァル雲霧の「悪くない悪」に半ば共感しているのだ。果たして、正義とは何か。