垂直の一歩(8)
垂直の一歩は決して一部の高等遊民のみが踏み出す気取ったものではない。しかし、水平的な関心しか持たぬ俗物には縁のない一歩であることも事実だ。これは矛盾ではないか。そうではないことを明らかにするために少し考えてみたい。私は以前に漱石の「馬鈴薯と金剛石」という対比に ついて思耕したことがある。人生には馬鈴薯の必要と金剛石の必要がある。馬鈴薯は生きていくために誰もが必要不可欠とするものの象徴だが、それだけでは人生は満たされない。食うためだけの人生は虚しく、そこには剥き出しの生を華やかに彩る金剛石のようなものも必要になる。人はパンのみにて生くるにあらず。確かに馬鈴薯は生に必要不可欠だが、不要不急の金剛石を求める次元にこそ人生の本質(生きるに値する意味)がある。こうした高等遊民の人生が食うことだけに齷齪している人生から一歩踏み出していることは間違いない。しかし、それは垂直の一歩ではない。馬鈴薯が肉体の糧になるのは自明だが、金剛石は魂の糧にはならないからだ。尤も、高価な金剛石の収集を生き甲斐にしている人はいるだろうが、そうした生き甲斐と魂の糧は質的に異なっている。この意味において、高等遊民もまた水平的な関心しか持たぬ俗物の一人だと言う他はない。高等遊民には未だ垂直の一歩を踏み出す究極的関心はない。