GewaltとMacht | 新・ユートピア数歩手前からの便り

GewaltとMacht

プロレスラーのように屈強な大男とケンカをしても私は勝てない。惨めに殴り倒されるだけだ。従って、もしその大男が不正なことをしても私に腕力でそれを止める術はない。ただし、「お前は間違っている!」と叫ぶことはできる。大男の暴力(Gewalt)に私は言葉の力(Macht)で対抗するしかない。しかし、腕力で勝てないのに言葉で勝てるだろうか。私の言葉が法的に正しいことを示したところで、それを支持する力が暴力を抑え込まなければ勝てない。結局、暴力以上の公的権力の行使なくして言葉の勝利はあり得ない。しかし、厳密に言えば、それは言葉の力の勝利ではない。少なくとも私は警察とか軍隊といった公的権力の介在しない「言葉の純粋な力」を信じたい。屈強な大男の不正を言葉だけの力で正したい。暴力と言葉の力は質的に異なっている。力の次元が違うと言ってもいい。暴力を抑え込む公的権力もまた本質的には暴力と同じ次元に属する。私は暴力に言葉の力だけで対抗したいのだ。果たして、そんなことが可能だろうか。

 

かつて加藤周一氏は「戦車と言葉」という対比について語ったが、そのことから私はいつも天安門事件の際に戦車の前に立ちはだかった通称タンクマンと称される人物を連想する。尤も、この人物は謎に満ちていて、特に何らかの言葉を発したわけではないが、私は勝手に言葉の力を象徴する存在だと思ってきた。しかし最近、すでに周知のことかもしれないが、それが中国共産党の自作自演であるという説があることを知った。すなわち、わざと世界中の目が注目している場で中国共産党の軍はあくまでも人道主義的に行動しているとアピールするためのプロパガンダだった、ということだ。もしそれが事実なら、やはり戦車には勝てないのだろうか。戦車は平気で人を踏み潰していく――これが現実なのか。この暴力に満ちた現実に言葉の力は如何にして対抗し得るか。