私は正しい | 新・ユートピア数歩手前からの便り

私は正しい

国安法下の香港の窮状を報じる番組を観た。併せて「ロシア:洗脳される国民」と題するフランス制作のドキュメンタリイも観た。こうした戦慄すべき現実に直面すると、自分の無力さを絶望的に思い知らされる。こんな殆ど誰の目にも触れない世界の片隅で、グダグダ思耕などしている場合ではない。誰の目にも触れないということは、それだけ安全ということでもあり、どんなにラディカルな発言をしても私に投獄の恐れはない。ノンキなものだ。しかし、「ラディカルな発言」とは何か。実際に自由を奪われた人の苦しみに寄り添う善きサマリア人とは一線を画し、過酷な現場ではできない「究極的な問題についての思耕」こそが自分の使命だと私は開き直った。確かに、独裁者の抑圧からの解放は全世界にとって喫緊の課題だろう。そのために多くの人たちが連帯して戦っている。しかし、究極的な問題は「その先」にある。抑圧から解放された人が生きる自由にこそ究極的な問題はある。白は救済の色ではない。いや、一つの色に染まることを強制される状況では白は人を救う色になる。しかし、それは刹那的な救いにすぎない。人は白に止まり得ない。白から様々な色を生み出していく。白は解放の色ではあるが、色が乱舞する自由を象徴することはできない。その自由にこそ究極的な問題がある。その格闘なくして、真の解放もあり得ない。一時は解放されても、再び抑圧は生み出される。必ず生み出される。だから私は究極的な問題に没頭することを決断した。善きサマリア人にはなれないが、私には使命がある。私は正しい。その正しさを微塵も疑っていない。しかし、どうやら私は間違っているようだ。正しいけれど、間違っている。こんな便りを書いている場合ではない。