ユートピアと恩寵
「今日の香港は明日の台湾」と危惧されているが、そんなことになれば我々にとっても対岸の火事ではなくなるだろう。「もはや戦後ではない」と言われて久しいが、ボーッと平和を享受しているうちに、いつの間にか戦前を生きているという不安が高まっている。杞憂であることを願うが、万が一の覚悟だけはしておくべきだ。すなわち、我々の独立が脅かされる事態になったら、どうすべきか。当然、攘夷一択のナショナリズムが非常な盛り上がりを見せるに違いない。そこには「強さの正しさ」に対する疑念は微塵もなく、悪しき強さには善き強さで立ち向かうしかないと誰もが信じる。それはやがて悪しき侵略者と徹底的に戦う陶酔へと発展するだろう。しかし、そのような陶酔の真只中で、もし「弱さの正しさ」を主張する人が現れたらどうなるか。「強さには強さで対抗してはならない」と言って、非暴力・無抵抗を説き続ける聖人の登場。おそらく、陶酔せる人たちはその聖人を「非国民!」と罵ってブン殴るだろう。かなり冷静な人でも、その正義を認めながらも、「弱さの正しさ」にはキレイゴトしか見出さないと思われる。当然の反応だ。非暴力・無抵抗の正義を貫くことが理想であったとしても、現実には侵略者への屈服でしかない。そのような屈辱の現実をただ甘受するだけの理想は信じるに値しない。「弱さの正しさ」というキレイゴトの理想よりも「強さの正しさ」を信じて戦う現実に徹するべきだ。殆どの人はそう思い、私も基本的には例外ではない。しかし、それにもかかわらず、理想を貫く道は無責任にキレイゴトを掲げるだけではないとも思っている。未だ上手く表現できないので誤解は必至だが、私は「強さの正しさ」を何とかして超克したいと思っている。それは決してキレイゴトではないし、単なる弱さの肯定でもない。鄙見によれば、理想を本当に貫くためには恩寵がどうしても必要になる。では、「強さの正しさ」ではなく、恩寵の働きを信じるとは如何なることか。強さに強さで対抗することをやめても、神風が吹いて悪しき侵略者を追い払ってくれると信じることか。断じてそうではない。それは神の強さに頼ることでしかなく、結局「強さの正しさ」から解放されていないからだ。真の恩寵は、神の前で、神と共に、神なしで「強さの支配」と戦う現実にこそ働く。これもまた未だキレイゴトにしか聞こえないだろうが。